<第十章>”狂獅子”
<第十章>” 狂獅子 (バアル)”
猛獣ゾーン
午後5:05(今から10分前)
ディエス・イレの人間たちは幹部大西の命令で、紀行園のあちこちに大口人間を生み出す為の生物兵器をばら撒いていた。
ばら撒くといっても生存者に注射したり、悪魔化していない動物に注射するだけなのだが。
もちろん、今の紀行園でそう簡単に生存者が見つかる筈も無い。そんな時は彼らは自分自身に注射を打ち込むことで大口人間化し、大西を逃がす為の障害になった。
普通なら考えられない行動だが、彼らにとっては自分の命よりも大西を逃がす、つまりディエス・イレの重要情報をイミュニティーに渡さないことの方が大切だったのだ。
そのおかげで悪魔と比べて数はかなり少ないものの、今紀行園には多くの大口生物が誕生していた。
一般道を我が物顔で悠々と歩いているこのライオンもその仲間だ。
このライオンは大口男が放ったタンポポ胞子を吸い込み、感染した。
これだけ聞けば、多くの人間はただの感染ライオンだと考えるだろう。だが実際は違う。
このライオンは大口生物に感染する前に既にイグマ細胞に感染し、悪魔化が進行している途中だった。
通常このような場合はより多く感染していた方の化け物に姿が定着するのだが、このライオンの場合だけは違ったらしい。
体内でイグマ細胞と大口生物の細胞が突然変異により組み合わさり、全く新しい二つの生態機能を持ったハイブリットの化け物となったのだ。
つまりそれは十秒感染能力、タンポポ胞子による空気感染能力の、二つの感染機能を持っていることを意味している。人間からみれば最悪の脅威以外の何者でもない存在だった。
鼻の下からお腹の上にまで開いた巨大な口、わき腹や尻尾の付近から伸びた槍のような無数の触手、そして全身の黄色に近い灰色の皮膚には、タンポポ胞子を出す為の無数の穴が開いており、目は見開かれ瞳が無いかのよう黄色く濁っている。
大きさも通常のライオンの二倍はあるのではないかと思えるような体躯で、まさにおぞましいとしか言えないような外見だった。
今、普通なら遠くから見ることすら避けたくなるようなこの混合ライオンの前に、突然何かが飛び出した。
「ギュウウォオオ!」
それは三匹のトラの悪魔だった。
いや、それだけではない。
トラの悪魔の後方にはチーターや狼の悪魔など、この猛獣ゾーンの殆どの肉食動物の悪魔が集まっている。どうやら悪魔でも大口生物でもない混合ライオンに、敵対心というか、異質感というか、とにかく自分たちとは別の生物だという感情を抱いているらしい。
「ギュウウォオオオオオー!」
大きな威嚇の後にそれらの化け物は一斉に混合ライオンへと飛び掛った。
猛獣ゾーン 午後5:20
「じゃあ、いいか。もう一度確認するぞ」
「うん」
翆の言葉に朝奈が頷く。
「朝奈の話から考えると、大口男とやらは十秒間隔で感染能力のあるタンポポ胞子を周囲に射出し、正面には三本の槍のような触手と大きな口が付いている。このことから、真正面から攻撃するのはあまり良い策とは言えない」
翆は一呼吸置く。
「だから奴らを倒すには後ろからの攻撃、なおかつ遠距離からの投撃が一番効果的だ。けど遠距離攻撃の武器が無い現状だとそれは不可能に近いから、実際の所は十秒の間隔の合間に背後を突くという方法しかない」
「どうやって相手の後ろを取るんだ?」
健太が聞いた。
「囮役に前面を引き付けさせ、その隙に留め役が背後から攻める。このメンバーで言えば、囮が健太、止めが私かな」
「ちょっ――……なんで俺が囮なんだよ。大体朝奈は何もしないのか?」
「朝奈には全体の様子を把握してもらい、司令塔の仕事をしてもらう。これまでの様子から考えると一番朝奈がその役目に適してる」
「お前が囮の方が良いだろ? 俺は嫌だぜ!?」
「別に変わってやってもいいけど、そうなったらお前が十秒感染の胞子の合間を縫って大口男に止めを刺すんだぞ。とても出来るようには見えないな。いや、下手したら敵が一匹増えそうだ」
翆は馬鹿にしたような目で健太を見下した。
「ぐっ……!」
健太は翆のその言葉に何も言えなくなった。
「文句がないならこれで行くぞ。さっさと用意しろ」
「っち、分かったよ」
それから数分後、三人は大口人間の間近まで来た。
「……あれか、本当に朝奈の話の通りだな」
翆は一般道の先を歩いている、二匹の大口男を遠目に見て呟いた。
何故彼らが一般道を歩いているのかと言えば、職員用通路をそれ以上先に勧めなくなったからだ。
