<第十三章>”赤鬼”
<第十三章>”赤鬼”
「ゴォォオオゥゥウウウ!」
赤鬼は高らかに大声をあげると、その人外の太い拳を截目掛けてミサイルのごとく振り下ろした。それも常人には反応出来ないような速度で。
この一撃をまともに受ければ例え頑丈な象ですら即死の危険がある。人間なら体の原型すら止めないかもしれない。
だが截は「感覚」により事前に相手の脅威を知ることが出来た。赤鬼の腕が伸ばされた直後、既に截の姿はその場から消えていた。
相手の攻撃を察知した截は、それと同時にカウンターをかけるように懐に飛び込んでいたのだ。
「食らえ!」
二本のナイフを流れるさざ波のように緩やかに動かし、瞬く間に無数の切り傷を赤鬼の体に刻んでいく。赤鬼が避けられたことに気がついて第二の攻撃を繰り出すまでには、その傷の数はかなりのものになっていた。
最初截は注射をこの隙に打てばいいと思ったが、斬撃を浴びせているのは刹那の時間だ。こんな一瞬では到底注射器の中身を注入することなど出来ない。注射を打ち込む間を作るためにもまずは赤鬼を弱らせることが必要だと考えた。
「――はぁ、はぁ……どうだ!?」
一端赤鬼から離れ木の影に隠れると、截は一息ついた。
身体的に圧倒的に自分を凌駕している赤鬼を倒すには、正面衝突では不可能に近い。だから截はヒットアンドアウェーという方法を取った。
隙を見つけ、攻撃し、素早く離れるという行動を繰り返す。殆どのイグマ細胞を活用して作られた化け物相手に通じる戦法だ。
赤鬼もイグマ細胞によって作られた存在である以上、この戦法はかなり効果的にダメージを与えることが出来た。
そう、少なくとも一時的には。
「くそ、やっぱり駄目か!」
木の影から片目を鋭く覗かせ、截はがっかりした。赤鬼の腹に自分がつけた無数の傷があっと言う間に再生し、その痕を消したからだ。
「落胆するな、俺たちは時間稼ぎさえしてればいいんだ。無理に傷を負わせる必要なんてない」
林の中、正面に数メートル進んだ位置にいるオカッパの男が、截を落ち着かせるように言った。
「傷を負わせようとしないでどうやって時間稼ぎをするんですか? ただ周囲をうろちょろしていても赤鬼の動きは止められない」
無表情で言葉を返す截。
「へっ、少しは落ち着け。おまえらナグルファルは個の能力が高い分、どうも戦闘したがる傾向があるな。イミュニティーの戦いって奴をみせてやる」
オカッパの男は自信ありげに微笑むと、赤鬼の注意を引くべく駆け出した。
先ほどから截の姿を探していた赤鬼は、目の前を横切っていったオカッパ男を截だと思い込み、問答無用で追いかけ始める。
オカッパ男は木の合間を縫うように走り回り、巧みに赤鬼の速度を上げさせないように工夫した。そのまま徐々に徐々にと中央エリアから離れていく。一端罠から遠のかせて時間を稼ぐ気らしい。確かに罠の近くで戦闘しながら時間を稼ぐよりは、罠失敗の危険度は下がる。
それを見た截は思わず感嘆の声を上げた。
「やるな」
「感心してないでお前も後を追え。伊藤だけだと直ぐにやられるぞ」
電流柵の前でなにやら工作活動をしている石井が後ろを向いたまま冷たい声で命令する。
截は石井を一人だけこの場に残していくことにやや躊躇した。
「一人で逃げるかもしれない」、「自分がいない隙に朝奈や志郎の元へ行くかもしれない」という懸念が浮かんだから。
そんな截の心情を詠んだのか、石井は冷静にこう言った。
「心配するな。私の目的は本当に赤鬼の奪取とディエス・イレの生存者の捕獲だけ。お前の仕事に干渉はしない。たとえ高橋志郎が赤鬼を作った人間だとしても、赤鬼本体があれば奴の利用価値はないからな。ディエス・イレの人間の生存が確認出来ない現状でお前を裏切るような真似はしない。なにせ赤鬼を倒せなくなってしまう」
「それを信じろと?」
「どうするかはお前の自由だ」
石井は相変わらず後ろを向いたままそう言った。
