{ショートショートを一杯} 「旅路」
自転車の長旅でパンパンの足を叩き、無理やり体を動かしながら獣道を登ると、ついにその光景が見えてきた。見渡す限り紅葉で紅に染まった渓谷。その間を縫うようにして真っ赤な紅葉の葉を流していく小川。そして、群青の空を端から茜色に照らしていく、炎の様な夕焼け。視界いっぱいの絶景に、僕は思わず「あぁ」と感嘆の息を漏らす。
やはり、わざわざ足を運んだ甲斐があった。昔パンフレットで目にして以来、ずっと脳裏に焼き付いているこの景色。幾度となく思いめぐらし、夢にまで見た景色。あてのない旅路で、目的地も決まっていなかったので、結局はここへと来てしまった。紅葉がまだ続いていたのは幸運だった。いざ見てみると、想像していた景色よりもずっと鮮やかで、最早「キレイ」なんて単純な言葉では到底表せそうにない。
興奮しているせいか、先程まで体を芯から冷やしていた朝の空気も、今は全く感じない。こんなに早く夢がかなうとは思ってもみなかった。その場にどっかりと腰掛け、リュックサックから取り出したシリアルバーにかじりつく。流石に重いので、自転車に積んだキャンプ用具などの荷物は林のふもとに置いて来てしまったが、間違いだっただろうか。缶詰の一つや二つ持ってきても良かったかもしれない。少し喉が渇いていたので、近くでくんできた湧水を飲もうと水筒に口をつけたとき、近くの草むらから「ガサッ」と音がした。
僕は驚くと同時に身構える。野生動物だろうか。それか、まさか・・・。ポケットに入れておいた小ぶりのナイフを握りしめると、ゆっくりと忍び足で草むらへ近づいていく。一歩、一歩と近づいていくにつれ、音は大きくなってくる。使い慣れないナイフの剣先が震える。呼吸を落ち着けなければと思い、息を吸い込もうとしたとき、「ガササッ」という音と同時に・・・
狸。
茂みから、狸の、顔が出てきた。
・・・なんだ、狸か。いや、お前、そんなつぶらな目で僕を見るんじゃあない。尻もちをついたのが馬鹿みたいじゃないか。ばつが悪くなった僕は、ナイフを納めて立ち上がると、ズボンについた土を払う。そういえば、図鑑では何度も見たことがあったが、実際に目にするのは初めてなのではないだろうか。唐突に興味をそそられた僕は、触ってみようと、何気なく近づいてみた。しかし、茂みから出てくるどころか、狸はうなり声をあげ始めた。警戒されているのだろうか、よく分からない。
ふと閃いた僕は、食べかけのシリアルバーを折り、一欠片を狸の前に置いて、少し離れてみた。思った通り、恐る恐る茂みから出て来た狸は、シリアルバーにかぶり付いた。やっと出てきてくれた、これで撫でられる、と手を伸ばしたのもつかの間、狸は欠片を加えて林の中に入って行ってしまった。慌てて茂みをかき分ける。林はかなり深かったが、狸はというと、意外にも近くで子狸と食事にありついていた様であった。母狸だったのだと、それを見てやっと気が付いた。成程、だからあんなに警戒していたのか。仲睦まじい家族の風景。そこに自分が入る余地も、必要もない。そっと、音を立てないように林を出ることにした。
茂みを抜けると、もう朝日も昇ってきて、あたりも明るくなり始めていた。朝焼けとは違って、この風景も中々味があって良い。「ガサッ」という音にふと振り向いてみると、さっきの母狸がまた茂みから顔を出している。今度は子狸も一緒だ。餌が欲しいのか何だか知らないが、茂みから似たような顔が三つも突き出ているのを見ると、流石に笑えてくる。残ったシリアルバーを足元に置くと、今度はもう慣れたのか、三匹とも駆け寄ってきて食べ始めた。その欠片のうちの一つを手に載せると、母狸が来て頬張り始めた。もしやと思って、そっと背中に触れてみる。触れた。ゴワゴワしていて触り心地は決して良くないが、生暖かく、そして少し湿っている感触は、嫌いではなかった。あぁ、そうか。今更にしてこんなことに気づくとは。顔に、自然と苦笑が浮かんでくる。やはり、旅路の終着点をここにして正解だった。僕は、足元でまだ食事を続けている狸達を見つめ、微笑むと
「辛いもんだね、一人きりってのは」と言い、
少し滲んで見える雲一つない青空に、渓谷の崖から身を躍らせた。
人類、滅亡の日の出来事である。