嫦娥の枕
昔の個人サイトで開かれた競作に参加した読み切り作品です。
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亥年の新春、薄寒い天幕の中で天蓬元帥がうつらうつらしていると
「元帥閣下」
と呼ぶ声がする。目を覚ますと、太陰星君が控えていた。
「嫦娥宮に敵が奇襲して来ました」
一気に覚醒して、
『我が軍の態勢は?』
と側近に尋ねる。
「前軍は既に臨戦態勢、中軍と後軍も配置についています」
天蓬元帥といえば銀河水軍の総大将にして八戒の前身だ。その八戒が、酒の勢いで嫦娥の一人にふざけかかり、それ故に天界から放逐された事は記憶に新しい。だが、今度の天蓬元帥はそんな輩ではない。だからこそ、嫦娥宮が彼に助けを求めたのだ。
『前軍はすぐさま反撃、後軍は嫦娥宮をしっかり守れ、中軍はワシについてこい』
そう指示するや、さっそく赤光となって戦場に向かった。
戦場では、東海の田舎猿が例の鉄棒を振り上げて喚いている
「こら、道をあけろ、俺様はお前ら雑魚には用がないんだ」
天界ですっかり有名になった光景だ。早速、天蓬元帥が正面に出て対峙した。
『弼馬温の癖に、なんで神聖な月世界で大暴れをする』
「ちょいと長寿酒を貰いに来ただけよ」
『そんな我が儘、通すものか』
「そのアホずらで大きな口を叩くな」
妖怪猿は金箍棒を振り上げた。西遊記の八戒ならば、ここでひるんで逃げる所だが、今日の天蓬元帥は違う。八戒の失態で失墜した天蓬元帥の名誉を回復せんと、まぐわでしっかりと金箍棒を受けとめた。かかっているのは名誉だけでない。嫦娥宮の守りもだ。嫦娥の為なら火の中水の中、これこそ天蓬元帥のあるべき姿ではないか。
闘うこと30合、怪力で鳴らす元帥は、金箍棒をもとのもせずに跳ね返した。そして、妖怪猿が一瞬の隙を見せた瞬間に、こう言い放った。
『緊箍呪!』
それは、彼が夢の中で教わった呪文だった。妖怪猿には、これが一番と。
緊箍呪そのものは三蔵と観音しか知らないが、それでも、この言葉を聞くや、妖怪猿は泡食って退散し、手下共もクモの子の散るように消えてしまった。かくて、天の川の水軍を繰り出すまでもなく天蓬元帥は月世界に凱旋した。恨み連なる弼馬温をやっつけて、しかも仙女の住処を守ったのだから、元帥、極上の喜びである。これで八戒の犯した失態も帳消しになるというものだ。
「さすが元帥殿、あの妖怪猿を簡単に撃退するは頼もしい限りです」
闘いが終わって、さっそく太陰星君が天蓬元帥をねぎらう。
『なあに、あんなこそ泥を追っ払ったところで、手柄にも何もなりませんよ』
「そんな、ご謙遜を。とにかく一席用意しましたのでこちらへ」
天蓬元帥が宴席に主賓として出てみると、そこは嫦娥宮だけあって、かぐや姫すらかすんでしまうような仙女達が、次々に元帥に挨拶に来る。挨拶だけではない。皆が皆、秋波を送る。過ぎし日の八戒ならばここで失態を見せる処だろうが、この日の天蓬元帥はちょっと違う。軽いウインクだけの涼しい対応、それは乙女心を惹き付けるばかり。
宴たけなわとなったところで太陰星君、
「ところで、今日の所は妖怪猿を撃退して頂きましたが、あの妖怪猿、完全にあきらめた訳ではありますまい。そこで、暫くここに滞在していただけないでしょうか? 夜はうちの嫦娥たちに代わる代わるお伽をさせますので」
自然な流れだ。しかし、ここでも天蓬元帥は奢らない。
『いやいや、それがしは無骨者、宮の外で見張りをいたしましょう。仙女の方々にお伽をさせるなんてとんでもない』
作法通りに2度辞退したあと、3度目に漸く申し出でを受けた。もっとも、顔にこそ出さないが、天蓬元帥の喜びは言葉では言い尽くせない。というのも、八戒が袖にされた嫦娥は今や彼の虜、悟空は完敗、昔の仇を確かに討ったのだから。
宴たけて、夜も更けて、嫦娥と二人きり。先にベッドで待っててね、と嫦娥に云われて、横になっていると、やがて耳元に熱い息吹、その囁きは・・・
『**が暮れるよ』
それは、仙女らしからぬ太い声だった。な、なんだ、と目を開けると、目の前には美しい仙女の代わりに醜い河童が心配そうに覗き込んでいる。そして、美しい調度品に飾られた筈の部屋は、薄暗いテントに戻っている。
『おい、俺の嫦娥を何処に隠した?』
目を覚ました彼は、相変わらず寝言を云っている。
「おぬし、大方、月の仙女と戯れる夢でも見ていたのだろう?」
それは、なじみの猿の声、危険な響きの声だった。この乱暴猿、夢だろうが何だろうが、全てのネタを、八戒虐めの材料にする奴だ。否応でも正気に戻ると云うもの。せめて、夢でこの猿を退治しただけでも良い夢だったと喜ばなくてはなるまい。