「……分かりました。今は取り合えず信用しますよ。僕としても先ほどの取引を守って貰いたいですからね」
「取引……赤鬼を渡す代わりに志郎とその娘に手を出さないことか。ああ、約束は約束だ。必ず守る。私のように人の上に立つ者にとって信頼は重要だからな。心配するな」
「一応、その言葉を信じますよ」
截は意味ありげに石井の後姿を見ると、オカッパ男、伊藤の後を追った。
「あった、麻酔銃だ!」
翆は医療室で麻酔銃を発見した。すかさずその残りの弾数を確認する。猛獣が人を襲うような万が一の場合の為に中央エリアに備えられていたもののようだが、頻繁に整備されているらしく、まるで新品のように輝いている。
「残り三発か、三上の奴随分弾を無駄使いしてくれたな。まあ、いい。今は急がないと」
翆は弾数の少なさに溜息をつくと、医療室を出て階段を急いで上がっていった。
直ぐに朝奈ら三人に鉢合わするだろうと思ったが、何故か二階、三階のどこにも彼女らの姿はない。一体どうしたというのだろうか。翆は僅かに不安になった。
園長室に足を踏み入れてもみたが、案の定そこには誰もいない。
「どこに行った!?」
部屋の中を探索しながら何気なく窓から外を見てみた。すると自分の相棒である截がイミュニティーと共に赤鬼と戦闘している姿が目に入る。
「截!? 何してんだ、連絡も入れずに!」
翆は截の生存ではなく彼が連絡を入れなかったことに驚き、その姿を見つめた。
その時、窓の下で何かが動いた気配がした。翆が素早く銃口を窓の下に向けると朝奈、本、三上の三人が二階の窓から林の中へと降りようとしている姿が目に入った。
いや、正確には降りようとしているのは朝奈だけで、他の二人はそれを止めようとしているのだが。
「っおい、お前ら一体何してんだ!?」
思いっきり叫ぶ翆。その声に朝奈が気がついた。
「翆さん! 截さんが危なかったから助けようと思って!」
「馬鹿か、お前らが行っても邪魔にしかならないから。直ぐに非常階段の裏へ行け! 截の援護は私がする」
「でもっ……!」
朝奈は納得がいかなそうに何かを言いかける。
翆は再び説得の言葉を吐こうとした。だが、その前に石井が朝奈に向かって柵の向こう側から呼びかけた。
「おい、お前たち。何か手伝いたいって言うのなら協力しろ。私たちはこの柵に流れている電流を利用して赤鬼の動きを封じようと考えている。お前、電力室に行って電力を上げてこい」
「電力?」
「今の電力がどれほどかは知らないが、動物を気絶させるほどの威力しか流れていないはずだ。赤鬼にとってそれぽっちの電力は何の効果も無い」
「……電力をあげればいいんだね。分かった……!」
朝奈は石井の説明通りに電力を上げるため、窓から乗り出していた身を戻し、素早く電力室を探しに行った。
「……能面、何考えてる? 何故截と一緒に行動している?」
朝奈が素直に走っていった姿を上から見ていた翆は、不機嫌そうに石井に呼びかけた。
「ふん、あの時の黒服か。一時的な休戦だよ。詳しくはお前の相棒に聞け」
「截は変に素直なところがあるからあんたの言葉を信用したかもしれないが、私は騙されないぞ。一体何を考えてる」
「疑い深いな。ふふ、その用心さは立派だ。今度私が雇ってやろうか?」
「ちゃかすな、誰があんたの仕事なんか受けるか。早く言え!」
「だから言っただろ、相棒が全て知ってる。彼から聞くまで待つんだな。知りたかったら精々そこから彼の援護をすることだ」
石井は僅かに笑いながらそう言った。
「赤鬼より先にあんたにこいつを撃ち込んでやろうか?」
翆が麻酔銃を構えて脅しをかける。
「撃ちたいなら撃て。其処まで馬鹿な人間だったらな」
「……――っち……!」
翆は奥歯を噛み締めながら石井を睨んだ。
「ふふふ、それでいい。今は赤鬼が先のはずだ。無駄撃ちはするべきじゃない。赤鬼捕獲後に相手なら幾らでもしてやる」
「……覚悟しとけ、何か妙な真似を見せたら、悪魔よりも先に迷わず殺してやる」
「出来ればな」
