2. 葉月
百目木の通う木下高校は地域全体から見れば、中の上程度ほどの偏差値を持つ公立高校だ。
中学の成績が良くて中の下だった百目木にとって、この学校に入学するために努力は並大抵の物では無かった。
中学の先生や幼馴染の泉 茜の助けを借りてまで百目木が木下高校に拘った理由は、当然のことながらサッカーのためである。
木下高校のサッカー部は公立ながら地元では古豪に位置し、県内でそれなりのレベルの実力高だったのだ。
サッカーの強豪高である地元の木下高校にどうしても入りたかった百目木は、必死に努力をして見事に高校に合格することが出来た。
しかし念願のサッカー部を止めてしまった現在の百目木にとって、この学校は勉強が難しいだけの高校でしか無い。
百目木は日々難解になる授業に四苦八苦しながら、つまらない学園生活を送っていた。
「でさー、あそこのゲーセンに凄い可愛い子が居たんだよ!
お前、サッカー部止めて暇なんだろう、今度一緒に行こうぜ!!」
「いや、悪いけど俺はちょっと用事が…」
「何だよ、付き合い悪いなー! ドロップアウトした者同士、仲良く野郎ぜー!!」
サッカー部を止めたことによって、木下高校の百目木でも生活は一遍していた。
これまでサッカー中心に生活を送っていた百目木は、その交友関係もサッカー部の人間を中心に構築されていたのだ。
しかしサッカー部を止めた後、百目木はサッカー部の人間と没交渉になってしまう。
部活を止めたことに負い目を感じた百目木がサッカー部に関わらなくなり、サッカー部の人間もそれを察して百目木に近寄らなくなっていた。
今では百目木に積極的に接触するサッカー部の人間は、百目木を部に戻そうと奮闘するマネージャーの茜くらいだろう。
その一方で、サッカー部を止めた百目木に積極的に話しかけるようになったクラスメイトも存在した。
次の授業のために理科室へ移動をしている間中、百目木に一方的に話しかけてくるこの軽薄そうな男である。
「あ、もしかして茜ちゃんとデートでも行く気か!? くぅぅぅ、羨ましいなー、おい」
「あいつはマネージャーの仕事があるよ。 ちょっと犬の世話があってな…」
「犬!? お前ん家、犬なんか飼ってたったけ?」
「いや、それは…」
生徒指導の先生に注意されない程度に髪を伸ばし、百目木より頭一つ大きい男の名は井上 明弘である。
実は井上は百目木と同じ元サッカー部で、練習に付いていけずに一ヶ月足らずに部を辞めた過去があった。
同じサッカー部を退部した者同士と言う共通項が気に入ったのか、井上はよく百目木に絡むようになっていた。
もしかしたら井上は、サッカー部関係の人間と没交渉になったこで学校で孤立しそうになった百目木を助けたのかもしれない。
百目木は井上と他愛も無い話をしながら、廊下を歩きながら理科室に向かって行った。
木下高校の廊下には当然のことながら他の生徒も使われており、今も夏服を来た女子生徒が百目木たちの横を通り過ぎようとしていた。
井上との話に夢中になっていた百目木は女子生徒の存在に注意を払う事無く、そのまま先に進もうと足を進める。
しかし百目木は否応なしに、その女子生徒に意識せざる状況に陥ることになった。
どういう訳か女子生徒がわざわざ足を止めて、百目木の方に声を掛けてきたのだ。
「そこの君、ちょっといいかしら?」
「えっ…」
百目木はその場に立ち止まり、そこで初めて先ほどその女子生徒の顔を直視することになった。
その少女は人並み外れて美しかった、それは下手なモデルや芸能人なら圧倒出来るほどの物だろう。
黒い艶やかな髪を真っ直ぐに伸ばし、その肌は儚さを感じさせるほど色白い。
切れ長の瞳はぞくりとさせるほど冷たく、少女の整った顔を一層に際立たせていた。
少女は百目木より背が少し高いらしく、視線を少し下げて百目木の顔を表面から見据えていた。
「あ、あなた様は…」
「あ、あの…、俺に何か用ですか?」
「…あなた、最近変わった事が無かった? 例えば変な生き物を見たとか…」
「…変な生き物っ!? えっ、別に何も…」
「そう…、ならいいわ。 ごめんなさい、呼び止めてしまって…」
百目木を呼び止めた少女は、何故か驚愕の表情で震え始めた井上を無視して百目木に質問を投げかけてきた。
しかし少女の美しい口から発せられた訳の解らない質問に、百目木は思わず呆気に取られてしまう。
少女の言う変な生き物とは一体どういう意味なのだろうか、見当が付かなかった百目木は仕方なく正直に覚えがない事を伝える。
