甘い蜜垂らして
「先生の世界は優しすぎます」
初夏のある日、程良く空調の効いたカフェの一席で彼は単刀直入にそう言った。にこりと笑顔をたたえたその顔は、いつもの顔である。彼はつい先程書き終えた原稿のとあるシーンを指差した。
「ほら、ここ……どうしていつも悪口だけなんです?もっとこう……叩くとか、蹴るとか」
彼の提案に眉をひそめる。叩くなんて考えただけで不快だろう。何を言っているんだ?そう思った。そんな自分の表情を見てか、彼は困ったように笑う。
「後々主人公が立ち上がるのにしては浅いというか……刺激が弱いんですよ……先生はこういうシーンの描写をもっと強くしてもらわないと……せっかくいい腕をしてらっしゃるのに……」
ふわりと気分が舞う。刺激が弱いなんて考えたこともなかったが、たしかにそうなのかもしれない。そう思い、早速白紙の原稿用紙を取り出してシーンを書き直した。途中、主人公のことを考えたら胸に小さな痛みが走ったが、目の前の彼の声援に励まされ、なんとかすぐに書き終えることができた。
店内で迷惑にならないように控えめだが拍手を贈ってくれた彼に恐る恐る原稿を渡す。原稿をぴんと立てて読む彼は何やら唸っていて、そしていくらも経たないうちに原稿を置いた。
「……単調ですがいいと思います」
ほっと胸を撫で下ろす。彼は原稿をまとめて封筒に入れ始め、封をして黒革の鞄にそれを入れると俺にこう告げた。
「では先生に課題です。次の作品は人が死ぬ話を書いてください」
突然のことに目眩を錯覚した。幻聴を聞いたのかと思ったが、彼の笑顔がそれを否定する。思わず聞き返そうとしたが彼は有無を言わさぬようにすぐに席を立ち、帰って行ってしまった。残ったのは先程の言葉と、彼の置いた二千円だけだった。
――――
蝉の鳴き声が鳴り響く中、茹だるような暑さに汗を流す。雑踏の生み出す雑音を聞きながらパラソルの作る日陰の下で、俺たちは対峙していた。
「お久しぶりです、先生」
背筋を伸ばしてさらりと髪を揺らす彼。相も変わらず笑顔の彼は俺の原稿を期待しているのだろう。俺は同じようにお久しぶりですと返した。
「……大丈夫ですか?体調が悪いように見えますが……それに隈もひどい……」
その言葉に丸まってきていた姿勢を正す。大丈夫ですよともはや自分に言い聞かせるようにして言い、ぐらぐらと揺れる意識に無視をした。そしてリュックから原稿の入った封筒を取り出し、彼に渡した。
――紙の揺れる音と、自分の呼吸音だけが嫌によく聞こえる。
行き場所がない視線を下に向けると、ぽたぽたと雫が落ちてきた。それに一瞬どきりとしたが、すぐに思い直してなんとなく、彼を見遣った。
クールビズらしく、襟元を開けた半袖のYシャツを着ている彼は、汗の一筋もかいていない。暑いのが得意なのだろうか、それとも汗腺が発達していないのだろうか。そんなことをぼおっと考える。そよ風が吹いて彼の髪をなびかせると、不意に原稿から視線を上げた彼と目が合った。思わず目を逸らして様子を伺うと、何事も無かったかのように原稿を読んでいる。そのことに若干の安堵を覚えつつ、テーブルのオレンジジュースをあおった。氷が溶けて味が薄くなっていたが気にせず、渇いた喉が潤うのを感じた。
空になってもなお、冷たさを残すグラスは今の自分と似ている。それを求めても今更もう元に戻ることはできないのであるというのに。覆水盆に返らずというべきか、しかし私はこぼした水で花を咲かせてみせようと思ったのだ。
しばらくして、原稿をまとめる音がして顔を上げる。彼は満面の笑みを浮かべていた。今までにないほど興奮しているようで、早口で感想を捲し立て始めた。
「すごくよかったです!前回のような単調さが無くなって、それどころかまるで実体験のようなお話でした!」
彼にとって、人の不幸は蜜の味であった。そういうことである。