射殺するとばかりに視線を投げつけてくる翆を軽くあしらうと、石井は截や伊藤の戦闘場所に目を移した。
紀行園正面入り口前 午後6:39
「またイミュニティーと名乗ってる連中が来ただと!?」
密集しているテントの中、宮川警部は素っ頓狂な声を上げた。
それも当然と言えるだろう。事件発生直後中に入った三人を省いて全く連絡を見せなかったイミュニティーが、突然今頃大型のヘリでやってきたのだ。驚かない方が可笑しい。
「もう、テントの前まで来ています。どうしますか?」
若い警官が宮川警部のご機嫌を伺うようにそう言った。
「また偽者じゃないだろうな。まったく、こっちは永遠とマスコミの対応をさせられ忙しいっていうのに」
文句を垂れながら、手で中に入れるようにと合図を送る宮川。部下はその指示の通り外に待たせていた人間を中に引き入れた。
イミュニティーの戦闘服である紺色の軍服を着ているものの、それがあまり似合っていない背の低い太った男だった。髪は短髪を上に向かって立て今風の若者のようにセットしており、目の前には真丸の黒サングラスを掛けている。
「それで、ご用件はなんですか? わざわざあんな大きなヘリで来るなんて……マスコミになんて説明すれば良いんですか」
宮川警部が聞いた。
「これは申し訳ありません。ですが、あのヘリは中に入った者たちが捕獲した生物を運ぶのに必要なものでして」
だみ声で返す達磨のような男。
「生物?」
「はい、かなり極秘の内容なので大きな声では言えませんが……今回の事件はテログループが撒いた生物兵器が原因なんです。そこで私たちイミュニティーはワクチンを作るため、大量にその生物兵器のサンプルを持ち帰る必要があるのです」
「……それで、私にどうしろと?」
「そのうち中に入っている者たちから連絡があると思いますので、その時に私とこのヘリが紀行園の中に入る許可を下さい。何、ご迷惑はかけません。荷物を積んだら直ぐに紀行園から立ち去ります」
バッハハと下品な笑い方で達磨のような男は笑った。
「どの道、上の命令ならば私は逆らえない。好きにしてください」
「ありがとうございます」
その瞬間、達磨男がしてやったりと微笑んだのだが、宮川は全く気づかなかった。
中央エリア 午後6:41
「ぐぁああああ!?」
伊藤は恐怖の声を上げた。
もう少しで中央エリアの建物が見えなくなると言う所で、後ろから赤鬼の攻撃を受けたからだ。
クリーンヒットはしなかったものの、赤鬼のその巨大な腕は伊藤の足を掠めた。その所為で足の肉が抉れ、伊藤はとても歩けるような状態ではなくなってしまった。
真っ赤な血がだらだらと流れ落ち、白い骨が覗いている。一般人ならいつ気絶しても可笑しくないほどのグロテスクな光景だ。
しかし、苦しんでいる伊藤の姿になどお構い無しに、赤鬼は三日月の光をバックにしながら悠々と近づいて来た。
「ぐぉおおお――……ここまでかっ!」
伊藤の口から諦めの声が漏れる。
赤鬼は何のためらいも無くその腕を振り下ろしにかかった。
巨大な爪が伊藤の上半身を吹き飛ばそうとしたその直後、追ってきた截が投げた短ナイフが見事に赤鬼の頚動脈に命中した。
「ウゴォオオォオオオオ!?」
流石に痛みを感じたのか、湧き出るように流れてくる自分の首本血を見ながら、赤鬼は苦しむような声を上げる。
「こっちだ!」
截は伊藤の両脇を抱えると、赤鬼から引きずるように離し木の影にその腰を寝かせた。
「ぐ――……ちっ、しくじった。はぁ、はぁ……!」
自分の状態に苦笑いする伊藤。
「直ぐに止血します。この傷なら死ぬことはない」
截はそのグロテスクな傷に怯むことなく、自分の所持していた携帯用の道具で伊藤の足に応急処置を施した。
「やめろ、治療は自分でする。お前は石井さんの命令通り、赤鬼の注意を引いてろ」
「……分かりました。出来ればここから離れてください。あいつの攻撃はメチャクチャだ。こんな近くにいたら、いつ流れ攻撃に当たるかも分からない」