百目木の返答は少女に取って期待外れだったようで、少女は幾分かがっかりしたような響きを込めて百目木に呼び止めた事への非礼を詫びた。
そして少女は踵を返し、そのまま一度も百目木の方に振り向く事無く颯爽とその場を立ち去っていった。
謎の少女との邂逅は何処か現実離れした感触であり、百目木はまるで白昼夢にあったような気分を味わっていた。
しかし百目木の夢現な気分は、友人の手によって無理やり覚まされる事になる。
「おい、百目木!? お前、何時の間に彼方先輩とぉぉぉぉっ!!」
「どうしたんだよ、突然!? 彼方先輩って一体…」
「さっきお前に声を掛けた超絶美人の先輩のことだよ!? お前、知らないのかよぉぉぉっ!!」
女子生徒が百目木たちの視界から姿を消した途端、井上が百目木にヘッドロックを掛けてきたのだ。
井上は腕に力を込めて百目木の頭を圧迫しながら、先ほどの女子生徒のことについて問い詰める。
どうやら井上は先ほどの美しい女子生徒の素性に付いて心当たりがあるようで、その女子生徒に声を掛けられた百目木を羨んでいるらしい。
本気で百目木に嫉妬しているらしい井上は、手加減無く全力でヘッドロックに掛ける力を強めていった。
「知るかよ、俺だってあの先輩とは初めて会ったんだよ!!」
「本当かー、実は皆の憧れの彼方先輩と友達だったと言う落ちは無いだろうなーー」
「馬鹿、止めろ、本気で痛いぞ!? さっきの話を聞いていただろう、あれが知り合い同士の会話かよ!!」
「…まぁ、それもそうか」
井上のヘッドロックが逃れようともがきながら、百目木は必死にあの女子生徒とは初対面だと井上に伝える。
その訴えによって先ほどの百目木たちの会話を思い返した井上は、そこでようやく二人が初対面である事実に納得したらしい。
誤解が解けたことで井上がようやくヘッドロックを外し、百目木の頭をを開放した。
百目木は未だに傷む頭を手で擦りながら、恨めしそうに井上を睨み付けた。
「一体、あの先輩は何もなんだよ?
確かに綺麗な人だったけど、いきなり変な生き物を見たなんて聞いてきたんだぞ? 大丈夫なのかよ、あの人…」
「うーん、そういえばあの先輩。 変わり者って噂も有るからなー
しかし変わり者だろうと何だろうと、あんな美人の先輩とお近づきになれただけでラッキーだろう!
くっそぉぉぉ、何で先輩は俺に話しかけてくれなかったんだぁぁぁっ!!」
「お前な…」
百目木としてはいきなり訳の解らないことを聞かれ、友人にヘッドロックを掛けられる原因にもなった彼方先輩とやらに良い印象を持つことは出来なかった。
しかし井上的には例え相手が変人でも、見た目さえ良ければ全く問題無いらしい。
両腕で頭を抱えるオーバーアクションを交えて、井上は彼方先輩との接点を持った百目木を羨ましがる。
百目木は井上の過剰な反応に呆れ、遠慮なく侮蔑の目を送った。
「っ、やばい!? チャイムが鳴ったぞ!?」
「げっ、化学の田中は陰険だからな!? 急いで理科室に向かわないと、何言われるか解った物じゃ無いぞ!!」
そうこうしている内に予鈴が廊下に鳴り響き、百目木たちが次に受ける筈の化学の授業の開始を告げた。
よく考えてみたら百目木たちは理科室へ移動するために、木下高校の廊下を歩いていたのだ。
あの彼方先輩を発端にした馬鹿なやり取りによって貴重な休み時間を浪費した百目木たちは、慌てて理科室へと向かうのだった。
木下高校での退屈な授業を追えた百目木は、寄り道せずに真っ直ぐ家に帰ってきていた。
百目木は誰も居ない家に鍵を開けて入り、玄関で靴を放り出してそのまま駆け足で自室へと向かう。
部屋に入った百目木はすぐに押入れを開き、中に隠していたダンボール箱を取り出して中を覗きこんだ。
「!? ワンワン!!」
「おおっ、元気にしてたか!! 悪いなー、こんな所に押し込めて…」
箱の中には先日拾ってきた小犬が、百目木に気付いて元気に吼えた。
小犬をの面倒を見始めてから数日が経過し、小犬の怪我はすっかりよくなっていた。
百目木の見立てでは一ヶ月位は治療が必要と考えていた傷を、僅か数日で完治させるとは野生の力は恐ろしい物である。
動きにくそうにしていた包帯も既に外してあり、今では艶やかな毛色が目立つ可愛い小犬がそこに居た。
小犬は喜びを表すように尻尾をぶんぶんと振り回し、キラキラとした目で百目木の方を見ていた。
