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<第十一章>中央エリア

<第十一章>”中央エリア ”



「早く、急いで!」

朝奈は自分の後方を走る面々に呼びかけた。

「急かすなよ、こんな状態で早く走れるわけ無いだろ!」

 それに対し、三上がイラだった様子で答える。

 現在の彼らの居場所は中央職員用エリアの中、つまり屋内だ。翆、三上、本が二本の太い枝と上着で作った簡易タンカーに健太を乗せ運び、朝奈は治療場所を探している。

 混合ライオンとの戦闘後に健太を見つけた彼らは、そのあまりの凄惨な姿に慌てて彼を中央エリアへと運び出した。

 右足、左の脇腹、右肩。

 健太が混合ライオンに貫かれたこの場所は、大量の血液を今この瞬間も無造作に垂れ流している。

 まさに一刻を争う状態だ。

「あった、あそこ!」

 朝奈はロビーから右にある廊下の突き当たりに、医療室と書かれたプレートを発見した。

「急ぐぞ、これ以上の出血は流石にまずい」

 健太の青く薄くなった顔色を見ながら、翆が急かす。

 医療質につくとすぐに健太の治療が始まった。

 幸いにも今この場所には微かとはいえ、医療の知識を持っている人間が三人いる。朝奈、翆、三上だ。

 朝奈は父志郎の影響、翆は黒服で学んだ知識、三上は飼育員としての経験から、それなりの対処法は知っている。

 誰が何を言うとも無く、朝奈はお湯を沸かしに行き、翆は針やら包帯やらを取り出した。

「これは……助かりそうに無いぜ……」

 健太の体をベットに押さえつけると、その傷の凄まじさに思わず声が漏れる三上。

「黙って押さえてろ!」

 翆は三上に一喝すると、熱湯で消毒した針と糸で健太の傷を縫い始めた。

「くそっ、深いな……!」

「はぁ……はぁ、くっ……がぁ!」

 翆の腕が動く度に健太の口から辛そうな喘ぎ声が発せられ、体が大きく跳ね上がる。その度に、三上と本は健太を固定しなければならず、苦労した。

「健太さん、頑張って!」

 次第に熱を失っていく体温を掴んだ手から感じ、朝奈は半泣きになって健太に呼びかけた。

 青白い健太のその顔は大粒の汗が流れ落ち、唇もこれでもかというくらい紫色になっている。まるで既に死人であるかのようだ。

 しばらくして翆は作業をしていた手を止めた。朝奈が不思議そうに顔を向けると黙って首を左右に振る。もう助けられないということらしい。

「そんな、まだ生きてるのに!?」

 朝奈は翆に食って掛かろうとしたが、どこからそんな力が出たのか、健太が腕を強く引いたためベットに覆いかぶさるように転んでしまった。

 自然と健太の顔が目の前に来る。

「健太さん……」

 朝奈は潤んだ目で健太の顔を見た。

「そんな顔で見るなよ。惚れちゃうぞ」

 朝奈の顔を見て、健太はふざけるように力なく微笑んだ。

「健太さんには雅子さんって言う彼女がいるでしょ?」

「ああ、そうだな。……結局、合えなかったけど。あいつまだ生きていてくれるかな。あの世で再開なんて嬉しくないし」

「健太さんの恋人だもん、簡単に死ぬわけ無いじゃん。きっとこの建物のどこかに隠れてるよ」

「……朝奈、俺が死んだら代わりにあいつを探してくれよ。約束してくれ……あいつは俺の全てなんだ」

 健太は朝奈の腕を一層強く掴みそう言った。死にかけているにも拘らず、その言葉を放った瞬間だけは目が力強く光った。

「頼む」

 神頼みのように言う健太。

 朝奈はその健太の思いを満足させるために、強く手を握り返ししっかりと答えた。

「心配しないで。必ず……必ず雅子さんを見つけてあげるから。絶対に見つかる前に逃げたりしない」

「ありがとう……朝奈……」

 満足そうに微笑んだ健太の目から、どんどん光が抜けていく。まるで先ほどの強い眼差しが嘘のようだ。

「健太さん……!」

「雅子に、伝えてくれ。こんなこと、人前で言うのは抵抗あるけど……」

 朝奈はそれを聞いてしまったらもう最後のような気がした。

 もうこれ以上健太と話すことは出来ない。

 生きている顔を見ることが出来ない。

 これに答えてしまったら、本当に健太が死んでしまう気がする。

 だから朝奈はそれに応じることはなかった。