「へ、分かったよ。まさかこの俺が足手まといとはな。こんなこと国鳥友と仕事した時以来だ」
伊藤は何かを思い出すように言った。
「……友?」
截はその言葉に思わず聞き返す。
「ああ、俺の同僚だよ。中々のやり手でな。周囲の環境や道具を全て自分の武器に変える凄い奴なんだ。 仲間内じゃふざけてトリって愛称で呼ぶ奴もいる。名前が国鳥だけにな。――何だ、知り合いか?」
神妙に聞き入っている截を不思議がったのか、伊藤が怪訝な顔で聞いた。
『俺は国鳥友、お前は?』
『……分かった。怖いが俺も協力するよ』
『川から行くべきだ。エスパー君には悪いがな』
「……いや、知りません」
截は伊藤から離れ立ち上がると、背後、赤鬼の暴れている方へと向き直った。その表情は伊藤からは見えない。
「とにかく、ここから離れてください。ここからは僕の仕事です」
「ああ、分かったよ。任せる」
伊藤は頷いた。
それを見ると、截は振り返ることなく赤鬼の方へ駆け出した。頭の中に動揺を抱えながら。
截が着いた時には赤鬼の首は既に全回復していた。まるで最初から怪我などしていなかったかのように、綺麗に傷が塞がっている。
「あの傷すら治るのか……あと約一分、死なずに上手く注意を引き付けられるといいけど」
元気一杯の様子で木々をなぎ倒している赤鬼の姿に、かなりの不安を抱きつつ、截は意を決っして交戦を再開した。
赤鬼はその大きな両腕がもっとも危険な武器だ。それにさえ気をつけていれば、ある程度致命傷を避けることが出来る。
截も当然その法則にしたがって二本の巨大な手を避け続けた。
超感覚を持つ、しかも黒服の訓練を受けた截にとって、本能のままに暴れる化け物の攻撃をかわすことは容易い。赤鬼の攻撃は掠めることはあっても一撃も截に命中することは無かった。
だが、優位な状態にも関わらず截は得体のしれない不安感を抱いていた。
圧倒的な違和感。
それが原因だろう。
赤鬼の攻撃は事前に危険を察知することで、確かにかわすことが出来る。しかし、戦い始めた頃と比べて段々とその攻撃が知的戦略を帯びたものへと変化していたのだ。
暴走し意識の無いはずの赤鬼がフェイントを使い、こっちの避ける先を予測し、まるで追い込むような攻撃をしてくる。明らかに無意識ではなく狙っての行動だ。
「こいつ……?」
截は赤鬼のその変わりように疑問を持った。
最初の頃と比べてかわすのも必死になっていく。
「やっぱりおかしい、動きが段々熟練の戦闘員みたいに――……」
赤鬼の巨大な拳が截の目の前の地面を割った。破片が飛び散り周囲に埃を撒き散らす。截は衝撃と風圧で後ろに倒れこんだ。
「うわっ――!?」
その隙を赤鬼は逃さなかった。
倒れた截に止めを刺すように両手を交互に使い、追撃を連続して繰り出してきたのだ。
截はゴロゴロと地面を転がるようにし、死ぬ気でそれを避け続けた。その顔にはもはや先ほどまでの余裕はなく、完全に必死そのものといった表情だ。
突然転がろうとした先が何かで塞がれた。赤鬼の左腕だ。これでは截は攻撃を避けることが出来ない。
「ゴォォオオァアアアア!」
赤鬼は必殺の一撃を出す漫画の主人公のような気合で、右腕を截に振り下ろそうとした。
バキューンッ!
赤鬼の側頭部に何かが命中した。翆の放った麻酔銃の弾丸だ。赤鬼の気が一瞬截から逸れ、その体がぐらつく。かなり強い麻酔だったのか前進に回るのが速いらしい。
「今だ、逃げろ!」
六十メートルほど遠く、中央エリアの三階から翆が叫んだ。
「……――さすが!」
截は翆に小さく親指を立てて礼をすると、飛び上がり赤鬼から離れた。
「もう一分経ったな。あとは石井のところまで逃げるだけだ」
正直、截は赤鬼に勝てる気がしなかったので、その時間経過の事実にほっとした。直ぐに走り出す。
「グォォオオオオオ!」
赤鬼はそんな截に食いすがるように腕を伸ばした。物凄い速さで巨大な手の平が、截の頭を包み込もうと伸びる。
バキュッン!