中央職員用エリアの西口へと繋がる道路に近くにつれ、道は狭まっていき、最終的には行き止まりになっていた。
建物の中を通ればすぐに西口にいけるため、通常わざわざこの職員用通路を通る人間はいない。
恐らく道の開発中に打ち切りになり、西口の壁が作られたのだろう。道が無くなった先は高速道路などでよく目にするような土の壁が急斜面を作っていた。その側面、つまり一般道から見てもそれは同様の常態だ。猛獣ゾーンは他のエリアよりも低い位置にあるため当然の状態と言える。
「じゃあ、行くぜ……!」
健太は包丁を取り出すと、覚悟を決めたようにそう言った。大分この地獄にも慣れてきたのか、土壇場になってやっぱり嫌だと言うような事は無い。
「ジュワッツ!」
大口男たちは健太に気がつくと、すぐに腹から突き出た触手を伸ばしてきた。大した長さは無いものの、絡みつくようなものではなく先が槍の様に尖っているため、直撃すれば無事では済まないだろう。
「うおっ!?」
健太はバックステップでそれをかわすと、大口男の背を朝奈らに向かせるため、相手を中心にして円を描くように走り出した。
一匹の大口男はまんまと健太の方を向いたものの、何故分かったのか、もう片方は車の陰に隠れている朝奈と翆の方へ向かってきた。
「――っち、役に立たない奴だ」
翆は健太の方を睨んで舌打ちすると、腰から折りたたんだ状態の黒柄刀を取り出し、その刃を伸ばした。
「ちょ、俺はどうすればいいんだ!?」
自分を追ってきた大口男の周囲を逃げ回りながら健太が叫ぶ。
「知るか」
翆は興味なさそうに感情の篭らない機械のような声でそう言うと、自分たちに迫り来る大口男を見上げる。それと同時に朝奈は後ろに下がった。
「ジュァアアア!」
大口男の触手が翆の鼻の頭に当たる。だが翆はその瞬間、手に持った黒柄刀を一薙ぎしてその触手を弾いた。
「こうなったら私がこいつを引き付ける。お前は健太の方へ行け!」
「でも、翆さんは? いくらなんでも正面で戦い続けるのは無理でしょ!?」
「これでも截、キツネのいるチームの後衛を張っているんだ。こんな相手何でもない」
力強く言う翆。
「……気をつけてね……!」
翆の言葉に僅かだけ強がっているような響きを感じたものの、朝奈は大口男の背面へと向かいだした。
大口男は横を通り過ぎようとした朝奈へ触手を伸ばそうとしたが、すぐに翆の黒柄刀に叩き落とされる。その隙に朝奈は大口男の後ろへと回った。
最初に翆を倒した方が良いと、僅かにしか機能していない脳みそで判断したのか、大口男は朝奈が通り過ぎると同時に翆へ猛烈な触手の攻撃を繰り出してきた。
「ちっ!」
翆はそれを弾いたりかわしたりしながら必死にしのいでいるが、触手の奇妙な動きと三本という数にすぐに手に余るようになっていった。生身の人間がここまで真正面から触手を防げるのはかなり凄い技術だろう。朝奈や健太なら最初の一撃すら恐らく防ぐ術は無い。
さすが黒服の人間と言いたい所だが、翆は触手に夢中にあるあまり、あることを見逃していた。そう、大口人間の腕だ。
大口男は翆が触手に気を取られている間に徐々に、徐々にその距離を詰めていき、とうとう翆の目の前まで来ていた。
翆がそれに気づいた頃には既に遅く、大口男の二本の腕は翆の両肩をしっかりと握り締めていた。
「あっ――!」
驚く翆。
身動きを封じられれば、人間など大口男にとって只の食料以外の何者でもない。簡単にその命を奪われてしまう。
しかし、大口男の触手が翆の体を貫くことはなかった。
捕まる直前に翆が黒柄刀をその触手に絡めていたからだ。
「舐めんなよ!」
翆は大口人間の黄色い眼球を、もがきながら強く睨み付けた。
すると今度は大口男の全身に無数の小さな穴が開き始める。タンポポ胞子を出す気なのだ。
身動きの取れない翆にとってこれ以上ない危機と言えるだろう。
「や、やばい!」
翆は咄嗟に黒柄刀を離すと、それを足の裏で思いっきり押し、その勢いで大口男の束縛から離れた。
黒柄刀は触手を巻きつけたまま大口男の口を貫いたが、急所をそれていたらしく、大口男は元気に行動を継続する。
離れた途端に、周囲には無数の、タンポポの種に似た胞子がばら撒かれた。遠くから見るまでも無く、その付近だけ白い霧が掛かったように霞む。
翆は口を押さえ、その胞子の感染範囲の外へと飛び出した。
タンポポ胞子は朝奈の話だと、例え口を押さえても耳や鼻穴の隙間などから侵入してくることが分かっている。
僅かに「感染したか?」と恐怖感が浮かんだが、どうやらそれはギリギリで免れたらしい。翆は黒柄刀を蹴らなかった時のこと思うとゾッとした。