 しかし健太は構わずに言葉を続ける。

「愛して、るって……」

 途端に朝奈を掴んでいた健太の手から力が抜けた。暖かかった腕が冷たい感触に変化する。

 まるでゴム人形のように。

 初めから生きていなかったように。

 自然すぎるほどあっさりと、健太の手は朝奈の手からすべり落ちた。

「健太さん……」

 自分の手の平の空虚感を噛み締めながら、朝奈は静かに瞼を濡らした。








 中央職員エリア、監視カメラ室。

 今建物に入ってきたばかりの五人を見て、大西は人間離れした怒りの表情を浮かべた。

「あの小娘……まだ生きてたのかい。てっきり赤鬼に殺されたと思ってたのに」

「もう時間も無い。急がなければ脱出用通路が爆破時刻に達してしまいますよ。この際、あんな一般人は放って置きましょう」

 スポーツ狩りの男、高宮が言った。

「いや、駄目よ。不穏な分子は排除するに越したことは無いわ。高宮、あんた残った仲間を連れてこの建物を死守しなさい。あいつらがここに来たってことは、イミュニティーの奴らもそのうち来るからね。脱出はあたしと夫の文雄だけでいい」

「……分かりました。赤鬼はどうしますか? あれは――……」

「この際しょうがないわ。あれはイミュニティーにくれてやるわよ。なに、後で取り返せばいいでしょ」

「本気で言っているんですか、赤鬼を失うことはディエス・イレの存続そのものにも関わって来るんですよ!?」

「ふふん、あんたら下っ端は命令さえ聞いていればいいの。わたしら幹部の言うことに逆らうんじゃないよ」

 脅すように大西は高宮を睨んだ。

「……残ったメンバー全てに大口化用の注射器を持たせ、建物中に待機させます。あなたと文雄さんはすぐに逃げてください」

「それでいい。じゃあ、後は頼んだわね。行くわよ、あんた」

 大西は涎を垂れ流しながら上を見つめている文雄を担ぐと、我が物顔で部屋を出て行った。

 その姿を見送ると、高宮は唾を飛ばすように呟く。

 表情は先ほどまでのような商売笑顔とは違い、憎しみに満ちていた。

「あんたの考えは分かってる。東郷大儀さんの手からディエス・イレを乗っ取る気なんだろ。そんなことさせてたまるか。俺たちはあんたに忠誠を誓ったんじゃない。東郷さんのためにこの組織にいるんだ」

 憎々しげに扉を睨みつけると、高宮は携帯電話を取り出した。

「――……あ、鳥島さん、実は――――と言う事で……はい、そうです。よろしくお願いします」

 短く何かを頼むと、高宮は素早く電話を切ってほくそえんだ。

「これで赤鬼は大丈夫だ。あとは大西の処理だが……まあ、文雄の様子を見れば問題はないな。あの馬鹿女の驚く顔が目に浮かぶ。ははははっ!」

 気が狂ったように大きく叫ぶと、高宮は監視カメラに向き直った。そこには医療室の面々が映っている。

「さて、命令は命令だ。どうせもう逃げられないし、俺の最後の仕事をしようか」

 高宮は画面の朝奈を見つめた。








 医療室の中は暗いムードで包まれていた。

 ベットに横たわる健太の亡骸。

 それに多い尽くすように身を伏せている朝奈。

 神妙な顔つきで朝奈を見守る本と三上。

 いつまでもベットから離れようとしない朝奈たちに痺れを切らした翆は、眉間に皺を寄せて彼らに呼びかけた。

「おい、もう行くぞ。そいつは死んだんだ。いい加減離れろ」

 しかし朝奈は離れない。黙ったまま翆の言葉が聞こえないかのように、じっとベットのシーツを掴んでいる。

「この……!」

 頭に血が上った翆は朝奈の首本を掴むと、思いっきり引っ張った。当然、朝奈は医療室の床に倒れこんでしまう。

「さっさと行くぞ。誰の為に高橋志郎を探していると思ってる」

 倒れこんだ朝奈に謝ることも無く、怒鳴りつける翆。

「翆さんには私の気持ちなんて分からないよ」

「ああ、分かんないな」

「私の所為で、何人もの人が死んじゃった。小林さん、美智子さん、フリーゾーンの人たち……それに健太さんまで。みんな私の所為で……」

 朝奈の目は再び潤み出した。

「そんな感情なんか捨てろ、少し前にも言っただろ。優しさなんて幻だ。健太や美智子はあんたのことを本心から思っていたわけじゃないし、あんたのその悲しみも只の自己満足だよ」

