一節 静穏に潜むバガテル
「それじゃあ」
隣に座るスヴェンが短い言葉と共にグラスを掲げた。それに倣い他の皆もグラスを持ち上げる。一瞬の静寂、この場にいる二十名程の視線は彼ではなく俺に注がれていた。少し気恥ずかしさを覚えるが、理由が理由だけに逸らすわけにはいかない。俺もグラスを持ち正面を見る。皆が準備できたことを確認し、スヴェンが再び口を開いた。
「アイクの一級昇格を祝って!」
スヴェンの音頭を皮切りに「乾杯!」と皆が声を揃え言う。掲げたグラス同士が衝突し、甲高い音が店内に響き渡った。
「おめでとう」「おめでと、アイク」「もう一級なの? 早いねー」「アイクさんおめでとうございます」「頑張ってたもんね」「おめでとー!」「この間の怪我は大丈夫?」「おめでとう」「もう魔具折るなよ」「おめでと」「一級ってどれくらい給料上がるの?」
二級術師から一級への昇格。これはその祝いの席だった。皆が口々に祝福の言葉を述べていく。こんなに大勢から祝われる経験は滅多にないためなんだか照れくさい。
けれども、今の感情の大半を占めるのは喜び。胸の奥にはほのかな熱が広がっていた。
徐々に挨拶も落ち着き、皆は料理や酒に手を付け始める。机に並ぶのはサラダに鶏の丸焼き、数種類の串焼き。チーズや果物の盛り合わせなど、そのほかにも様々な料理が並ぶ。
ここはレストラン『ノクテル』。少し前のちょっとした事件で協力してもらった店だ。
俺が昇格したことをスヴェンに伝えた所、祝いの席を設けようと言う話になり、恩返しも兼ねてこの店を貸切るに至った。最初は執行部のみで行う予定だったが、いつの間にか話は広がり結局全部署まで行き渡っていた。皆が俺のために集まってくれるのは嬉しいことだが。
しかし、当初予定していた三班はエレフから帰れず。一班も仕事が立て込み帰ってくるのは深夜だそうだ。わざわざ長距離通信魔法を用いて謝罪されたが、気を使わせてしまったようでこちらの方が申し訳なくなる。
気が付けば目の前の皿には料理が盛られていた。誰かが取り分けてくれたのか。今も「これも食べるでしょ」と勝手に料理が乗せられていく。
とりあえず、持ったままのエールから片付けるか。グラスには琥珀色の飲料。縁まで泡が立ち溢れそうになっていた。零さないよう慎重に口へと運び一気に流し込む。飲み込む度に僅かな刺激が喉を刺し、柔らかな麦の香りが通り抜けた。久々の酒、体が熱を帯びるようなアルコールの余韻に浸る。
空のグラスを置くと、隣から新たなエールが注がれた。
「アイクもついに一級か」
スヴェンは感慨深げな表情を浮かべ言う。透明なグラスはエールに満たされ、音もなく泡が盛り上がっていく。
「ここに来たときは四級だったのにあっという間だったな」
「自分でも驚いてるよ。フォリシアの事件の功績だけどさ」
話しつつこれまでを思い出す。グラウスに正式に就任した直後、能力の査定で三級へ。その後しばらくして二級に昇格。そしてフォリシアでの竜討伐の実績が認められ一級に至った。
だが僅かな罪悪感が胸に刺さる。
「俺だけ昇格して……正直、申し訳ないと思ってるよ」
喉の奥でつかえていた思いが、酒の勢いに押され零れ落ちる。
皆、命懸けで竜に立ち向かっていた。竜に止めを刺せたのもヴィオラとマリーのサポートがあり、エドガーとマルティナが致命傷を与え、そして最後にフリットが動きを止めたからこそ。そして、何よりノエが俺の命を繋いだから。自分一人の力ではない。皆がいたからこその勝利だったはずだ。
「何言ってんだよ」
隣でスヴェンは鼻で笑う。
「協会がでかい功績一つで簡単に一級なんてやるわけねーだろ。実力だよ、実力」
真っ直ぐに俺を見る新緑色の瞳が柔らかく歪んだ。
「少なくとも、ここにいる奴らはお前の今までの努力を知ってる」
スヴェンにかけられた言葉はかつて親友にかけられたものと似ていた。
脳裏を過るのは当時の光景。疑心暗鬼に陥っていたあの頃、親友を傷付け逃げ出した記憶。
けれども、今はあの時とは何もかも違う。仕事も、環境も、夢も、戦う理由も、全て。過去を思い出すことで感じていた重みはもう存在しない。
「そうだな」
小さく呟き、視線は僅か下、手元へと落ちる。
そう、違うんだ。故郷への憎悪に親友との決別、約束も義務も、全て受け入れ俺はここに在る。一級と言う証に俺のこれまでは確かに刻み込まれていた。
口元には薄い笑みが浮かんだ。
「俺が、掴み取った結果だ」
顔を上げた先、再びスヴェンと視線が合った。彼は俺の表情を見て「やっと分かったか」と笑いながらグラスを傾ける。俺も先程注がれた酒を空にする。
「でもやっぱり皆のお陰もあるよ。スヴェンとの模擬戦闘の経験も役に立ってるし」
「嬉しいけどあんま喜びたくねぇな」
スヴェンは眉間に皺を寄せながら酒を注いだ。嫌そうとも捉えられる表情、何でだ?