「このタンポポ野郎……!」
自分が殺されかけたことで翆の頭には血が上っていた。武器が大口男に刺さったままだというのに、全く恐れることなく胞子が消えるのを待つ。
「ジュルルルル」
胞子が消え、大口男が唸り声をあげたその時には、既に翆は大口男の方へと突撃を始めていた。
「次に胞子を出せるまでのこの十秒間で殺してやる!」
怒りの表情で拾ったばかりの雑誌にライターで火をつけ、大口男の巨大な口内へと投げ入れる。
大口男は突っ込んできた翆に触手をお見舞いする気だったようだが、意表をつかれ見事にそれを咥えてしまった。
痛みと暑さに意識を奪われ一瞬翆のことを忘れる。触手も力なくしなりと垂れた。
翆はその間に大口男の懐まで入ると、ベルトに装備していたシークレットナイフを引き抜き、素早く大口男の眉間に刺した。
大口男の全身からその瞬間に力が抜ける。そう死んだのだ。
「ふう」
翆は黒柄刀を引き抜くと刃を折りたたみ、先ほどの状態で固まっている大口男の頭にまわし蹴りを食らわし吹き飛ばした。既に生命活動をしていなかった相手なのだが、よほっど先ほど危機になったことが悔しかったのか、翆は蹴り終わると満足そうに艶やかな笑みを浮かべた。
一方朝奈と健太は二人で元気に大口男の周囲の道路を走り回っていた。別に鬼ごっこを楽しんでいるわけではない。幾ら動いても大口男の背後に回りこめないため、必然的に走り回るしかなかったのだ。
「はぁ……はぁっ、はぁ……このっアホ、いい加減止まれよ!」
健太が息切れしながら背後の大口男に罵詈雑言を吐く。
朝奈も同じような気持ちを抱きつつ策を練った。
相手を倒すには後ろに回りこむしか方法がないのだ。このまま走り回っていても意味がない。
朝奈はこれまでの悪魔との戦闘経験から、周りの物を利用することが自分のとって一番の武器になることを悟っていた。
「何か……何か無いの……!?」
走りながら周囲を探索する。
だが、ある物といえば道端にあるスクラップの車や、人の死体とその荷物ぐらいなものだ。とても利用できるとは思えない。
しいて言えば、あとは歩行者ゾーンを囲っている半円柱状の柵くらいだろうか。
「ここにあるのものだと、柵を利用するしかないか」
苦肉の策を思いついた朝奈は、健太と大口人間を柵の方へと走りながら誘導していく。
「おい!?」
朝奈の考えが分からない健太は、何考えてんだというように朝奈の方を見た。
「――上に上がって!」
朝奈は間近で聞こえた健太の声に煩そうに片耳を押さえると、柵を走ってきた勢いで上りだす。
赤鬼の時のように反対側に降りるつもりだと思った健太は、納得したように自分も登った。
しかし頂上に差し掛かった所で朝奈はまだ上っている健太に構わず職員用通路の方、ではなく元の一般道の方へと飛び降りた。丁度健太と大口人間を空中で跨いだ感じだ。
「はあっ!?」
健太は朝奈の意図がさらに分からなくなり、柵の上で固まっている。その健太に大口人間は好機とばかりに触手を伸ばしてきた。
「うわわっ!」
網目に引っ掛けている足の付近に突然触手が迫って来たため、健太は仕方がなく頂上まで慌てて上った。
「俺を囮にして逃げやがったのか!?」
健太の頭にそういった考えが浮かぶ。
尚も迫ってくる大口男の触手。
健太は柵の頂上から急いで職員用通路の方へと降りようとした。
走り回っていた途中に何度かタンポポ胞子の飛散があったが、最後の飛散からもう十秒以上経っている。大口男は出そうと思えばいつでもタンポポ胞子を発射できた。
飛び降りようとする健太を逃がさないために、全身の穴を広げ胞子発射の準備をする。そして、一気にその穴々に力を込めた。
「畜生!」
健太は大口男のその動きを見て感染すると思い目を伏せた。
しかし、何故かタンポポ胞子は発射されない。
健太が目を開けると大口男はがっくりと崩れ落ちていた。
「大丈夫?」
大口男の後頭部からナイフを引き抜いた朝奈が心配そうに聞く。
「はぁ、俺を囮にして逃げたのかと思ったぞ」
「囮にはしたよ。だってそうしないとこれの背後に回れないじゃん」
「それはそうだろうけどさ、事前に教えろよ。俺マジで死ぬかと思ったんだからな」
「はは、健太さんて臆病だね〜」
「笑うな!」
楽しそうに笑う朝奈を健太が怒鳴りつけた。
「ガォオォオオゥウウ!」
「!?」
突然聞こえた恐ろしい鳴き声に、健太と朝奈は驚いて柵の上から落ちた。一般道に背中を強く打ち付ける。
「な、何だ今の声!? 赤鬼か?」