「私を助けようとして死んだんだよ? 何でそんなことが言えるの……!?」

 朝奈は顔を上げ、濡れた目で翆を睨んだ。

 確かに自分は罪悪感からフリーゾーンの人たちを助けようとした。しかしそれだけかと言えばそうでもない。助けたい気持ち、死んで欲しくない気持ちもあった。決して建前であんな行動を取ったわけではない。その気持ちは健太も小林でも一緒だったはずだ。

「翆さんは……偏ってるよ。どうしてそんな風に考えるようになったのか知らないけど、優しさは幻なんかじゃない。それは科学的に見ればいろんな言い方は出来るよ。翆さんが言っていたように罪悪感、共感恐怖とか……。でも、それはあくまで一つの見方でしかないんだよ。私は本心からあの人たちを助けたいと思った。健太さんも、きっと私を助けようとした時同じ気持ちだったと思う」

「自己満足だな。他人のことを考えていると思っていても、結局は自分のことしか考えてないんだ。無意識の内に自分の損得を計算してる。それが人間ってものだよ」

「私はそうは思わない。善悪にしろ感情にしろそういう風に二分化したくない。確かに翆さんの言っているようなこともあるかもしれない。でも、それだけじゃない。感情ってガラスの上に置いた水滴みたいなものだと思う。どこかに偏っても別のどこかにも広がっている。例え罪悪感からの行動でもちゃんとそこには優しさがあるんだよ。どれほど化学的に感情を分析しようとも、それを感じた本人が優しさと思っていればそれは優しさなんだと思う」

 自分なりに思うことがあったらしい。この言葉を聞いた途端、翆は僅かに動揺した。

 だがそのまま納得するのが嫌なのか唇を尖らせて言い返した。

「……やっぱり自己満足じゃないか」

「そうだね」

 朝奈は涙を拭い微笑んだ。





 五人はその後健太の死体を外に持ち出し、火葬した。朝奈は翆が時間がないと反対すると思ったが、先ほどの問答が影響したのか、大した反対も無く作業を終えた。

「で、今更だけどあんたら中央職員用エリアに何の用があったんだ? こんなに事件発生から時間が経ってるのに態々(わざわざ)来るなんて……」

 中央職員用エリアのロビーに戻った途端、何かを探るように三上が朝奈たちに質問した。

 朝奈はそこで自分と翆のことをかいつまんで話した。

「ふーん、そんな組織があったのね。知らなかったわ」

 話を聞き終わると、何故か本は嬉しそうになった。朝奈と翆はそんな彼女に怪訝な目を向ける。

「あ、私――新聞社の人間なの。レポーターって奴よ」

「ああ、マスコミの人間か。残念だったな。幾らこの情報を世間に流そうとしても、イミュニティーから圧力が掛かかるから公表なんか出来ないぞ」

 本のセリフを聞いて嘲るように翆が笑った。

「そんなことは考えてるわよ。私だって馬鹿じゃない。海外の情報局を利用したりとか色々と手はあるわ。最近の情報ネットワークは凄いから簡単に公表できると思う」

「ふん、まあ、頑張れ」

 同じような人間を何度か見て裏を知っている翆は、あまり興味がなさそうにそう言った。

「それで、本さんと三上さんは何でここに?」

 先ほどの質問を聞き返す朝奈。

「俺たちは別に好き好んでここに来たんじゃねーよ。猿の悪魔の集団に追いかけられて、偶然ここに逃げるしかなかったんだ」

 ――猿の悪魔……草食獣ゾーンにいた赤鬼を恐れて逃げてきたのかな?