『兄貴、良くわかったな、俺、天蓬元帥になっていたんだぜ』
「このボケ、お前は今でも天蓬元帥だろうが」
天蓬元帥に後任者はいない。八戒が追放されても、矢張り彼は天蓬元帥だ。ただ、別の元帥が銀河水軍を采配しているだけのこと。
『そりゃ、俺はボンヤリ者だよ、でも、夢でぐらい活躍しても良いじゃないか』
「ははは、確かに初夢ぐらいは楽しまなくちゃな。さすが九天遊仙枕だ」
九天遊仙枕? 八戒は、ふと枕を見遣った。悟空はにやにやしている。
八戒が寝る前の事だ。師弟4人で正月を祝ったが、この正月は八戒にとって特別だった。というのも彼の干支だからだ。3年前の申年に兄弟子に捕まって以来、この乱暴者に蔑まれていたのは、西遊記に記されている通り。毎日のように八戒が運勢の悪さを嘆いていると、ある時、金星老人が現れて、
「これは年の巡り合わせが悪いのだ」
と教えてくれた。爾来、八戒は亥年が来るのを辛抱強く待っていたのだ。
ついにやって来た干支と云う事で、八戒は浮かれていた。悟空も、この時ばかりは八戒の顔を立てて彼に色々な食べ物を届けてやった。なんせ悟空は、この旅に於いては托鉢の名人であり、そうでなくても泥棒の名人だ。悟空がその気になったら八戒を満腹させるだけの食べ物なぞ簡単にかき集められる。
『兄貴、すまねえな』
「いいって事よ」
こうして八戒は心行くまで御馳走を楽しんだ。
満腹の後は昼寝だ。いや、猿は運動で、河童は読書かも知れないが、八戒の常識は昼寝である。正月早々に昼寝は無いだろう、と悟浄がたしなめると
『正月だからこそ、一年の計で、きちんと昼寝しないと、今年一年昼寝が出来なくなるだろう』
予想された答えに、今度は悟空が
「おいおい、昼寝を楽しむ為に食事をするのか、食事に満足したから昼寝するのか」
とからかえば
『違うよ、目覚めたとき再び気持よく食べられるようにお腹を休ませるんだ』
と真面目な口調で答える。これが八戒だ。
そんな八戒の顔を立てたのか、悟空は笑って奇麗な枕を八戒に渡した。前もって用意していたと見える。
『兄貴、それどうしたんだい』
「こないだ、九天玄女娘娘に会った時に貰ったんだ」
『くすねたんだろ』
「俺様がこんなつまらんものを盗むものか」
確かに悟空に奇麗な枕は似合わない。しかし、それは八戒にだって似合わない。悟浄がそう指摘すると
『俺様、昼寝のプロだぜ。この世で俺様ほど枕の違いの分かる男はいないよ』
と主張する。悟空も頷いて
「それでお前の事を思い出して、九天玄女娘娘がくれると言った時に辞退しなかったんだ」
『兄貴、ありがとう』
「ま、ゆっくり昼寝でも楽しみな」
昼寝前の記憶を呼び起こしながら、八戒が件の枕を吟味すると、悟空の言う通り、横に『九天遊仙枕』と書いてある。悟空、
「これは、そういう枕なんだ」
『そういう、って?』
「仙女界に遊ぶ夢を見させてくれる枕さ」
九天遊仙枕とは、九天玄女娘娘の術で仙女を閉じ込めて作った枕で、平妖伝第23回にも出て来る。枕に閉じ込められた仙女が、枕の持ち主に尽くすという。その説明を聞いて、八戒
『ええっと、じゃあ、あれは、本物の仙女が、、、』
「そうさ。だから、お主は、実際に天上界にいた事になる」
『実際に?』
「そうさ」
『どういう意味なんだよ、兄貴、もったいぶってなくて教えてくれよー』
ふふっ、と悟空が笑いかけるのを受けて、悟浄が横からヒントを出した
「兄貴、随分寝てたよな。待ち疲れたよ」
それに悟空が続ける
「おぬしは、天上界に丸一日、そう夜が更けるまでいた筈だ。それって、地上じゃどうなる?』
『えっ!』
天上界の一日は地上界の一年、とすれば、八戒たちは年末を迎えている事になる。気がついた八戒がテントの外を見ると、そこでは何故か蕎麦は茹でられていた。それは八戒の干支の終わりを意味している。
『さびしいよう!』
思わず八戒はそう叫んだ。
「黙れ、みっともないぞ。12年我慢しろ」
どやされて口をつぐんだものの、諦めきれない八戒、せめて、悟空をやり込められないか知恵を絞った。
1分、2分、3分、、、そして、気がついた、
『兄貴、間違っているよ。御馳走まで、あと11年なんだから!』
そう言ってニヤリ。その時、遠くに聞こえた鶏のトキは、前日前夜に別れを告げていた。
もっとも、次の亥年までの計算、この時ばかりは悟空の方が正確で、それを八戒が知ったのは、364日後。
ーーー終りーーー
written 2007-11-18
邯鄲枕や遊仙枕は、中国古典の邯鄲夢や平妖伝に出て来る「素晴らしい」枕です。現代風には「VR枕」「異世界転移枕」とでも意訳するとぴったりかも知れません。