すかさず翆の援護がそれを妨害した。見事なタイミングだ。
「あいつ、麻酔の効果すら僅かな時間で回復するのか。あと一発しか撃てない。截、急げ!」
銃身のレンズから汗を流して走る截を見て、翆は心配そうにそう呟いた。
「電力室……電力室……――あ、あったこれね!」
一階に戻った朝奈は地図で電力室の場所を探していた。それによると、どうやら電力室は地下にあるらしい。もちろん隠しエリアとは別の只の普通の地下室にだ。
「ここからならすぐに着けるわね」
本が時間を計算して言う。
「おい、ちょっと待てよ、お前らマジで電力室に行く気なのか。おれは御免だぞ。やっと逃げられそうだっていうのに、何でそんな真似しなきゃ何ねーんだ。どうしても行くってのならあの指紋認識機の扉を開けてから行けよ!」
三上は二人が正気でないと訴えるようにそう言った。
「このままじゃ、截さんが――私の知り合いが殺されそうなの。それに、あの赤鬼をどうにかしないときっと地下の隠し施設にまで追いかけてくる。倒せるときに倒すべきだよ。」
「あんな化けもん倒せるわけねーだろ!」
朝奈の言葉に半ば怒り気味で三上は怒鳴った。
「はぁ、まったくちっちゃい男ね。朝奈さん、行きましょう。こうしている間にもどんどん時間は過ぎて言っている」
「な、おい、待てよ!」
朝奈の腕を引いて歩き出した本を見て、慌てて三上は二人の前に立ちふさがった。一歩もこれ以上先へは通さないといった表情だ。
「……分かった。三上さん、先に地下施設の入り口をあけるから……それでいい?」
このままではキリが無いと思った朝奈は、三上の要求に応じることにした。
「ああ、早く行け」
三上は半信半疑だったものの、朝奈が承諾したので僅かに嬉しそうにそう言った。
「はい、これで良いでしょ」
朝奈は感覚からマスターコードを知り、それを入力することで指紋認識式の扉を開けた。
「悪いな」
三上は明らかに悪いとは思っていないような顔でそういうと、すぐにその扉の先にある階段を下りて行き姿を消した。
「現金な奴……さあ、朝奈さん。さっさと電力を上げに行きましょう」
「うん、でもちょっと待って。万が一悪魔に追われた場合に直ぐに逃げられるように、ここの扉を開けたままにしたいの」
朝奈は本の催促を制し、別の部屋から持ってきたパイプ椅子で扉を開けたままに固定した。
「はい、これで大丈夫。行こう、本さん」
「そうね」
本は腕を組んだまま頷いた。
猛牛が通り過ぎて行った。そう錯覚させられるような猛烈な腕の一振りが顔を掠める。
爆弾が地面を吹き飛ばしたんじゃないか、と不安になるような振動が起こる。
身の毛もよだつような、体中が凍りつくような、おぞましい声が空気を震わせる。
殺そうと。
破壊しようと。
潰そうと。
その命を目の前から消す為に。
赤鬼は死の斧を縦横無尽に周囲の空間へ走らせた。
右へ、左へ、前へ。
突いて、薙いで、振り下ろして。
ただ相手を殺す、それだけの為に。
「うぉおおおおおー!」
截は無意識の中に大声で叫びながら走っていた。
目に映る柵を目指して。
感覚を持っていなかったのなら何度も死んでいたであろう攻撃をかわし、一目散に石井が仕掛けたであろう罠の元へ急ぐ。
距離にしてはそれ程長い訳ではないが、截は数十キロも走り続けたような顔をしていた。
自分がこれまで会った化け物の中でもっとも強く、もっとも利口な敵。どんな攻撃も無効化し、一撃で全ての存在を抹消する。
何の隠れる場所もないこの林の中、そんな存在に背を向け逃げるという截の恐怖心は生半可なものではなかった。
「急げ!」
建物の上から翆が心配そうに急かす。截はその声に応じるように無我夢中で足を動かした。
「ゴォォォオオオオオ!」
赤鬼が腕を振り上げ、截に叩きつけようと動作に入る。
それが後頭部を吹き飛ばす直前、截はとうとう石井の目の前まで到着した。
と同時になにやら危険を感覚が知らせてくる。赤鬼から感じられる脅威とはまた別の危険だ。截はそれが石井の設置した罠のものだと瞬間に判断した。
――まずい、このままだと俺ごと……!
咄嗟にバックステップで急ブレーキをかけて下がると、截は赤鬼の股の下を抜けるように石井から遠ざかった。
「ふふふ、入ったな!」
石井は眼前の赤鬼の姿を嬉しそうに見ると、片手にもったワイヤーのような物を高圧電流が流れている柵に向かって投げた。
するとワイヤーを通して赤鬼の下に引いてある金属製の網に、一瞬にして数万ボルトの電流が流れ、その電子の刃を自由気ままに走らせた。
「――……ッグォォオオォオオオオオオ!?」
いきなり自分の体に走った強烈な痛みに思わず動きを止め、苦痛の叫び声を上げる赤鬼。
その体は細かく痙攣しながら黒い煙を立ち上らせている。恐らく重度のやけどを負っているはずだ。
「どっからあんな網を持ってきたんだ?」
截は一息つくとそんな疑問を口にした。
「オオオオォオオオオオオ……!」
赤鬼はその電流から逃れたいのか、物凄い声量で声を発し続けているが、電気によって体が網に接着させられてしまっているため、動けず煙を吐きながら腕を振り回すことしか出来なかった。
「どうやらさっきの奴ら、上手く電力を上げたらしいな。これならば十分赤鬼の動きを止められる」
嬉しそうに言う石井。
あとは罠を解除して抗イグマ剤の注射を打つだけだ。
翆も、截も、誰もが勝利を確認した。
「ゴオオァアアァアアアアアー!」
「何!?」
全員が声をそろえて叫んだ。
その瞬間、赤鬼の腕が柵を吹き飛ばしたのだ。
大本の柵が消えたことで、ワイヤーを通して電流を得ていた網はただの網へと戻り、赤鬼の拘束も自然と解ける。
赤鬼は憎しみの篭った表情で天に向かって声を張り上げた。
――まずい……!