背中を摩りながら、健太は道の先へ視線を移動させた。
停車している車や道がカーブしている所為で全く何が起きているのか分からないが、それ程離れた場所ではないようだ。
二人が心配そうに遠くを見ていると、翆が後ろから歩いてきた。
「今の声は何だ?」
「分からない。ここからは様子が見えないから」
朝奈が問いに答える。
「……行ってみよう。何が居ようともどっち道この先へは行かないといけないんだ」
翆は緊張した顔つきでそう言った。
三人はその光景を見た瞬間、ここに来たことを後悔した。
無数の猛獣悪魔の死体の山頂に、夕日をバックにして一匹の生物が立っているのを目にしたからだ。
そう、それはあの混合ライオンだった。
数多くの猛獣悪魔との戦闘の後にも関わらず、殆ど無傷の状態で美味しそうに何かを食べている。
「……おい、何だあの大口ライオンは……?」
「虎を食べてる……!」
健太と朝奈は混合ライオンの発する気配に気おされ呆然とした。
唯一冷静さを失わなかった翆は、冷や汗を流しながら二人に呼びかける。
「……一端戻るぞ。あれは赤鬼ほどじゃないけどかなりまずい相手だ。何の準備もしていない状態で戦っても勝てない」
「そ、そうだね。戻ろう……!」
朝奈が頷いたその時だった。
混合ライオンの頭がグルンとこちらを向いた。
朝奈、翆、健太の視線と混合ライオンの視線がしばし交差する。
「ガォオオオォオオオ!」
三人は一目散に逃げ出した。
混合ライオンはどんどん距離を詰めてくる。
「くそっ、截のバイクをフリーゾーンに置いて来るんじゃなかった!」
翆が今更なことを言った。
「だから猛獣ゾーンには来たくないって言ったんだ!」
「健太さん耳元で煩い!」
叫ぶ健太に朝奈が怒鳴り返す。
「はぁ、はぁ――……勘弁してくれって、嘘!?」
健太が走りながら追っ手を振り返ると、目の前に鬣をなびかせた、顎から胸に掛けて大きな口を開いた混合ライオンの顔があった。
まさに目と鼻の先といった距離だ。
「避けろっ!」
刹那、翆が大声で叫ぶ。
朝奈は道路の歩行者ゾーン側に、翆と健太は草原側にそれぞれ身を転がした。
混合ライオンは僅かに進んだ所で体を反転させると、一番近かった朝奈のほうへ視線を向ける。
「な!?」
当然、朝奈は恐怖した。
そのまま混合ライオンは朝奈に向かって跳躍し、その鋭い爪を振り下ろす。
朝奈の後ろの柵は今の混合ライオンの一撃で大きく繰り裂かれ、垂れ幕のように隙間を作った。
「ぎゃあっ!!?」
間一髪でそれをかわしたものの、朝奈は混合ライオンの体に押され歩行者ゾーンの中へと倒れるように入ってしまう。
「まずい!」
それを見た翆は舌打ちし、朝奈と混合ライオンの方へ駆け出した。
赤鬼や混合ライオンならいざ知らず、朝奈があの柵を自力で破れるわけが無い。それはつまり朝奈が歩行者ゾーンという名の、逃げ場のない檻の中に閉じ込められてしまったことを意味していた。
朝奈の後を追うように自然と混合ライオンもその中へ入ってくる。
「ちょっと……何でこんな……!?」
朝奈は逃げ場のない現状にパニックを起こしながら、混合ライオンと反対の方向へ走り出した。
「ガゥウウウォオオオ!」
混合ライオンは当然その後を追ってくる。
それは絶望的な出来レースが始まった瞬間だった。
半円柱状の歩行者ゾーンという名の檻の中を、必死に逃げ惑う朝奈。
汗は滝のように流れ、服は崩れ、足腰が悲鳴をあげる。
それでも立ち止まることは出来ない。
止まることは死に直結しているのだから。
「朝奈、フリーゾーンまで何とか逃げろ、あそこまで行けば柵の中から出れる!」
翆は朝奈と並走するように一般道を走りながら叫んだ。
「ふ、フリーゾーン!? そこまで持つわけないじゃん!」
「その柵の中なら狭すぎてライオンも速く走れない筈だ、頑張れ!」
「頑張れってっ――……」
朝奈は抗議しようとしたが、翆の姿はいつの間にか消えていた。
「もう!」
泣きたくなったが、仕方がなく朝奈は走り続けた。
「ガゥォオオオオオ!」
混合ライオンは触手や鬣を柵のあちらこちらに引っ掛けながら、目の前を逃げる朝奈を追いかける。
その距離は僅か五メートルほどしかなかったが、翆の予測通り狭さが邪魔し、中々縮まることはなかった。
だがそれはあくまで今の状態だ。
朝奈は限界が近づいていた。
体力、精神あらゆる面での疲労が溜まっている。
今はまだ混合ライオンとの距離を維持できているものの、あと数分後にはどうなっているか分からない。
――何か手を打たないと!