実際、スヴェンとの模擬戦闘は学びが多い。彼はエドガーのような後衛術師。しかし途轍もない制御力から成る術式の多重展開、そこから放たれる魔法はこちらも捌くのが手一杯。本来なら有利なはずの俺が押し負けることも多々ある。流石、グラウス就任時点で一級の実力を持っていただけあった。考えている内に一つの疑問が浮かぶ。
「そういえば、スヴェンはいつ一級になったんだ?」
聞いた瞬間、スヴェンの眉間に皺が寄る。あからさまに嫌な顔をしていた。しかし問いを撤回するつもりはない。返答を待つ間、いつの間にか皿に乗せられていた鶏肉を口に運ぶ。程よい塩気に香草の香り、エールが進む。
スヴェンは腕を組み悩む仕草、まだ思考に時間を要するのだろうか。
今食べた物をもう少し欲しいと思い机の中から料理を探すと、その手前にいるヴィオラと目が合った。彼女は俺が視線を向けた理由を察したのか掌をこちらに向ける。多分、こういうことだろう。皿を差し出すと受け取り、そのまま鶏肉を大量に盛られ返された。
そうしている内にスヴェンの腕が解かれ、俺のグラスに何度目か分からないエールを注いでいた。
「術師協会から声がかかる少し前くらい? あんまり覚えてないから聞くな」
「覚えてないことはないだろ」
スヴェンの言葉に引っ掛かりを覚える。彼の発言はおそらく嘘。誤魔化すということは、まぁ、話したくないということか。それは表情からも十分察せられた。酒を呷りこの話は中断する。
「俺の話はいいだろ。それに」
スヴェンは短く息を付き、向かいに座っていたエドガーへ顔を向ける。彼は技術部の職員と話していたようだが、視線に気が付いたのか話を止め俺達を見た。
「そこのガキだって近々昇格すんじゃねぇの?」
ガキ、と呼ばれエドガーは口を引き結ぶ。眉間に刻まれた皺は明らかに不快感を示していた。突然注視された上に、そんな言い方をされれば誰だって腹を立てるだろう。何でこう、スヴェンはエドガーに対して挑発的なんだ。
しかしスヴェンの発言に同意できる部分もある。
「そういえばそうだよな。禁忌術式だって何度も成功させてるし」
禁忌術式はその破壊力だけで禁止されている訳ではない。術式の構築難易度から暴発の危険が高く、術師とその周囲に危険が及ぶため。その使用が認められているというのは、能力を高く評価されている証拠だ。誉め言葉のつもりだが、彼の不機嫌な表情は変わらない。
「そのせいだよ」
固く閉じられていた口が開く。
「禁忌は禁忌だろ。報告書と協会の権限のお陰で見逃されてるだけ。普通に違反だから監査官からの印象は最悪なんだよ」
「確かにな……」
エドガーの言っていることは尤もだった。厳しい規程の下行使することを許されているだけ。使用術式が違法であることに変わりはない。
話を聞いていたスヴェンがグラスの半分まで酒を飲み机に置く。
「うわ、お前いちいち使用申請してんの?」
「はぁ?」
その発言によりエドガーの視線がスヴェンに向かう。薄く開かれたままの口が動揺を色濃く映していた。
俺もエドガーも呆気から言葉が出ない。突如訪れた不自然な静寂にスヴェンの喉から「やべ」と、小さい声が上がる。禁忌魔法使用後の使用申請書を出していない? 本気で言ってるのか?
「お前何言って、」
「お祝いの席でなんて顔してんの」
マルティナの声がエドガーの発言を遮った。それは俺の正面、正確にはエドガーの後ろから。酒瓶を片手に揺らしながら俺達へ訝し気な視線を投げかけていた。スヴェンから発せられた言葉に驚く俺達は傍から見れば異様な光景だったのだろう。スヴェンから乾いた笑い声が上がる。
「そーだよ、そうそう。こんな話今するべきじゃねーよな」
口には作ったような笑み。若干引き攣っている。手元は誤魔化すように俺のグラスへ酒を注いでいた。話を無理矢理終わらせようとする魂胆が透けて見える。あとでリーナにでも告げ口をしておこうか。
スヴェンを軽く睨みつつ酒を飲む。空になったグラスを机に置き、正面を向くとマルティナと目が合った。
「アイク、本当に酒強いよね」
「そうか?」
首を傾げると彼女の視線は横へ。俺も見る。その先、スヴェンの横には空になった瓶がいくつも置かれていた。これがどうしたというのか。考える前にスヴェンの親指はそれを指し、瞳は呆れのような色を湛え俺に向けられる。
「これ全部お前が飲んだんだよ」
「え」
思わず声が出る。いつの間にそんなに飲んだのだろうか。全く覚えていない。
「注げばその度に飲み干すから面白くて、つい」
「そんなことしてたのか」
確かにいつの間にか増えているなと思っていたが。この間にもスヴェンはまた注いでいる。
「まあ、強い方だと思うな」
グラスを手に取り少し持ち上げた所で止めた。淡い黄金の液体の中、泡が音もなく舞い上がり消えていく。
それはフォリシアでもよく言われていた。しかし酒の席はあまり良い思い出がない。俺が酔いにくいことを理由に先輩達からは無理矢理飲まされていた。今思えば、あれも嫌がらせの一つだったのだろう。
「沢山飲めて良いじゃん」
陽光のようなマルティナの声が過去の想起を打ち破る。言葉の後、彼女は酒瓶に直接口を付け果実酒を飲んでいた。豪快だ。
「あ、そういえば」
数口飲んだ所で呟き、エドガーの頭に手を置いて身を乗り出した。笑顔と共に差し出されたのは酒の瓶。
「アイク、一級おめでと」
「ああ、ありがとう」
俺も腕を伸ばしグラスを掲げた。縁と瓶の底が軽く触れ合い中の液体を揺らす。軽快で涼やかな音が高く響き渡った。