4. 鉄巨人
少女に手を引かれたまま走る百目木は、とりあえず自分の救い主の顔を確認する。
そして百目木はその少女の姿を見た途端に、思わず息を呑むことになった。
それは少女が並外れて美しい容姿をしていた事もあるが、何より驚いたのは百目木はその少女の事を知っていたのだ。
彼方、それは百目木の学校の先輩であり、先日廊下で百目木に話しかけてきた少女の名である。
謎の化物に襲われたと思わったら学校の美人先輩に救われる、この怒涛の展開に対して混乱した百目木は若干混乱した様子で彼方に話しかけた。
「お、彼方先輩ですよね? 何であんたが此処に…」
「それはこっちの台詞よ。 変な気配がすると思ったら、なんで式紙に襲われているのよ、あなた?」
「…式紙?」
「陰陽系の術氏が使役する使い魔の一種。 漫画やゲームでも聞く言葉でしょう?」
百目木も式神と言う言葉くらいは聞き覚えがあった。
しかし百目木の知る式神と言う代物は、手のひらサイズの折り紙を自由自在に動かすと言う物である。
確かにあの化物は紙で出来ているようにも見えたが、あれを式神と説明されても百目木には納得する事が出来なかった。
「式神って…、そんな物有るわけ…」
「それならさっき貴方を襲ったあれは何なの? 現実を直視しなさい、馬鹿そうな貴方でもそれくらい出来るでしょう!!」
「なっ、馬鹿って…」
そもそも百目木の認識では式神などと言う代物は、現実には存在しない空想の産物であった。
夢見がちな小学生の頃ならば兎も角、現実と言う物を理解し始める高校生が式神などと言う物の存在を本気で信じるはずも無い。
百目木も一般的な高校生らしく、あの化物を式神という彼方の言葉を疑っていた。
しかし彼方が言う通り現実に百目木は、あの紙の化物たちに命を狙われたのだ。
あれが本当に式神かどうかについては議論の余地が有るだろうか、少なくともあの化物の存在を疑う訳にはいかないだろう。
幸運にもあの紙の化物は足が余り早いらしく、公園を抜け出した百目木たちに追い付く気配が無い。
百目木は少しでもあの化物との距離を取るため、葉月を抱えたまま走り続けるのだった。
時間にして十分弱、あの化物たちから逃げるために走り続けていた百目木が漸く足を止めた。
闇雲に走り回って辿り着いた左右を民家に挟まれた狭い道路には、あの化物所か自転車さえ現れる様子は無い。
「な、なぁ…、此処まで来れば大丈夫だよな?」
「ハァハァ、…ちょっと黙ってて。 息が…」
とりあえずの安全を確保した百目木は、あの化物を式神と呼んでいた彼方にも確認の声を掛ける。
しかし彼方は百目木の問い掛けに答える余裕がなく、息を整えるのに精一杯の様子であった。
元サッカー部で少し前ではこの程度の運動は朝飯前である百目木と違い、万年帰宅部である彼方には少々堪えたらしい。
彼方は道路の隅に寄り、民家の壁に片手を付きながら動悸する心臓を抑えようとしていた。
「くそっ、何で俺がこんな目に…。 一体あの連中は何で俺を狙ったんだ」
「…多分、連中の狙いはあなたでは無いわ」
「…えっ?」
「恐らく式神たちはあなたの手に抱えられている、そのワンちゃんを狙っていたのよ」
化物が逃れられた事で落ち着きを取り戻した百目木は、自分が化物に襲われた理由について考え始めていた。
少し前まで一サッカー少年として部活に明け暮れていた百目木が、あのような化物に襲われる理由など有る筈も無い。
真逆、連中は通り魔的に人を襲っており、百目木は不幸な巡り合わせによってあれに襲われたのだろうか。
しかし百目木の推測は、息を整えて平常な状態を取り戻した彼方の言葉によって否定される。
そもそも百目木は前提を間違えており、あの紙人形たちの狙いは百目木では無くその腕に抱かれている子犬だと彼方は言うのだ。
「そういえばあの化物たちは、葉月を狙っていたな…。 で、でも何で葉月が連中に…」
「…詳しい話は後にしましょう。 今はあの式神をどうにかするのは先決よ」