朝奈がそう考えるのは当然の結果だった。
この状態では混合ライオンを倒すことは無理だ。だとしたら何とかして動きを止めるか、遅らせるしかない。
しかし一般道ならまだしも、何もないこの歩行ゾーンではそれすらも難しい仕事だろう。敢えてあるものを言えば人間の死体くらいなものだ。
「――っどうすればいいの!?」
打つ手がない状況に朝奈は愕然とした。
「あっ!?」
考え事をしていた所為で、死体の一つに足を取られ転んでしまう。
それを見た混合ライオンは一気に朝奈に飛び掛った。
「うぁぁあっ!」
朝奈は振り下ろされた混合ライオンの爪を、死体を前に押し出すことで防いだ。致命傷は避けれたがそれでも掠った肩に赤い三本の線が浮かび上がり、血を滴らせる。
混合ライオンはすかさず、今度は逆の手を朝奈に振り下ろした。
「朝奈!」
その一撃が命中する直前、一本の包丁が混合ライオンの尻を貫き動きを止めた。
「健太さん!?」
声の主に気づき驚く朝奈。
「今だ、逃げろ!」
「うん!」
朝奈は立ち上がると、再び混合ライオンから離れるように走り出した。
「ガゥウウゥウウウ!」
混合ライオンは後ろを振り返ろうとしたが狭い柵の中の所為でそれは出来なかった。
その姿を見てほっと胸を撫で下ろす健太。どうやら翆の考えが合っていたことを知って安心したらしい。
それが命取りだった。
混合ライオンは尻尾の周囲から槍のような触手を突き出すと、その全てを健太目掛けて射出したのだ。
三本の触手は全て健太の体に命中した。
一本目は右足に、二本目は横腹に、三本目は肩に、それぞれ突き刺さった。
「うぐうぁああああ!」
あまりの痛みに大声で叫ぶ健太。反射的に涙すら浮かんでいる。
その声は数十メートル先の朝奈にも聞こえていた。
ただ事ではないその様子に立ち止まる朝奈。
背後に全く混合ライオンの気配が無いことと、今の健太の声を聞いて嫌な予感が頭に走る。
場所は丁度フリーゾーンの入口の目の前まできていたのだが、あんな声を聞いてしまっては先へ進むことなど出来ない。朝奈は引き返そうとした。
だがその瞬間にカーブから混合ライオンの姿が現れた。
何があったのかは知らないが尻尾の周囲が赤く汚れている。
その色は嫌に不吉なものに見えた。
「乗れ!」
フリーゾーンに朝奈が到着すると同時に、いつの間に追い越していたのか、翆が目の前にバイクをつけ叫んだ。
朝奈が翆の細い腰を掴むと、追って来ていた混合ライオンが丁度歩行ゾーンの柵から飛び出す。
「くそっ!」
翆は急いでアクセルを入れた。
タイヤが急回転し地面を蹴る。
唸るエンジンが生き物のように聞こえる。
バイクが発進するとすぐに混合ライオンも後に続く。
翆と朝奈を乗せたバイクは加速し、猛獣ゾーンへと一般道を戻り始めた。
「健太さんは……?」
「後だ」
気になって仕様がなかったことを聞いた朝奈を、翆はあっさりと切り捨てた。
「くそ、やっぱりついて来るな。朝奈、しっかり掴まれよ、全速を出すから!」
「え、全速って!? 確かこのバイクってレース用――」
翆はアクセルを全開にした。
「きゃぁあああああー!」
いきなり強いGが掛かり、朝奈は振り落とされそうになったが、何とか腕に力を込め翆にしがみ付いた。
「ガゥウウォオオオ!」
既に時速七十キロは出てると思われるスピードにも関わらず、混合ライオンもしっかりと後に続いている。
「くそ、車が邪魔だ!」
翆は一般道のあちらこちらに停車している車に邪魔され思うように速度を上げられない。本来なら時速二百キロ以上の出力を持つこのバイクの性能も、今は発揮することが出来なかった。
バイクは猛獣ゾーンを通り過ぎ、草食獣ゾーンへと差し掛かっている。ゾーンの区切りの門は全て開いているため、問題なくバイクはエリア移動した。