赤鬼から一番近い位置、建物の園長室にいた翆は、赤鬼の血走った視線が自分を睨んでいることに恐怖を感じ、思わず窓際から離れた。
野球のピッチャーのように腕を振りかぶると、赤鬼はそれを三階の翆目掛けて一気に伸ばした。
「嘘だろ!?」
驚く翆。
その大きな腕は翆の立っていた周囲の全ての壁や廊下を粉砕し、外からみると爆弾で吹き飛んだような外観を建物に作リ出した。
「うわっ!?」
間一髪でそれを避けた翆だったが、足場が吹き飛ばされているため自然と三階から落下を始める。
「翆!」
翆が骨の一二本を失うかと覚悟した時、截が滑り込むように真下に入り翆を受け止めた。
「ズシッ」っという強い衝撃が二人の体を襲う。截は翆の体を支えきれずに一緒に地面の上に倒れこんでしまった。
「中央エリアに入る気なのか!?」
石井は赤鬼が今度は一階の壁を粉砕しようとしている姿を見て目を見開いた。
普通のイグマ細胞を媒体にした化け物なら、目の前にいる自分たちを放って態々(わざわざ)建物の中へ入るわけが無い。明らかにおかしい。まるで自分の意思を持っているかのようだ。
「……なるほど、ディエス・イレめ。知能を持ったまま身体機能や再生機能を上げる研究をしていたのか。赤鬼が暴走していなかったら、イミュニティーにとってはよくない状態になっていたな。この性能は使える。なんとしてでも我々の手に入れなくては」
改めて赤鬼を手に入れる事の重要性に気がつくと、石井は急いで截のいる方へ向き直った。
赤鬼が建物の中へ入ってはこちらも避けるのが厳しくなる。電流のダメージが完全回復していない今なら、まだ動きは鈍い。抗イグマ剤を打ち込むには今を逃しては他にない。まさに最後のチャンスだった。
「おい、いつまで抱き合ってる! 早く起きろ、赤鬼が中に入るぞ!」
倒れこんでいる翆と截に向かって怒鳴りつける石井。
「煩い。腰が物凄く痛くて立てないんだよ!」
截は石井に聞こえないような小声で文句を言うと、翆の手を借りて立ち上がった。
「動きが大分のろくなってるな。今しかチャンスはなさそうだ」
翆がふらふらと壁に近づいている赤鬼に視線を向け、呟いた。
「翆、俺が注意を引きつける。その隙に後ろからこいつを打ち込んでくれ」
「何これ?」
「抗イグマ剤だよ、これを打てば仮死状態にさせられる」
「分かった、任せて」
翆は注射器を受け取ると頷いた。
それを確認すると、截は二本のナイフを抜きながら赤鬼に向かって突撃した。
赤鬼が気配に気づき、振り向く。
例えダメージを与えられないとはいえ、電流の効果からの回復を遅らせることにはなる。
截は先ほどと同様に赤鬼の腕をかわすと、踊るよな綺麗な動きで刃を走らせた。
「なっ!?」
刹那、截の体は中を舞った。
截は超感覚を持っているにも拘らず、その攻撃に気づけなかった。
自分が赤鬼の腕に吹き飛ばされた今この瞬間ですら、事態を理解出来てはいない。
一体誰が予想できただろうか。
赤鬼は截の感覚を利用したのだ。そう、截やキツネが好んで使う囮という技を使って。
危険を感じると言う截の感覚は、その危険度が強ければ強いほどはっきりと感じることが出来る。だが、それは危険度が弱い攻撃には気づき難いということを意味していた。
赤鬼はその特性を利用した。まるで超感覚者という存在を知っていたかのように。
右の腕を大きく振りかぶり、截の感覚の注意を最大まで引き付け、その隙に左の腕で押すように截を攻撃したのだ。
爪が胸を貫く直前、截は二本のナイフを本能的に前に掲げたおかげで、遠くに吹き飛ばされるだけで済んだ。しかしその衝撃は計り知れない。
全身に雷が落ちたような痛みと不快感が走り、目の前の景色が歪む。截は全く動けなくなっていた。一対一の勝負だったのなら完全な敗北と言える状態だ。
「ゴオオゥウウウウ……」
赤鬼はよろよろと歩を進めながら、草の上に横たわっている截に近づいていく。
