『貴方はそういう人だから』④
「何が起こってるんだ」
俺の呟きは周囲から上がる叫びにより搔き消された。続く言葉は出ない。突然目の前に現れたそれを受け入れることが出来ず、呆気に囚われていた。
三階に居てようやく首に届く程の巨体。凶悪な口から洩れる低い唸り声だけで周囲を圧倒し、鎧のような鱗に囲われた赤黒い体躯から放たれる魔力が波濤となって肌を刺す。三年前の竜害と同等の竜がそこに居た。
俺達はただ茫然と竜を見ていた。動けない、と言った方が正しい。身体に刻まれた根底的な恐怖心が思考を滞らせる。
竜の胴に雷撃術式が着弾。二発、三発と放たれていくが効いている様子はない。恒常的に発動する『拒魔構障壁』により低位の魔法を無効化していた。
縦瞳孔の黄金の眼が魔法の放たれた方向へと動く。竜の口が僅かに開き、赤色の術式が展開。直後、炎の息吹が放たれる。濁流となった火炎は術者を飲み込み周囲を広く焼き焦がす。竜が使ったのは『火竜灼吼』。しかし、魔物の王から放たれるそれは、俺達が使用するものとは比べ物にならない程巨大で、強力な魔法となっていた。
異臭が立ち込める中、蒸気の上がる口が開かれ、再び咆哮を上げた。そして、自分に敵対する者達へ攻撃を開始する。
逃げ惑う人々に尾が振り下ろされ、そして地面を滑る。再び尾が上がると、砕けた地面に伸びた赤黒い染みが残るのみ。そこに人がいた痕跡はない。
竜の首に小規模な爆撃術式が撃ち込まれる。無効化されると分かっていても、恐怖に打ち勝った一部の人々が攻撃を続けていた。竜が前足を振ると、魔法が停止。同時に、爪に絡みついた血液と紐のような臓器の欠片を目撃する。
抗うか、逃げるか。人々はその選択も許されず、ただ虐殺されていた。
「このままじゃ……」
震える声でエドガーが呟いた。違法術師や魔物を相手にし、幾度となく死地を越えてきた彼も、巨大な竜を前にやっと言葉を紡ぎ出す事しか出来なかった。
エドガーの言いたかったことは、このままでは国が亡ぶ、だろう。そんなの、誰もが分かっている。分かっているが動けないのだ。
上空に浮かんだ術式を見る限りこの竜は魔法によって呼び出されたもの。報告に上がっていたヴィルプカによって引き起こされた事態であると理解できる。ならば、術師協会としてこの戦闘に関わる必要があった。
しかし、この圧倒的な戦力差では撤退する事も許される。ここで判断を誤れば、俺達は全滅するだろう。
「もうやめてくれ」
掠れた声が聞こえた。発したのはフリット。その言葉は彼の隣で回復を続けるコルネリアに向けられていた。
「分かってたよ。ユーフェミア様が俺を止めようとしてる事くらい。俺を騙して、お前まで協力してるとは思わなかったけどな」
演説前の様子からコルネリアとユーフェミア王女の関係を察知し、フリットが微かな声で呟く。
彼の顔からは生気が抜け落ち、まるで死人のようだった。光を失った瞳が、虚ろにコルネリアを見る。
「頼むから回復するのをやめてくれ」
フリットは自身に向けられた手を掴んだ。それでも回復魔法は止まらない。柔らかな光の下、傷は修繕され、肌は赤みを取り戻してく。自分の命と引き換えにしても守りたかった者は死んでしまった。フリットのせいで、そして俺達のせいで。
コルネリアは彼の手を振り解き治療を続けた。意志を拒絶され、彼女を睨みつける。
「俺なんか生かしたって意味ないだろ……!」
フリットは近衛兵団に、そして俺に敵対してまでユーフェミア王女の生存を願っていた。その望みは彼女の死によって断たれ、今の彼に残されたものは深い絶望だけ。自棄となった声に、コルネリアは深い溜息をつく。
フリットに向けられた手とは反対の手。コルネリアが指を鳴らすと空中に術式が出現、その中央から拳程度の立方体が彼女の手の中に落ちてくる。
何らかの魔具だろうか。それは術式を展開しながら手の中で薄らと発光する。この魔法は確か──、
『こんにちは、フリット』
魔具から聞こえるのは間違いなくユーフェミア王女の声だった。フリットは顔を上げ魔具を見る。
「ユーフェミア様……!?」
魔具から浮かぶ術式は一般的な録音魔法だった。魔具は記録された言葉を続ける。
『この声を聞く時、貴方はどうしようもなく落ち込んでいるのでしょうね。だって、コルネリア様には私が私の望み通りに死んでしまったら、この音声を届けるように頼んでいるのだから』
「そんな……俺は……」
フリットの声が沈んでいく。ユーフェミア王女は自分が死ぬことを予測していた。いや、彼女の言い方から、あそこで死ぬことを望んで演説を行ったのだ。目前に迫った死を前に臆することなく、あの堂々とした立ち姿を思い出す。信じられない程の精神力だった。
『まず答え合わせをしましょうか。どうせもう何らかの事態が発生しているでしょうから手短にね。私は王家に伝わるとある手段を用いてそこにいらっしゃるコルネリア様と協力関係になったの』