「翆さん、真後ろに来てる!」
「分かってるよ!」
翆は混合ライオンが真後ろに来た瞬間、ハンドルを切り、目の前の車を避けた。車と混合ライオンを衝突させようとしたのだ。
「幾らあの化け物でも、この速度で車に当たれば無事では済まないはず……」
しかしその考えは無残にも、すぐに間違いだと気づかされた。
混合ライオンは確かに車と衝突したが、一向に止まることなく車を吹き飛ばし続走した。ただ、やはりダメージはあるのかその額からは血が流れている。
その姿を朝奈はサイドミラーから目撃した。
「翆さん、もしかしたら今と同じこと何度か続ければ、ライオンを止められるかもしれない」
「簡単に言ってくれるな。こっちも命がけなんだぞ?」
翆は溜息をついたが、朝奈の意見には賛成なのか三十センチほど先の車に向かってバイクを傾けた。
その軌跡を追うように混合ライオンも同じ道筋を走り出す。
バイクが曲がる、混合ライオンが衝突する、車が吹き飛ぶ、混合ライオンの頭から流血する。
その繰り返しだ。
何度か繰り返すと、さすがにダメージが溜まったのか、混合ライオンの動きも鈍くなってきた。
「おい、大分あいつも遅くなってきやな。逃げ切れそうだぞ」
翆が嬉しそうに言う。
「でも、何か様子が変じゃない?」
朝奈は心配そうに後ろを振り返った。
「ガルルルルゥウウウ……」
混合ライオンは低い声で唸ると、突然姿を消した。走るのを止めたのだ。
「諦めたのか……?」
翆が怪訝そうに速度を落としてミラーから背後を確認する。
「あれほどしつこく追ってきてたのに、簡単に諦めるとは思えないけど……」
「まあ、何はともあれチャンスには違いない。今の内に健太を回収して中央職員エリアへ入ろう」
「うん」
二人はそのまま何事も無く猛獣ゾーンへ戻ってきた。
左右が壁に囲まれた中央職員エリアへ続く道の入り口が見えてくる。
「ガアアァアアアア!」
その瞬間、横からいきなり混合ライオンが飛び出してきた。中央エリアを飛び越えてショートカットしたらしい。
「なっ!?」
予想だにしなかった事態に驚く二人。
混合ライオンが道の先を塞ぐように立っているため、翆は咄嗟にバイクを倒しブレーキを踏んだ。
高い音が鳴り響き、タイヤと地面が火花を打つ。
バイクは二人を振り落とし、しばらく滑ると歩行ゾーンの柵にめり込んだ。
そのまま二人は転がるように地面に体を打ちつけ、混合ライオンの目の前で止まった。
「うぁあ――……!」
全身の痛みと眼前に立っている混合ライオンの恐怖に、頭の中が真っ白になる朝奈。
足元に大量の混合ライオンの涎が滴っている。
自分は食われるんだ。
朝奈は直感でそう感じた。
「く……ぁっ――……!」
荒い吐息しか漏れない。
翆は混合ライオンの口が朝奈に近づいているのを理解していたが、全身の痛みとバイクから振り下ろされた時の衝撃が抜け気っていないため、体中がしびれ動けなかった。
「はぁ、はぁ……」
匍匐前進のような格好で、朝奈は無意識の中に混合ライオンから遠ざかろうとした。
しかし、朝奈の前方に大きな足が下ろされ道の先が塞がれる。もちろん混合ライオンのものだ。
朝奈が上を向くと、腹の上まで裂けた大きな口、黄色い歯、腹から突き出たうねうねと唸る無数の触手が目に入る。
そのあまりのグロテスクさに、生理的な不快感、吐き気、いや、嫌悪感を朝奈は抱いた。
そして、その嫌悪感の塊は朝奈に覆いかぶさるように口を近づけてくる。
「いや、翆さん!」
朝奈は三メートルほど横に倒れている翆の方を見たが、自分同様に動けそうに無い。
徐々に視界が暗くなってくる。
――誰か助けて、翆さん、截さん!
朝奈の頭は混合ライオンの口に包まれた。
バキューンッ!
