11. アルバイト
夢の中の住人となっていた百目木は、頬に感じるざらついた感触によって現実に引き戻された。
百目木を夢から目覚めさせた半人、茶色の毛並みをした四足の獣。
先日より彼のマモノとなった葉月が、主である百目木を目覚めさせたのだ。
「"主殿、主殿!!"」
「…うんっ、葉月か?」
葉月によって起こされた百目木は、寝ぼけ眼を擦りながらノロノロと布団から出てくる。
枕元に置いた時計は午前七時前を指しており、どうやら葉月はまたしても目覚まし機能が動き出す前に自分を起こしたらしい。
サッカー部に在籍した頃は朝練のために今より一時間前には既に目覚めていたが、部を止めてからはすっかり怠け癖が付いてしまった。
自分を起こしてくれた葉月の頭を軽く撫でながら、百目木は昨晩に準備していたジャージへと着替える。
「あら、至、今日も早いわね? 葉月ちゃん、また百目木を起こしてくれたのね、偉いわ」
「ワンッ!!」
葉月を引き連れて食卓を訪れた百目木を、朝食の支度をしていた百目木の母が出迎える。
始の元に弟子入りを果たした百目木はその日のうちに、家族に対して葉月の存在を告げた。
勿論、マモノ云々の話は秘密であるが、百目木は家族に対して葉月を飼うことに対する許可を貰おうとしたのだ。
結果的に百目木の両親は彼の想像以上にあっさりと、葉月を飼うことを認めてくれた。
百目木がしっかりと面倒を見ること、それが百目木の両親が彼に課した唯一の条件である。
そして葉月はこの日より、新しい家と家族を手に入れたのだった。
「その格好、今日も走りに行くの? もうサッカーは止めたのに…」
「ちょっとね…、朝飯は返ってから取るよ。 行くぞ、葉月」
「ワンワン」
葉月の朝の散歩を兼ねたランニング、これがマモノ使いの弟子になった百目木が新たに始め習慣であった。
何をするにも体力が必要であると考えた百目木は、誰に言われるのでも無く自主的に初めた朝のランニング。
元気よく家を飛び出す息子の姿に見送る百目木の母には、溢れんばかりの笑みが浮かんでいた。
あんなに夢中になっていたサッカーを止めて以来、何か燻っていた様子であった息子の影が今では全く見られない。
これはあの葉月という子犬のお陰であろうか、理由がどうであれ息子が元気になった事を喜ばない両親は滅多に居ないだろう。
「良かったわ、あの子が元気になって。 これも葉月ちゃんのお陰かしら…。
犬なんて飼うのは初めてだったけど、頭のいい子で良かったわ。 あの子の言うことは何でも聞くし…」
百目木母は今まで動物を飼ったことが無く、息子が連れてきた葉月が事実上初めてのペットであった。
彼女に取っての犬の知識はテレビなどから得られた物でしか無く、それらの情報では小さい犬はワガママで言ううことを聞かないと言っていた。
しかし葉月はワガママなど一切言うことは無く、まるで息子の言葉を理解しているかのように振る舞うのだ。
そもそも息子の話が事実であれば、あの子犬は二週間近く自分たちに気付かれずにこの家で一緒に生活していたと言う。
一つ屋根の下に居ながら全く気付かれずに生活をしていたら、何かの拍子に見つかりそうな物であるが結局あの子犬を百目木母が見つける事は無かった。
まるでそこに存在しないかのように我が家に居た葉月の頭良さに、百目木母は下手をすれば息子より頭がいいのではと密かに感心するのだった。
流石に葉月を学校にまで連れて行く訳にはいかず、百目木の学校での生活は以前とそれ程変わりない物であった。
無理をして自分の学力レベルより一段階上の高校に進学した弊害により、高校一年目の現時点で既に落ちこぼれ始めている学生生活。
既に理解を放棄して授業を聞き流している百目木の頭の中には、マモノ使いとしての事しか無かった。
「至、聞いたわよ。 アンタ最近、朝走っているって。 もしかしてまたサッカーを…」
「…ただの犬の散歩だよ、この前から家で飼ってるんだ」
「はっ、犬!? あんたん家、犬なんて飼い初めたの!?」
「お、この前聞いたワンちゃんの話か? どんな犬種なんだよ、プードルか? もしかしてブルドックとか?」
昼休み、クラスメイトの井上と昼食を取っていた百目木の前に口煩い幼馴染が襲来する。
クラス内にサッカー部の目から逃れるように、食堂の隅で食事をしていた百目木たちのもとにわざわざ茜は現れたのだ。
百目木をサッカー部に復帰させたいサッカー部マネージャーの茜は、耳ざとい事に百目木の朝のランニングの事を知ったらしい。
どうやら茜は百目木の朝のランニングを、サッカー部に戻るための準備であると好意的に捉えたようだ。
しかし当然のように百目木はサッカー部に戻る気は毛頭無く、幼馴染の少女を突き放すように応える。
「写真、写真は無いのかよ?」
「無いよ、どんだけ俺の犬の話に食いつくんだよ。 そういうわけで、俺はサッカー部に戻る気は無いよ。 やる事も出来たし…」