「今日もお袋に見付からなかったのか、偉いぞー」
「くぅーん…」
百目木の母親が仕事に出るのは昼頃からのため、百目木が学校に行ってから暫くは家の中には母親しか居ない状況になる。
その時に小犬が少しでも吼えたりしたら、母親はすぐに押入れの中に隠れている小犬のことに気付くだろう。
しかし小犬はまるで百目木の意図を把握しているかのように、百目木が学校に居る間には一言も漏らさずに押し入れの中に身を潜めてくれていた。
犬は賢い動物だとよく聞くが、此処まで百目木の希望通りに行動してくれる物とは思わなかった。
百目木は小犬の頭を優しく撫でて、今日も大人しくしていた事を褒めた。
そして百目木は腹を空かしているであろう小犬に、一昨日にスーパーで買った徳用のドックフードを与える。
皿に載せたドックフードをもりもりと食べる小犬の姿を見ている百目木の表情は、穏やかな笑顔であった。
「そういえばお前に名前を付けないとなー。
うーん、何て名前がいいか…」
「ワンっ!?」
この子犬を拾って以来、百目木はほぼ毎日公園を覗いて子犬の飼い主らしき人物を見つけようとした。
しかし公園には子犬を探している人物は全く無く、たまに街の掲示板に貼られている犬を探しているポスターにこの子犬の情報が出ていない事も確認している。
百目木はこの事実からこの子犬は野良、もしくは心無い飼い主に捨てられた子犬であると推測していた。
そして寝食を共にする内にすっかり小犬に愛着の沸いた百目木は、小犬に名前を付けようとする。
始めに傷が治るまで面倒を見ると決めていた筈なのに、この調子ではこのまま小犬を飼ってしまいそうな勢いであった。
「犬の名前だろ…、シロ、タロ、ポチ…」
「っ!? ワン、ワン!!」
「なんだ、シロやポチは嫌なのか。 そういえばお前は雌だったな…、ならハナとかペスとか…」
次々に犬に付き物の名前を告げていく百目木に対して、どういう訳か小犬は抗議するような吼え声をあげる。
百目木は小犬が嫌そうにしている事に気付き、必死に小犬が気に入る名前を考えようとしていた。
しかし百目木が絞り出した名前案も子犬はお気に召さなかったらしく、子犬の機嫌は悪化の一途を辿っていく。
「グルルルルッ、ワンッ!!」
「うわっ、お前、何を…」
そして突然、ダンボールから抜け出した小犬は、そのまま百目木の勉強机の方に駆けていく。
勉強机の前に立った小犬は見事な跳躍を行い、自分の体格の数倍は有る勉強机の上に飛び乗ることに成功する。
百目木は小犬の暴走を止めようと勉強机に近寄り、そこで小犬が机の上にあった卓上カレンダーを倒していることに気付く。
勉強机に置かれた卓上カレンダーは以前に母親が何処から貰ってきたものであり、今年の1月から12月の情報が記されていた。
小犬は右脚を倒れたカレンダーの8月の部分に置いており、百目木に何かを伝えたいようであった。
「8月…、8月に何が…。 解った、お前の名前はハチ…」
「ワンッワンッ!!」
「えっ、違うのかよ!?」
小犬がカレンダーの8月を指す理由を、安直に考えた百目木に抗議するように小犬は再び吼え声をあげる。
再び百目木はカレンダーと睨めっこして、そこで小犬の前脚が正確には8月の部分の有る箇所を指していることに気付く。
そこには8月の旧暦の呼び方である葉月という漢字が書かれており、小犬はこの葉月という文字を伝えたかったのだろうか。
「もしかしてお前の名前は…、葉月って言うのか?」
「ワンッ!!」
「おおー、そうか! 葉月ねー、中々いい名前じゃ無いかよ!!」
「くぅぅぅっぅん!!」
「よろしくな、葉月!!」
百目木がようやく意図を察してくれたことに喜ぶかのように、葉月と言う名の小犬は甘えた声をあげる。
ようやく名前が決まった小犬を百目木は勉強机の上から持ち上げ、段ボール箱に戻してやるのだった。
小犬の可愛さに誤魔化されている百目木が気付きもしないようだが、どうもこの葉月と呼ばれる小犬は些か奇妙な存在であった。
犬を飼ったことの無い百目木には解らないのも無理ないかもしれないが、遊びたい盛りの小犬が半日近く押入れでじっとしている事などは無い事である。
加えて普通の小犬があれだけの傷を完治させるのには、少なくとも数週間の期間を要する筈なのだ。
ましてや小犬がカレンダーで自分の名前を示すことなどは普通は有りえ無いだろう。
ではこの普通の小犬では無い、奇妙な生き物と言える葉月は一体何者であろうか…。