銃声が鳴り響いた。
口真似でもスピーカーからでもない。本物の銃声だ。
「ガォオオァアア!?」
どうやらその弾丸は混合ライオンの左の瞳を貫いたらしい。朝奈は頭がすっぽりと多い尽くされたと思った瞬間、突然混合ライオンが苦しみながら顔を離したことに驚いた。
誰が銃を使ったのかは知らないが、このチャンスを逃す手はない。しびれる体を何とか起こし、混合ライオンの下から抜け出す。その際に混合ライオンの顔が良く見えた。
片目には小さな注射器、いや麻酔銃の銃弾が刺さっている。猛獣が逃げ出した時などに備えてあったものだろうか。
バキューィーン!!
再び鳴り響く銃声。
「起きろ!」
朝奈は同じように起き上がっていた翆に肩を無理やり組まれ、二人三脚のように、一般道をフリーゾーン方向に走り出した。
真後ろでは眉間にさらにもう一本の麻酔弾が刺さり苦しんでいる混合ライオンが見える。その体は小さな無数の穴が浮き出ている。
「急げ、タンポポ胞子が来るぞ!」
その穴を見て翆は怯えたように叫んだ。
ぶわっと広がる霞のような胞子。その範囲は一般的な大口男の比ではない。半径十メートル近い、かなりの広範囲だ。
「……――っ!」
朝奈は体中の痛みを無視し、全速力で前にダイブした。
そしてその直後、数十センチメートル後ろが白く染まる。もちろんタンポポ胞子だ。
「大丈夫!? 早くこっちに!」
翆と朝奈が立ち上がるよりも早く、目の前に突然手が刺し伸ばされた。二人が顔を上げると知らない女性と男性が立っている。
女性の方はモデルのような高い背にスリムな体系、きりりとした男のような目つき。そして女性としてはかなり短めのショートヘアーといった井出立ちで、男性の方は飼育員の服装に坊主頭でつぶらな瞳といった井出立ちだ。
朝奈と翆は二人の手を借りて立ち上がると、一緒に走り出した。
「もう一発!」
男性が麻酔銃を構え混合ライオンに三発目の弾丸を命中させる。
「三上、もういいから行くよ!」
女性が尚も迎撃をしようとする男性、三上を呆れながら止めた。
「ガゥルルルル……」
混合ライオンは度重なる車との衝突のダメージと、三発の麻酔銃の所為で大分その速度を落としたものの、尚も執拗に四人を追いかけてくる。
「早く中央職員用エリアへ!」
「分かってる!」
朝奈の呟きに女性はイラだった様子で答えた。
左右が壁で囲まれた中央エリアへの道に入り、一直線に走り続ける四人。
だが、幾ら混合ライオンが弱っているとはいえ、流石に逃げ切ることは出来なかった。混合ライオンは 中央エリア直行道路の中腹ほどで四人に追いついたのだ。
「くそ、おとなしく寝てろよ!」
三上が麻酔銃を掲げながら叫ぶ。
その弾が発射されるよりも早く混合ライオンは三上を片腕で吹き飛ばした。
「おぐふぁあ!?」
道路の壁に叩きつけられる三上。死んではいないが気を失ったようだ。
「逃げるのは無理だ。ここで殺るしかない……!」
それを見た翆は女性の肩を振りほどくと、腰から黒柄刀抜き、刃を伸ばした。まだ痺れは完全に抜けきってはいないものの、ある程度動けるくらいには回復したらしい。
「殺るって――あんな化け物相手に勝てるわけ無いでしょ、何考えてんのよ!?」
「煩い、下がってろ」
驚く女性を翆は無理やぐいっと後ろに押しやった。
「朝奈、何か良い案は無い?」
そのまま横で何かを考えるように立っている朝奈に顔の向きを変える。
朝奈は翆の覚悟を理解し、周囲を見渡した。
職員用道路の所為か、先ほどの歩行者ゾーンよりも何も無い。本当にただ左右に壁があるだけの場所だ。
何も答える事が出来ない朝奈。
「……そうか。私が時間を稼いでいる間に何か思いつけよ。出来ないと父親に合えずにお別れだ」
そう言うと、唸りながらこちらに近づいてくる混合ライオンに翆は向き直った。
「截の馬鹿……私、先に死にそうだぞ」
混合ライオンの醜い頭を睨みつけながら、翆は誰にも聞こえないような声でボソッと呟いた。
「ガォオオォオオォオオオ!」
決着を着ける前のライバル同士があげる雄叫び、そんな大声を出しながら、混合ライオンは地面を強く蹴った。
狙いはもちろん眼前の翆だ。
振り下ろされる足を何とかかわし、翆は混合ライオンの真下へ飛び込む。
死角からの攻撃を狙ったのだ。
しかし翆が黒柄刀を突き上げようとすると、混合ライオンのわき腹から飛び出した無数の触手が妨害を初め、どうしても防戦一方になってしまう。