葉月が狙いだと言う彼方の言葉は、公園での紙人形たちの動きを見ていた百目木には一応納得出来るものがあった。
何故なら百目木が公園で目覚めた時、あの紙人形たちはベンチで鼾をかいていた自分では無く葉月を襲っていたのだ。
仮にあの紙人形たちの狙いが百目木であれば、あのままベンチの上で目覚めることのない永遠の眠りに付かされていた事だろう。
しかし紙人形たちの狙いが本当に葉月で有るならば、一体どのような目的があってこの百目木が抱えられるほど小さい犬を狙うのだろうか。
百目木の視線は自然と腕に抱えた葉月へと向けられ、何処か申し訳なさそうな顔をしている子犬と目線を合わせた。
「どうにかって…、あんな化物をどうにか出来るのかよ?」
「…電話、まさか警察でも呼ぶのかよ?」
「少し静かにしてて…。 …あ、始さん、私。 ちょっと厄介な事になったわよ」
あの紙人形たちをどうにかすると豪語した彼方が、徐に制服のポケットから取り出した物は黒色のスマートフォンだった。
今時の高校生らしく慣れた手付きでスマートフォンを操作し、彼方はそのまま何処かへ電話を掛け始める。
「っ、先輩!? あれは…」
「っ!? …こんなに早く来るなんて? 多分その子犬の気配を追ってきたんだわ…
…ええ、そうよ。 …解った、すぐに向かうわ」
「くそっ、先輩、どうすれば…」
「とにかく、私に着いてきて! そのワンちゃんをしっかり抱えてね!!」
電話で誰かと会話を初めた彼方を焼き餅した思いで眺めていた百目木は、ふと嫌な気配を感じて視線を道路の奥へと向ける。
するとそこには先程嫌というほど見た、紙人形の集団が列をなしてこちらに近付く光景が見えるでは無いか。
百目木は慌てた様子で彼方に紙人形たちの存在を伝えて、一瞬で状況を理解した彼方は美しい顔を険しく歪めた。
逃げ出した先に時間を置かずに現れた紙人形たちに対して、先程以上の恐怖を覚えた百目木は若干震えた声で彼方に声を掛ける。
そんな頼りない後輩に対して電話での話が纏まったらしい彼方は、先輩らしい頼もしい態度を見せるのだった。
紙人形たちから逃げ回っている間に日がすっかり落ちてしまい、百目木立ちは電灯に照らされた道を必死に走っていた。
何処か明確な目的地に向かっているらしい彼方の後ろで、葉月を抱えた百目木は必死に足を動かしていた。
強豪サッカー部の元部員であった百目木にとって、この程度の距離を走ること事態は体力的に何ら問題無い。
しかし彼方が式神と呼ぶあの紙人形に終われる恐怖がどうしても拭えず、精神的には非常に追い詰められていた。
「くぅぅん…」
「大丈夫、きっと大丈夫だから…」
紙人形たちのターゲットにされているらしい葉月は、百目木たちの状況を察したかのような申し訳なさそうな声を漏らす。
恐らくこの子犬を投げ出しさえすれば、百目木はあの紙人形たちに付け狙われる事は無いのだろう。
しかし短い間であるが一緒に過ごしてきた葉月を見捨てる選択など、今の百目木に出来る筈も無い。
自分に言い聞かせるように葉月に対して大丈夫と語りかけながら、百目木は彼方の後を付いて走り続けた。
彼方の後を追うことに意識を集中していた百目木は、目的地に辿り着くまで自分が見慣れた道を駆けている事に気づかなかった。
それは百目木は幼い頃によく使った道であり、つい先日にも通った道でもあったのだ。
事件の痕跡を生々しく語る荒れ果てた境内、現場検証のために所々に貼られた黄色いテープ。
かつて百目木の遊び場であった思い出の神社、その成れの果てに彼方と百目木は辿り着いたのである。
「おい、先輩!? こんな所に来て何が有るんだよ? こんな所に来たって、あの化け物たちはすぐに追いついて…」
「あら、私は別に逃げるために此処までやって来た訳では無いわ。 そもそもその子犬の気配を追ってくる奴らから、逃げ続けることなんて不可能よ。
私はただ、あの式神たちと大立ち回りを演じても問題がない場所に辿り着きたかったのよ」