「截っ!」
翆はすかさず最後の麻酔銃を打ち込んだ。それはしっかりと首本に命中したが、赤鬼は一瞬ぐらついただけで直ぐに動きを再開した。
「まずい、このままじゃ本当にまずい……!」
截に対し双子の兄弟、自分自身のような感覚を抱いている翆にとって、この状態は耐えられるものではない。自然と興奮気味になっていった。
截を助けようにも麻酔銃の弾はもうないし、超感覚の無い翆では截のように赤鬼を真正面から引き付けることも出来ない。
また近づけば直ぐに気配を読まれるため、後ろから注射器を打ち込むことも出来なかった。
「くそっ!」
一か八か運にかけようと翆が黒柄刀の柄に手を伸ばしかけた時、あるものが目に入った。
「これは……!」
大地を踏みしめる音が聞こえる。
力強く、慎重に、威圧感のある足音が。
截はぼやけた視界で迫り来る赤鬼の姿を見上げた。
先ほど吹き飛ばされた時の衝撃の所為で体の自由が利かず、ただ視線を自分の命を刈り取ろうとしている相手に向ける事しか出来ない。
感覚が無慈悲にも絶えず警告を送る。
お前は死ぬと。
『 庄 平 ぇ え ー ! !』
『……分かってます。社会的にゾンビになろうと、俺たちはまだ生きている。生きていればチャンスはある。行動することが出来る。……――安形さん、ありがとう。おかげで、少しだけ楽になった気がします。一緒に……頑張りましょう』
『悟くんっー!』
截の頭の中に数年前の記憶が甦る。
何故自分がここに居るのか。
何の為に黒服に入ったのか。
何を成し遂げるために、自分の法的な死を認めたのか。
截は首からぶら下がっている小さな銀色の十字架を見つめた。
両親の不仲、悟の頃の思い出、そして庄平と鈴野の死苦という記憶の詰まった十字架を。
「まだ、死ねない。俺は……まだ……」
截は気力で体を動かすと、必死に立ち上がろうとした。
自分にはまだやらなくてはいけないことがある。
成し遂げなくては行かないことがある。
その為にはここで死ぬわけにはいかない。
生を諦めるわけにはいかない。
自分は庄平と鈴野の思いを背負っているのだから。
あの二人の敵を討つまで、決してどんな大怪我を覆うとも安らかに寝ることは許されない。
絶対に。
截は健気とも思えるような様子で何とか体を持ち上げた。
だが、その瞬間、赤鬼の拳が視界を塞いだ。
「あぎゃぁぁあああああっ!?」
突然大きな悲鳴が聞こえた。先ほどの指紋認識扉の方からの様だ。
朝奈と本はそれが三上の声だと直感で分かった。
「三上さん!?」
廊下の中ほどで朝奈が立ち止まる。
「ただ事じゃない様子だったわよ……!」
本が怯えた表情を作る。
今の声は明らかに断末魔の叫びだ。
こ ういった命を懸けたサバイバルの状況に慣れていない二人でも、三上の尋常ではない声から感情を読み取れた。
そう、恐怖という感情を。
「な、なんかかなりやばそうね。外もそうだけど……。朝奈さん、どうする?」
「三上さんが死んだとは限らないよ。た、助けに行こう」
「正気? あの声を聞いたでしょ、あれはどう考えても殺されたわよ」
「でも、実際に見たわけじゃないし……助けられるなら助けるべきだよ」
もうこれ以上自分の関わった人間に死んで欲しくない。朝奈は恐怖感を感じつつも道を戻りだした。
「ちょ、ちょっと! 外の赤鬼はどうするのよ?」
「もう電力は上げたし、截さんなら強いから大丈夫だよ。私たちは行っても邪魔になるだけだと思う。だったら先に地下に降りて脱出手段を探そう」
「行かない方がいいと思うけどなぁ……」
本はそう言いつつも、一人で行動するのが怖いのか、朝奈の後を着いて行った。
「截さんなら大丈夫、絶対に死ぬわけが無い……!」
朝奈は本心からそう信じた。
「……止まった?」
截は眼前で震えながら停止している拳を見つめた。
ようやく戻ってきた体の自由を活かし、赤鬼から離れその全様を見る。
「ゴォォッ――オオオオォオオ……」