皆の視線がコルネリアに向かった。
『コルネリア様の素性は話せないけど、ヴァナディース教会及び術師協会関係者と受け取っても良いわ』
不敵な笑みを浮かべていた彼女の表情が揺らぐ。何も言わず、ただ注目から逃げるように目を伏せた。彼女がその二つの組織の関係者であるなら話は変わる。俺達と戦ったのも予定調和であり、殺さないように加減していたのだろうか。
だが今、コルネリアに真相を問う事はしない。俺達はユーフェミア王女の遺言を優先した。
『そして、私は三つの事をお願いしたの。まず、私が死んでしまったらこの魔具をフリットに渡す事』
その声にフリットが俯く。
『二つ目は違法術師事件を起こして術師協会がこちらに来るように仕向けること。これはまあ、内乱までの時間稼ぎと後々介入しやすくするためね』
後ろでマリーが息を飲む音が聞こえた。俺も驚愕に言葉を失う。俺達が派遣されるきっかけとなった事件はユーフェミア王女の思惑によって起こされたものだったのだから。彼女は内乱の危機に瀕するフォリシアに術師協会介入のきっかけを作り、そこから水面下で術師協会と協議を進めていたというのか。あの不自然な指令書も、術師協会と何らかの取引の上に成立していると考えれば納得できる。
『動かしやすい新部署のグラウスが来るのは想定していたけど、まさか貴方の幼馴染が来るとは思っていなかったわ』
過去のユーフェミア王女は、偶然の産物を楽しそうに話していた。
『そして、三つ目。フリットの傍に付いて見守ってもらうように頼んだの』
これを話す時、彼女の声色が変わった。深い愛情を含んだ、慈愛の声だった。
「そんな、貴女が死んでしまったら、こんなの意味ないのに」
録音だと分かっていてもフリットは答えてしまう。彼女の決意を否定したかった。無下にしてまで生きていて欲しかったのだろう。
フリットの感情を置き去りにしたまま声は続く。
『あの事件の真相に辿り着いた貴方は何としても首謀者を殺すでしょう。私はその思いが嬉しかった。そこまで私の事を想ってくれているんですもの。だからこそ、それが許せなかった。やり遂げたら、もしくはその最中で貴方はきっと死んでしまう。優しい貴方が私の為に命を落とすなんて、絶対に許せない』
炎のような言葉が胸を焦がす。フリットがユーフェミア王女を助けたかったように、彼女もフリットの生を望んでいたのだ。お互いがお互いを生かす為に動き、そしてユーフェミア王女の想いが勝利した。フリットは俯いたまま動かない。
『……私ね、この国が大嫌いだった』
一瞬の沈黙の後、言葉が紡がれる。
『誰もが私を疎み、不当な扱いを受ける生活。王位継承権のない私には碌な護衛もメイドも付かず、むしろ嫌がらせばかり。窓から見えるのは遠い中庭と、代り映えのない山々だけ』
先程の演説とかけ離れた言葉に耳を疑った。録音は俺達の疑問など関係なく再生される。
『でも、貴方は違った。真面目な貴方はいつも私に真剣に向き合い、冗談で言った我儘だって叶えてくれた。いつも、いつも、私を大事にしてくれた』
「違います、」
フリットが顔を上げ、魔具に向かって声をかける。
「それは、貴方が……俺に、寄り添ってくれたから……」
震える声で彼は言った。顔には悲痛な表情が刻まれ、痛みに耐えるような苦悶が浮かんでいた。
俺は、何もいう事が出来ない。言う権利がなかった。俺はフリットとの約束を放棄し、何もかも踏み躙ったままフォリシアを去った。それが、彼に深い傷を残すと知っていたにも関わらず。
心に溝を持つ二人は支え、補い合い、そして確固たる絆を構築していた。
『だから、私は貴方に嫌われないようにこの国が好きなように振る舞っていた。でも、その嘘はいつしか本当になっていったの』
ユーフェミア王女の言葉は希望に向かい、明るさを増していく。
『貴方との日々は本当に掛け替えのないものだった。貴方が語るこの国が好きだった。子供の頃の話、遊び、悪戯、景色、帰り道、家族、友人、そして、約束。貴方が大事にするその思い出一つ一つが私にとって愛おしいものに思えた。この国を好きにさせてくれたのはフリットのお陰なの』
かつてユーフェミア王女は俺に言った。この国を愛する理由は、遠回しに言ったら俺のお陰だと。その意味を今、理解した。フリットの思い出の中にいる俺が、彼女を支えるものの一つとなっていた。
『だから、私はこの国を守る。貴方がこの国を憎んでも、美しい思い出が眠るこの国を絶対に消させはしない』
それは強い決意の言葉だった。同時に、何故彼女がここまで国に尽くすのか、その理由を示す言葉でもあった。きっかけは二人の信頼に過ぎない。だがそれは、他の何よりも確固たるもので、命と引き換えにしても守りたいものとなっていた。互いを尊んでいたからこそ生まれた想いだった。
