三つ声のコンチェルト⑦
エレフに来て四日目。ようやくこの照りつく日差しにも慣れてきた気がする。暑いのに変わりはないが。気候に対し文句を言っても何も変わることはない。素直に諦め受け入れるのが一番だろう。
前方から男が歩いてくる。浅黒い肌に瘦せ型の体。おそらくこの町に住む者。俺達に目を向けることなく直進し、そして。
すれ違いの瞬間、エドガーが俺の方に寄る。男の伸ばされた手が宙を切った。彼はエドガーを睨み付け、舌打ちを残し去って行く。見ていたマルティナが小さく笑い声を上げる。
「避けるの上手くなってるじゃん」
エドガーはマルティナを一瞥。その後ため息を付いた。
「嬉しくねーよ」
「折角褒めてんのに」
俺は二人の会話に苦笑いを浮かべる。スリに対して捕まえるのではなく、事を起こさない。それが一番の対処法となっていた。
背丈が小さく体の線も細いエドガーは隙が多く見え、いかにも狙われやすい。同じく小柄のヴィオラはマルティナが前に立ちさりげなく守っていた。
「にしても」
エドガーが周囲に目を向ける。
「こんなにすぐリベレフに用事ができるなんてな」
「そうだな」
相槌を打ちつつ視線だけ動かし辺りを見た。今、俺達はリベレフ市内を歩いていた。
乾いた砂の道に石作の建物が続く街並みは、術師協会の置かれるエレフの首都と大差ない。しかし年季の入った建物は亀裂が目立ち、壁には所々落書きが残されていた。人通りは疎ら。この町をよく知るマルティナが今日は極端に少ないと話していた。
直接聞いてはいないがここが治安の悪い区域なのだろう。何故ならそれは、わざわざ問わなくても容易に比較できるのだから。
少し視線を横に動かせば、遠くに背の高い建物が目に入った。一棟や二棟だけでなく建物群として連なり、富の証は見る者を圧倒する。あそこが工業区域だ。
そして、俺達が向かうのはその反対側。この町の深層とも呼べる場所。任務説明時、通りの名前を聞いたマルティナは「ああ、スラム街ね」と呟いていた。彼女はそれ以上場所について話していない。詳しく説明されなくても、状態は何となく予測が付くのだから。
足を進める毎に空気が鈍色に染まっていくようだった。
通りに並ぶ建物は板切れを組み合わせたような家へ変わっていく。密集する家々は無理矢理積み上げたかのように不安定な形を取り、壁が朽ちていても修繕されている様子はない。玄関と呼べるものもなく出入り口に布を張っただけだ。
路上には積み上げられたゴミを漁る子供がいた。服は泥で汚れ、破けた箇所も放置されたまま。そこから覗く四肢は極端にやせ細っている。道の脇には横たわる青年の姿。生きているのか死んでいるのかは分からない。傍らに置かれた平たい容器の中には硬貨が二枚入っていた。
ふと、鼻をつく異臭に顔を顰める。重く湿った臭いの元が何なのかは分からない。腐敗臭のような排水のような、おそらくどちらも。それだけでここが劣悪な環境だとよく分かる。
そして、視線。
通り過ぎる人々、地面に物を置いただけの露天商、住居の影に佇む住民。気が付けば彼らは俺達のことを見ていた。その目に宿すのは明らかな敵意。突如現れた余所者に向ける排他的な意識だった。
俺達は荒事に慣れているし、誰かからの恨みを買い続けながら生きていることは十分に理解している。しかしここまであからさまな、しかも任務の対象ではない人物達から敵視を向けられるのは初めてかもしれない。この場の雰囲気に圧倒されたのか、エドガーは先程より俺に一歩近付き歩いていた。
視界の隅、斜め前方にいる青年二人も例外なく俺達を見ている。その内の一人が建物の壁から背を離し、こちらに歩み寄ろうとする。しかしもう一人の男に肩を捕まれ止められていた。