「なっ…、冗談だろう? あの化け物たちと戦う気かよ…」
紙人形たちはどのような手管かは不明だが、ターゲットである葉月の気配を追うことが出来るらしい。
葉月を放り出す以外には紙人形たちから逃れることは不可能であり、彼方の言う通りに何処に逃げても意味が無いのだろう。
確かに百目木たちが葉月を放り出す以外に助かる唯一の方法は、あの紙人形たちを倒すこと以外有り得ない。
しかしあんな紙の化物たちと戦う手段が想像も付かない百目木は、彼方を信じて付いてきた自分の行動に後悔すら覚えていた。
「大丈夫よ、後はこの人に任せれば全部解決してくれるから。 ねぇ、始さん」
「っ!? あんたはあの時の…」
「…前に神社に居た餓鬼か」
不安そうな様子を隠さない百目木に対して、彼方は境内の奥の方に視線を向けながら誰かに声を掛ける。
彼方から出た人名、それは百目木の記憶が正しければ先程彼女が電話をしていた相手だった筈だ。
そして彼方の声に答えるように、その黒尽くめの人物は境内の奥からゆっくりと百目木たちの方に近付いてきた。
百目木はその見覚えのある姿に動揺を隠せなかった、その人物は先日にこの場所で遭遇したあの強面の男だったのだ。
彼方から始と呼ばれた男の方も百目木の事を覚えていたらしく、サングラスを外しながらこちらを見据えた。
180センチ近い高身長に雰囲気のある黒いスーツ姿、そしてサングラスの下には鋭い眼光を光らせる男性。
確かにこの男であれば百目木の十倍は強いであろうが、それでもあの紙人形たちの相手をするには不十分に思える。
本当に此処に居て大丈夫なのかと、百目木の中で不安がどんどん募っていた。
「…うわっ、来た!?」
「お出ましだな…」
百目木が謎の男と話している間に、葉月の気配を感知した紙人形たちが続々と集まってきた。
薄っぺらい紙の体を揺らしながらこちらに向かってくる、月明かりに照らされた紙人形の姿は酷く不気味な光景であった。
やがて紙人形の軍勢は境内へと侵入を果たし、百目木たちを囲むように半円を描くような配置に付く。
そんな紙人形たちの軍勢を前に、始と呼ばれた男は百目木たちを庇うように一歩前に出る。
どうやら彼方の言う通りこの始という人物は、本気であの紙人形たちと戦うつもりらしい。
「さて一仕事だな…。 ゴレムス!!」
紙人形たちと対峙した始は気の弱い人間なら、それだけで縮み上がりそうな獰猛な笑みを浮かべる。
そして始は力有る言葉と共に、自身の相棒の名を高らかと叫んだのだ。
次の瞬間、始の前方に当たる空間に光が生まれ、月明かりだけが光源となっている境内を明るく照らす。
一瞬の光の後、始と呼ばれた男の正面にあったのは無骨な鋼の巨人だった。
始より一回り大きいその巨体は、恐らく全長は二メートルに近い高さだろう。
巨人の全身は金属で出来てているらしく、黒光りするその体が淡い月明かりに照らされていた。
よく見れば巨人の金属の体にその所々の何かの傷が刻まれており、それはまるで歴戦をの戦士が纏う鎧のようにも見えた。
巨人のその顔まるで西洋のカブトのようであり、目にあたる箇所に開けられたスリットの内から光が漏れている。
強靭な金属で作られた太い四肢に厚い胴体を持つ巨人は、鋼の城砦のように始の前で仁王立ちをしていた。
鋼の強靭の威圧感に気圧されたのか、紙人形たちは僅かにたじろいだ様子を見せる。
「やれ、ゴレムス!!」
「…!!」
巨人は一言も発する事無く、その行動によって主の命に忠実に応じた。
顔のスリットの内から出る光が激しく明暗しながら、巨人は紙人形に向かって直進を始める。
その巨体に似合わぬ俊敏さを見せた巨人は、まずは挨拶代わりと棒立ちになっていた正面の紙人形に拳を振るった。
鉄の塊に薄っぺらい紙切れが対抗出来る筈も無く、その紙人形は巨人の豪腕の前にずたずたに切り裂かれてしまう。
まずは軽く一体を屠った鉄の巨人は、残りの獲物たちを睥睨するかのようにスリットから光を漏らした。