 朝奈は赤鬼の姿を思い出しそう考えた。

「んで、ここに閉じこもってそろそろ大丈夫かなって外に出たら、あんたらと遭遇したってわけ。とんだ災難だよ」

「そうだったんだ。おかげで私たちは助かったけど」

 朝奈は無理に明るく笑った。

「おい、無駄話はいい加減止めろ。もう本当に急いだ方がいい」

 突然翆が全員に呼びかけた。

「午後六時四分。そろそろ事件発生から七時間だ。いつ連中が逃げても可笑しくない」

「そうだね。あの大西さんの性格だと、私たちが生きてるって知ったら何をしてくるかも分からない。出来るだけ早くお父さんを探そう」

 朝奈が頷いた。

「三上とモトミチはどうする?」

「本、美智だから。あなたの発音だと、何か江戸時代の人間の名前みたいに聞こえるんだけど。――……さっきの話から察するに、普通に紀行園から出ることは出来ないんでしょ? だったら私はあなたたちと一緒に行動するわ」

「俺もそうするよ」

 翆の問いに二人とも一緒に行動することを示した。

「そうか、だったら二手に分かれよう。その方が効率がいい。隠し出口か高橋志郎を見つけたら連絡し合おう。私とモトミチは地下の有無とこの階を調べる。朝奈と三上は上を調べてくれ」