「やめとけよ。あれ、マルティナだぜ」
すれ違いに声が聞こえた。言われた男がマルティナを見る。彼女も会話に気が付き二人に顔を向けると笑みを浮かべ手を振って見せた。彼らは何か行動を返すのではなく、顔を顰めたまま去って行く。
「有名なんだな」
声をかけるとマルティナは目を細めた。
「術師協会から推薦が来るくらいにはね」
「納得だ」
先日捕まえた違法者達もマルティナのことを知っていた。エレフでの知名度は相当なものなのだろう。
確かに戦闘面において彼女の実力は圧倒的。それ以外にも捜査時の勘の良さや気付き、補助術式など何かと欠かせない能力を持つ。現地の人々がマルティナを恐れるのも頷ける。
それと、今は彼女いることが無益な争いを避ける理由にもなっていた。彼女が居なかったら先程のような男達に絡まれ、最悪暴力沙汰になっていたかもしれない。エレフで名を馳せると言うことは良い厄介払いになるということか。
さらに進むと道に瓦礫と木くずが散乱していた。その横には崩れた家と火災の痕跡。それは一つではない。ここら一体に破壊の傷跡となって刻まれていた。
「なんだ、あれ」
エドガーも辺りを見て呟く。事情を察したであろうマルティナの顔から笑みは消えていた。
「ちょっと待ってて」
彼女はそう言って俺達から離れる。向かう先には日よけの布を頭に巻いた妙齢の女性がいた。二人が何かを話した後、女性の瞳から涙が零れていくのが見える。マルティナはその肩に手を添え、しばらく寄添った後俺達の元へと戻ってきた。
「今のは?」
一連の動作を見て問う。
「知り合い。まぁ、顔見知り程度だけど」
マルティナの視線を追えば、そこにはまだ泣き続ける女性がいた。周囲には多くの人が集まり、肩に触れ、声をかけ、彼女を支えようと傍らに立つ。マルティナの表情に影が落ちた。
「昨日ギャングの抗争があったんだって。それに巻き込まれたって言ってた」
女性から聞いたことを伝え、彼女はゆっくりと歩き出した。俺達もそれに続く。
「リベレフにはいくつかギャングがあってね、特に大きいグループがスカドゥラとベシサールって言うんだけどさ。とにかく争いが絶えないの。昨日の抗争ってのもどうせどっちかがシマ破ったんでしょ」
独り言のように呟かれるこの町の事情。その冷たい声色から察せられる感情は諦めだった。
「そんで、その抗争に便乗してそこら辺の奴が略奪行為」
言葉を続けるマルティナの瞳は前を向いたまま。代わりに俺が辺りを見渡した。崩れた住居の焼け跡から覗く小さな腕、その元で這いつくばる壮年の男性。手と足を失い壁にもたれ掛かる青年、あれはおそらく死体だ。
一軒の建物の前を通り過ぎる。ここら辺では目立つ石作の建物だった。看板は剥がされ何の店か分からないが商店であることは間違いない。しかし出入り口の扉は破壊され開け放たれたまま。そこから見える商品棚には何も飾られていない。略奪により商品を根こそぎ奪われていた。店主と思われる女性の嘆きが耳を掠めていく。「これからどうやって家族を養っていけばいいの」と。
「本当、碌なもんじゃないね」
乾いたマルティナの声が通り抜けていく。俺は、いや、俺もエドガーもヴィオラも彼女の言葉に返すことができなかった。
スリも、スラムも、ギャングも略奪も。俺達には考えられないような常識が、この町では当たり前のものとしてすぐ傍にあった。
この惨状に胸を締め付けられ、一歩毎に重くなる足取りは、俺がこの町の在り方を受け入れていないからだろう。けれども、他人事で在らねばならない。
目の前の悲劇に怒りを覚えても、これらに手を差し伸べることはできない。俺達の仕事は違法者の摘発であり、それ以外のことはできないのだから。