赤鬼は痙攣しながら何かを必死に耐えているようだった。
「あれは……」
截はその背に抗イグマ剤の注射器が刺さっているのを見つけた。
「翆?」
しかし周囲のどこにもそれを打ち込んだであろう人物の姿はない。一体どうやって注射したというのだろうか。
「ゴガッ、ガガガ……ガッ……」
赤鬼は恨めしく截を睨むと、ふらっと倒れこんだ。
ドシンッという音と共に地面に横になる赤鬼。
どうやら抗イグマ剤の作用で完全に機能停止したらしい。
一般的な悪魔なら即死するような状態なのだ。当然といえば当然の結果だろう。
まだピクピクと痙攣しているものの、赤鬼が目を覚ますことは無かった。
「截、大丈夫か?」
建物の下の方から翆は駆けて来た。
先ほど落下した場所から動いていなかったらしい。
「翆、どうやって注射を?」
「ああ、これか。打ったんだよ。この麻酔銃で」
「は?」
「この注射器、病院なんかで使用されてる物と違って、麻酔銃の弾丸みたいに注射筒になってるんだよ。だからもしかしたら銃で撃てるんじゃないかとおもってさ、やってみたら出来た」
「やってみたらって、もし銃に対応してなかったら大切な抗イグマ剤を失ってたんだぞ?」
「あの時はそんなこと考えてる時間が無かったんだ。結果は出たんだ。もういいだろ」
翆は少しふて腐れたように言った。
「……キツネが居なくてよかったな。あいつが居ればお前は首だよ」
「は、あいつが私を無理やりあんたの相棒にしたんだぞ? そんなことはありえないよ。ま、多少は嫌味を言われたかも知れないけど」
「そうだったな」
截は自分と翆が初めて会った時、そして翆と一緒に死にかけたときのことを思い出した。
「とにかく、これで赤鬼はもう行動不可能だ。あとは博士を探して朝奈さんと共に逃げるだけ。急ごう」
「ああ」
翆は頷いた。
「良くやった」
石井が反笑いしながら柵の吹き飛んだ場所を跨いで歩いてきた。
「これで約束は果たした。もう俺たちに用はないだろ。行っていいですか?」
すかさず截が聞く。
「確かに、お前たちは十分良くやってくれた。見事な働きといえる結果だ。だが……」
その場の雰囲気が急に変わった。
「だからこそ、ここで死んでもらう」
「なっ!?」
突然石井はナイフを懐から取り出すと、それを截と翆に向かって突き出してきた。間一髪でそれをかわす二人。
「能面……やっぱりあんたは気に食わない女だな!」
翆は石井を睨みつけながら黒柄刀を一薙ぎし、その刃を伸ばす。
「翆――」
「截、あんたは疲れてるだろ。この女の相手は私に任せろ」
「分かった。気をつけろよ」
截は石井が構えているナイフを見たことがあった。
高圧冷却ガスナイフ。
柄の中に内蔵した高圧冷却ガスを刃の切っ先から噴出することで、どんな動物でも一撃で即死させることが出来るという代物だ。
一度その機能を使えば、マガジンを交換しないかぎり二度と使えはしないが、その一度を使われたらこちらには勝ち目が無い。
ある意味、これをもった人間を相手にすることは悪魔と戦うことよりも危険と言えるだろう。対人戦には絶対に使用してゃいけない武器なのだから当然だ。
「利用だけ利用して捨てるのか。さすが天下のイミュニティー様だな」
翆があざ笑うように言う。
「ふふふ、お互い様だろ。お前の相棒だって私を利用していたぞ? 上手くごまかしてはいたが何度もイミュニティーの内状や六角行成について探りを入れてきた。もっとも大した情報は教えていないがな」
「ふん、前々から気に食わないと思ってたんだ。丁度いい、ここで殺してやる」
「物騒なセリフだな」
石井はナイフを目の高さまで掲げた。
その瞬間、翆は黒柄刀を上段に上げ、真っ直ぐに切りかかった。
相手が人間であることに何のためらいも迷いも無く。
ただ、憎しみを込めて。
サファリパークなのに動物の悪魔が殆ど出ていないと言うことに気づいた今日この頃・・・。