「くそっ!」
仕方が無く下からの攻撃を諦めると、翆は再び相手の正面へと飛び出した。
翆が身を削りながら辛うじて攻撃を避けている様子を見ながら、朝奈は流行る気持ちを抑えて必死に考えを巡らした。
幾ら翆が凄腕といっても人間の数倍の筋力、体力をもつ化け物の攻撃を真正面から避け続けることなど出来るわけが無い。もっても数十秒だ。実際翆の服装や体は刻一刻とボロボロになっていっている。
「何か、何か無いの!?」
どれだけ頭を酷使しようとも何も浮かばない。朝奈は焦りに焦った。
後ろに逃げてもすぐに追いつかれることは目に見えているし、正面からこのまま戦っても勝てる気がしない。ということは何かを利用するしかないのだが、周囲には壁以外の何物も存在しない。
この残り僅かな時間で現状の打開策を練るのは、ゴリラに空を飛べと言っているようなものだ。
「何か……」
朝奈は何度もこのセリフを繰り返しながら周囲を見続けた。
一緒に立っていた女性から見てその様子は半狂乱にも見える。
「落ち着いて、焦っても何にもならないでしょ」
落ち着ける訳が無いことは分かっていたが、少しでも朝奈をリラックスさせる為に女性はそう言った。
朝奈が女性の顔を見ると自分も危険な状態にも関わらず心配そうにこちらを見ていることが分かる。
「……うん」
その女性の言葉に僅かに冷静さを取り戻した朝奈は、一度深呼吸をしてから再び周囲を良く見てみた。
目の前には翆と混合ライオン。遥か後ろには中央職員エリアの入り口。左右にはコンクリートの壁。
「ん?」
先ほどは分からなかったが、朝奈は右の壁の前に三つの白い袋のようなものがリアカーの上に置いてあることに気がついた。
急いで駆け寄って見てみると、養分補給用肥料と書かれている。
「これだ!」
朝奈はそれを見てピンと来た。
「こっちに来てください! え〜と……」
「本美香よ。どうしたの?」
女性、本は怪訝そうな顔で近寄ってくる。
「これで助かるかもしれません。手伝ってください!」
何故こんなもので助かることになるのか理解不能だったが、本は朝奈の切羽詰った様子を見て文句を言わず頷いた。
「分かったわ」
黒服は破け、白い肌は裂け、傷だらけになりながらも翆は必死に混合ライオンの攻撃を避けていた。
いつの間にかシニヲンに結んでいた黒髪は解け、長い綺麗なその全容を風に靡かせている。
「はぁ、はぁ……さすがにもう限界だ……」
翆は自分たちの死を悟った。
「翆さん、下がって!」
だが、突然朝奈の声が聞こえ、翆は咄嗟に後ろに飛びのき、混合ライオンの爪をかわした。
それと同時に朝奈と本が、肥料の詰まった袋を混合ライオンに投げる。
「ガァアア!?」
しかしそれは難なく爪によって切り裂かれ、無残にも中身の粉を周囲に撒き散らした。
「ああ、失敗した!」
本が残念そうに叫ぶ。
「ううん、これで良いの!」
だが朝奈は笑顔でそう言った。その手にはライターとポケットティッシュが握られている。
翆がある程度離れたのを確認すると、朝奈はポケットティッシュに火をつけそれを思いっきり混合ライオンの方へと投げた。
「伏せて!」
同時に大声で翆と本に呼びかける。
瞬間、何の前触れも無く大爆発が起き、あたり一面は火に包まれた。
「ガォオオオァアアアアー!?」
巨大な火球のような形の炎に包まれ、混合ライオンはたまらず悲痛な声で泣叫ぶ。
「な、何なのよ!?」
本は訳が分からず呆然とした。
「粉塵爆発だよ。あの肥料可燃性って書いてあったから」
「粉塵爆発?」
朝奈の言葉を聞き返す本。
「空気中に浮遊している、小麦粉みたいな可燃性の粉に引火して爆発を引き起こす現象のこと」
「よく思いついたわね」
感心するように本は息を吐いた。
辺りの壁や地面一帯を破壊しながら転がり回り、振動を起こしている混合ライオン。
しばらくそれが続くと突然動きを止め静かになった。
「殺せたのか?」
二人には一切構わず、翆は息も絶え絶えの様子で立ち上る炎を見つめ呟いた。長い黒髪が炎の火を浴びて美しい艶を放っている。
混合ライオンは全く動かずに道路に寝転がっていた。
その前足は吹き飛び、前進の皮膚も黒くこげ、どうやら完全に死んだらしい。爆発の直前に僅かにタンポポ胞子を出していたのが粉塵爆発の効果を上げたようだ。
「これでようやく父親に合えそうだな」
「……そうだね」
翆の言葉に朝奈は神妙な表情で頷いた。