『でもね、今度の事はある程度対処しているけど、今起こっている事には何もできないの。なんせ死んでしまっているのだから』
ユーフェミア王女はそう言いながら笑っていた。しかしそこには、気高い意志が含まれているようにも見える。
『コルネリア様も盟約により人間の諍いに直接介入する事はできないの。そこでね、フリット。私とのチェスに負けた貴方がなんでもお願いを聞くと約束した事を覚えているかしら? そのお願い、今聞いてね』
「今、ですか……」
再びフリットが記録に対して答えていた。顰めた眉の下、口は仕方ないと言わんばかりに柔らかく笑っていた。
『私のお願いはね、フリット。私の愛する国を守って欲しいの。そして、絶対に生き延びて』
残酷な言葉が響いていく。
『律儀に守ってくれるわよね? だって、貴方はそういう人だから。頑固で、融通が利かなくて、一度決めた事は絶対に曲げない、意志の強い人』
フリットは彼女の為にこの国の何もかもを捨てた。しかし、ユーフェミア王女が彼に願うのは、この国の救済だった。
彼女に敵対した者達を、自身が強く憎む者達を救えと言うのか。フリットは歯を噛みしめ俯いた。
『今までありがとう。大好きよ、フリット』
最後に言葉を残し、術式の光が収束していく。魔具は、完全に沈黙した。
「分かりましたよ」
フリットは静かに呟き立ち上がる。コルネリアの治療は既に完了していた。
竜を真っ直ぐに見据える横顔には強い決意。そして覚悟が湛えられていた。
ユーフェミア王女は分かっていた。自分が亡くなった後、フリットが深い絶望に陥ることを。分かっていたからこそ、彼女は約束として彼に呪いを残した。
ユーフェミア王女がこの一連の計画で何をしたかったのかようやく理解できた。彼女は自分の命と引き換えに、愛する者とその祖国、二つを守る道を示したのだ。自分の死を舞台装置の一つとして利用し、フリットが自分の願いを決して無下にしないと確信して。
「アイク、無理にとは言わない。身勝手だって分かってる。それでも」
フリットは俺を見ないまま言う。
「手を貸してくれないか」
俺は知っている。感情で決断を下すことの罪深さを。その後から続く、罪悪感を抱き過ごす日々を。あの国で、あの事件で、彼の為に事件を公表せず有耶無耶にした事を思い出し胸に痛みが走る。
「ああ」
だが俺はフリットの要請に応じた。
それでも、やらなければならないのだ。フリットは以前俺に言った。俺に残っているのは惰性と、なけなしの正義感だと。それは間違っていない。しかし、それでいい。それだけが、立ち上がる理由となっていた。
ユーフェミア王女の言葉に感化され、抱いた思いが偽善だとしても。この胸を焦がす感情がこの場限りの偽物だとしても。今、この決断をしなければ、俺はこの先後悔に苛まれる事となるだろう。
治癒が終わったばかりの体を無理矢理動かしフリットの隣に並んだ。目下には黒煙が立ち上り、粉塵が舞う。聞こえるのは叫喚ばかり。硝煙の臭いが鼻を刺す。目に映るのは在りし日の風景とかけ離れた故郷の姿だった。
この光景を前に思い出すのは三年前の竜害。強大な竜を前に恐れを抱いていないと言ったら噓になる。当時抱いた恐怖は未だに俺の中に残っている。だが、今は、前に進める気がした。
フリットと俺はお互いを見る。そして、口の端が柔らかく歪んだ。
「倒そう、あの竜を」
俺の言葉にフリットは強く頷いた。
同時に後ろで物音。振り返ると、皆が立ち上がっていた。
「ここで戦うのは義務じゃない。俺がやりたいからやるだけだ。撤退しても許される」
言うと、エドガーは片側だけの皮肉な笑みを浮かべる。
「ここで逃げたら夢見が悪くなるだろ」
話しながら本型の魔具を開き動作を確認。問題がないと分かると術式を展開し始めた。エドガーの横から猫のような笑い声が聞こえる。
「この国にきてからずっと消化不良だったし、やっと丁度良い相手が出てきたよ」
マルティナが銃から空薬莢を抜き、新たな銃弾を装填。エドガーが目を細め彼女を一瞥するも気にしている様子はない。一歩後ろでヴィオラがため息をついた。
「そもそも、無事に逃げられる保証もないわよ」
彼女を包んでいた術式が収束する。後に回していた自分への治療が完了し杖を下げた。最後にマリーが前に出る。
「ここで竜を倒せば、フォリシアに術師協会が介入しやすくなります」
そう言って目前の竜を見た。マリーの言っている事は一理ある。ここで俺達がこの事態を納めれば今後の支援で術師協会が有利に動けるだろう。しかし、命を落とす可能性の方が高い。そんな事、誰もが分かっているはずだ。
けれども皆、立ち向かう意志を持っていた。誰の瞳にも諦めの色を映さず、魔具を構え、俺の言葉を待っていた。
ならば、それに応えなければならない。前を向き、剣を抜く。
「生きて帰ろう」
決意の言葉と共に足を踏み出した。