「分かった」

 全員が頷き、それを見た翆は気合を入れるように叫んだ。

「よし、じゃあ、始めるぞ」










 草食獣ゾーン 午後6:07



 草食獣ゾーンの一般道路上。

 車が炎上し、穴や引っかき傷だらけのこの場所に今一匹の生き物と四人の人間が居た。

「くそ、こいつ傷が再生してくぞ。どうなってるんだ……!?」

 赤鬼に刺さっているパイプ。その周囲の傷を見て、截は叫んだ。

「普通に攻撃しても効果は無い。こいつは不死身なんだ」

 能面こと石井が応じる。

「不死身!? だったらどうする気だったんです?」

「幾ら不死身といえども所詮はイグマ細胞の産物、抗イグマ剤を直接体内に打ち込めば、動きを止められるはずだ」

「そうか、ってことは俺の仕事だな。それをこっちに渡してください」

 截は黙って石井から注射器のようなものを受け取った。

 今の布陣は截が前衛、石井が中衛、褐色男とオカッパ男が後衛といったものだ。当然抗イグマ剤を打つのは截の仕事となる。

「ゴォオオオォオオオオ!」

 赤鬼は胸に刺さったパイプを引き抜くと、大きく鳴いた。柵の上に倒れていた体を起こし、截を睨みつける。

「万全時の巨狼並みの筋力に異常な再生能力か。厄介な相手だ」

 真横の潰れた車を見て截は呟いた。

「おい、一端引くぞ。この先に昼に罠を作っておいた。そこにおびき寄せる。いくらお前でも、動きを止めていないあれに注射を打ち込むのは無理だろ」

 正面から赤鬼の注意を引こうとしていた截を止めるように、石井が呼びかけた。

「確かに、それはちょっと厳しいな」

「こっちだ!」

 石井たちは紀行園の中心、林の中へと走っていく。

 ここは猿や鹿などが生息しているエリアだったが、現在は赤鬼が徘徊ルートとして使っているため、どの生物も悪魔もいなかった。

「逃げるには丁度いい」

 截は溜めていた息を放出すると、すぐに三人を追って後に続いた。

 これによって、紀行園の生存者の全てが一点、中央職員用エリアへと集まりつつあるが、幸か不幸か、誰一人そのことは知らなかった。








「また大口男がいる!」

 朝奈は廊下の前方、自分たちに向かって走ってきた三匹の大口男を見て叫んだ。

「――さっきみたいに迂回するぞ。相手してたらきりがないからな!」

 三上は言葉を発すると同時に廊下の壁にある扉を開き、その中へ駆け込んだ。二人は中に入るとすぐに扉を閉め、戸棚などで扉を塞ぎにかかった。

 この部屋は二本の廊下の中間にあるため、閉じ込められるようなことにはならず、入ってきた入り口と向かいの扉を通れば簡単に先へ進むことが出来る。

 この地形を利用し、朝奈と三上は今いる場所まで何とか二階中の悪魔猿や、ディエス・イレの人間が変化した大口男の襲撃から上手く逃れていた。

「しかし、こうも化け物どもに気を使ってたら全然建物の探索なんかできねーな。朝奈さん、なんか見つけた?」

 扉横の壁に座り込むと、休憩するように三上が朝奈に話しかけてきた。

「何も変わったものは見なかったけど……多分、次の最上階に行けば何かあると思うよ。一階で確認した地図が正しければ園長室とかもあるみたいだし」

「園長室ね。何度か入ったことあるけど、特に変なもんは無かったぜ?」

「隠し扉とかがある可能性があるの。実際、入り口近くの職員用建物にはあったから」

「そんなもんがあるとは俺は信じられねーけど、まあ、頑張ってくれ」

「随分人事だね」

「まあな、俺って自己中心的な人間だから。さっきのあんたのセリフに文句を言うつもりはないけど、殆どの人間はこうだと思うぜ」

「でも、ライオンの化け物に殺されかけたとき助けてくれたじゃん。本当に自己中心的だったらあの時は助けないで逃げると思うよ」

「ぷはは、お前お人良し過ぎ。あの時は麻酔銃で倒せると思ったんだよ。あいつが居ると居ないとじゃ、その先の俺の生存率が大分変わるからな」

 三上は心から可笑しそうに笑った。

「今お前と行動を共にしてるのも、ただ逃げ道を見つけたいだけだから。言っとくけど、俺あの翆とかいう怪しい女が居なかったらお前を襲ってたかもしれないぜ。変な仲間意識は持つなよ」

「……冷たいね」

「普通だって」

 三上は再び笑った。

「さあ、もう行こうぜ。そろそろ息切れからも回復しただろ」

 朝奈は静かに立ち上がると向かいの扉に耳を当て、悪魔らの行動音が聞こえないか確かめた。そして何も居ないことを確信すると、ゆっくりと扉を開けた。

「うっ――!?」

 その瞬間、電流のように何かの映像が頭の中に流れ込んでくる。





 廊下、丁度朝奈が扉を開けたその先の廊下から、見慣れない男が歩いてきた。

 グネグネと、かなり急な角度で曲がった長髪癖毛の髪型に、スーツを着ている。歳は四十代から五十代だろうか。かなり整った部類にはいる顔付だ。

 男はこの部屋の扉を開け中に入った。

「あ、東郷さん!」

 部屋の中に居た志郎が驚いて声を上げる。怯えているというよりはどこかその声は嬉しそうだ。スーツの男、東郷は笑顔で志郎を見た。

「やあ、博士。研究に飽きたか? 珍しいな。こんな所に居るなんて」

「はは、ちょっと生き抜きしたかっただけですよ。よくここが分かりましたね」

「タヌキに聞いたんだよ。白衣姿の白髪の男性が一人で休憩室に篭ってるってな。上に来る時は白衣を脱がないと怪しまれるぞ。いくらディエス・イレの人間だらけの中央エリアとはいえ、少しは一般の従業員も居るんだからな」

「すいません、つい忘れていました」

 志郎は自分の姿に今気づいたのか、慌てて謝った。

「それで、研究の方はどうなんだ? もう大分終盤に進んでいると聞いているが」

「はい、ほぼ完成と言ってもいいくらいのレベルになっていますよ。後は小さな問題だけです」

「小さな問題?」

「実は、あれを投与した人間は確かに不老不死の肉体を得れるのですが、反作用の所為で突発的な暴走状態になってしまうんです。それさえ何とかなれば完成なんですが」

「暴走常態か、確かにそれは面倒だな。仲間が傷つく姿は見たくない。暴走状態になった人間はどうした?」

「手に負えなかったので処分しました。あ、心配しないで下さい。イミュニティーの捕虜ですから同士たちは無事ですよ」

「それならいい。しっかり完成させてくれよ。本番で暴走したら、流石にお前らも処分は出来ないだろ」

「確かに、本番の処分はディエス・イレの壊滅を意味しますからね。何とかやり遂げて見せます」

「ああ、頼んだぞ。俺は博士に期待してるからな」

「いえ、ここに始めて来た時とは違って、僕もちゃんと東郷さんの目的も理念も理解しています。期待に損なうことは決して致しませんよ」

「ふん、その言葉信じるぞ」

 東郷は優しい教師のような目で志郎に笑いかけると、部屋から出て行った。

 志郎はその後姿を尊敬するような目でじっと見ていた。






「はぁ、はぁ……お父さん?」

 感覚による情報理解を終えた後、朝奈はその映像の意味を理解出来なかった。

 まるで志郎がディエス・イレに入ったことを嫌がっていないように見えたから。

 嬉しそうにしていたから。

「お、おい……大丈夫か?」

 顔色を悪くし壁に寄りかかった朝奈を見て、三上は不安げに聞いた。

「……だ、大丈夫。ちょっと眩暈がしただけ。行こう」

 朝奈はショックを隠すように歩き出した。

 ――お父さんが、本当にテロリストになんかなるはずがない。あれは――……きっと演技だよ。絶対にお父さんは……

「テロリストになんか、ならない……!」

 無意識のうちに口から言葉が漏れる。

「本当に大丈夫か? 悪魔に感染してるぽっかたら言えよな。すぐに逃げるからよ」

「大丈夫だって!」

 朝奈は半場自分に言い聞かせるように大声を出すと、ふらふらと歩き出した。

 そのまま覚束ない足取りで階段を上り、三階に来ると、運がいいことに悪魔の姿も大口男の姿もなかった。こんなショックを受けている状態で悪魔に遭遇すれば、きっと朝奈は簡単にやられてしまうだろう。 それほど朝奈の受けた衝撃は大きかった。

 階段の先は二階の間取りとは違い、一階と同じように大きな空間になっていた。ソファーや小さなバーのような物まである。園長や紀行園の上位の人間の為の娯楽施設か、客用の待合室といった所だろうか。その空間の先にはただ一つだけ扉があり、園長室と書いてある名札が掛かっている。正確には階段を上がってすぐの場所に職員用の仕事部屋のようなものがあったが、重要なものがあるとは思えなかったので二人は其処を無視して園長室へと向かった。





 歩きながら、朝奈の脳内には再び過去の映像が流れる。

「園長、計画は上手くいっているのか?」

 東郷は丸いすに腰掛けながらテーブルに置いてあるグラスを取り、そう聞いた。

「はい、東郷さん。順調ですよ。シシュフォスが完成すればいつでも計画を実行出来ます。大口人間なんて失敗作も途中で生まれましたが、既にバイオハザード用の生物兵器は完成して別のアジトに送っています。シシュフォスが完成次第、いつでもばら撒くことができますよ」

「そうか。じゃあ、本当にあとはシシュフォスだけだな。まあ、あの高橋博士の腕は確かだ。心配する必要はないだろう。計画が実行されれば、この紀行園は用済みとなる。お前もそろそろ荷物をまとめておけ」

「はい? 用済みとは?」

「イミュニティーに攻撃を仕掛けるんだぞ。直ぐにここも足が着く。いつまでも普通のサファリパークでは通せないだろ。お前には長年ここの園長として勤めてもらったが、それももう終わりだ。後は俺の部下として計画成功の為に別のアジトへ移動してくれ。今までよく頑張ってくれたな」

「そんな……!」

 大西は愕然とした。自分の名誉も地位も全て失ってしまうことになるのだから。ディエス・イレの理念にも、イミュニティーに天罰をするという目標にも、大西は興味が無かった。

 彼女がディエス・イレに入り、紀行園をアジトとして提供した理由は一つだけ。そう、金が入るからだ。

 停滞気味だった紀行園の所有者としては、ディエス・イレからの献金はまさに最高の果実だった。ただ場所を提供するだけで多額の資金を得ることが出来る。そのために彼女は夫の文雄を幽閉し、自ら園長としてディエス・イレの人間となった。

 その全てを失うことになる。大西にとってそれは恐怖以外の何物でもなかった。

「どうした?」

 暗い顔をした大西を訝しがるように、東郷は尋ねた。

 ここで反対などすれば自分の命が危うくなる。大西は引きつった笑顔を浮かべ、素直に了承した。

「分かりました。計画の成功のためにも、私が必ずシシュフォスを完成させますよ」

「ふふふ、ま、実際に研究するのは志郎だがな。ワイン、上手かったぞ」

 東郷はグラスを置くと、上機嫌で階段を下りていった。

「何か手を打たないと……このままではあたしの全てが無くなってしまう。そんなの絶対に許せないわ」

 たった一人この空間に残った大西は、青い顔でグラスを一気に飲み干した。






「開けるぞ」

 返事も聞かずに三上は勢い良く園長室の扉を開いた。

 大西と東郷のやり取りに意識を取られていた朝奈は、何の供えもなく部屋に突然踏み込むことになり、一瞬たじろいだ。

 ぱっと見れば一般的な社長室のようだが、部屋の中は赤色の花瓶やら人形やらが無数に置いてあり、かなりの悪趣味さが伺える。

「来たか」

 二人が中に踏み込むと同時に、部屋の中心の机の奥に座っていた高宮が振り向いた。

 狂気を含んだ笑みを浮かべながら。







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