「やる事って…、一体何を…」
何故か葉月の事にご執心の井上に対して適当に相槌を打ちながら、百目木はきっぱりと自らの意思を茜に伝える。
最早、百目木にはサッカー部に未練は無かった。
少し前までの自分なら兎も角、マモノ使いとして葉月の面倒を見るという新たな目標を得た百目木にはサッカーをしている暇など無いのである。
茜はそんな百目木の言葉にショックを受けているようだった。
彼女の知る少し前までの百目木は、自分からサッカー部を止めておきながら未練がましくサッカーをしたがっているようだった。
しかし今の百目木には本人の言葉通り、サッカーに対しての未練が全く無いようなのだ。
幼馴染の変わりように動揺した茜は、僅かに震える声で百目木が言うやる事とは何なのかと訪ねようとうする。
「…百目木くん、何時まで私を待たせるのかしら?」
「へっ…」
「えっ…」
しかし茜の問いかけが幼馴染に届くことは無かった。
幼馴染通しの話を遮るかのように、百目木たちが座る食堂のテーブルにやって来た者が居たのだ。
百目木のマモノ使いの先輩である少女、彼方は僅かに呆れたような声で後輩に声を掛ける。
茜と井上はその予想外の人物の登場に、二人仲良く呆気に取られた表情を浮かべていた。
「あ、先輩。 うわっ、もうこんな時間か。 茜、お前のせいで時間に遅れたじゃ無いか」
「ちょっと、至!? この人は…」
「彼方 千歳…、何故彼女が百目木に声を…。 てめー、やっぱり彼方先輩と何か関係が…」
実は百目木は昼休みに彼方と約束をしており、本当であればさっさと昼食を終わらせて彼女の元に行かなければならなかったのだ。
それが幼馴染に捕まった事で時間を取ってしまい、先輩である彼方に手間を取らせてしまった。
元サッカー部で上下関係が厳しい体育会系出身の百目木は、先輩を待たせてしまった事に対して本気で反省しているようでする。
百目木は幼馴染に対して苦言を呈するが、当の茜は百目木の苦言など耳に入っている様子は無かった。
彼方 千歳と言う有名人と百目木と関わりが有るという事実が、茜には余程衝撃だったのだろうか。
それは井上も同じだったらしく、彼方 千歳と言う学園有数の美人と親しげに話すクラスメイトに対して怒気すら放ちながら事情説明を求める。
「ただのバイト仲間だよ、俺はこの前からこの人と一緒に働いているんだ。
すいません先輩、すぐに行きます!!」
「「バイト仲間!!」」
そんなクラスメイトと幼馴染に対して、百目木は端的に自分と彼方の関係を言い放ちながら急いで先輩の元に向かう。
彼方と共に食堂を後にする百目木の姿を、茜と井上は呆然と見送るのだった。
百目木の通う学校では、学生のアルバイトは基本的に禁止されている。
しかしそれには例外があり、学校側がアルバイトの必要性を認めた場合は許されていた。
生活苦で生活費を稼ぎたい、学外で活動する事で社会勉強のためなど、学校側がアルバイトを許可する理由があれば例外的に許可が降りるのである。
「…でも本当に許可が降りるんですか? 別に黙っていても解らないんじゃ…」
「仮に見つかりでもしたら、始さんに迷惑が掛かるでしょう。 師匠に迷惑をかけていいの?」
「うっ、それは…」
マモノ使いの弟子として始の探偵事務所に通っている百目木は、表向きはあの場所でアルバイトをしている体を取っていた。
しかし前述の通りに学校でアルバイトは禁止されるため、学校側に見つかりでもしたら問題になってしまう。
聞く所によると生徒たちの中には、規則などを無視してアルバイトに精を出している者も少なくない。
しかし万が一の事を考えた百目木は、リスクを回避するために学校側から許可を取ると言う真っ当な手段を取ることにしたらしい。
「安心しなさい、許可の条件なんてどうせ教師のさじ加減なんだから。 そして私は先生たちの受けがいいのよ」
「ならいいですけど…」
百目木と同じ理由で一年ほど前から始の元に通う彼方もまた、同じ理由で学校側から既にアルバイトの許可を取っている。
それもあって百目木は先輩である彼女を頼り、アルバイトの許可を取るために二人で職員室に向かっていた。
成績の事もあって余り教師受けがよろしく無い百目木は、自信満々の彼方の横で不安そうな顔を浮かべていた。
その日の放課後、そこには憂鬱そうな表情で探偵事務所内のソファに座る百目木の姿があった。
百目木の姿を不安そうな表情で見上げる葉月、それとは対象的に若干呆れ気味の表情を浮かべる彼方。
そんな中で数日ぶりに戻ってきた此処の主、始は事務所内の微妙な雰囲気に若干困惑をしている様子であった。
「…それで、無事にバイトの許可は降りたと。 目出度いことじゃねぇか。…で、どうしてこの坊主は、こんなに憂鬱そうな顔をしているんだ」
「赤点の禁止、それがバイトを認める条件よ。 そして百目木くんは、この前のテストで赤点を二科目出したらしいの…」
「…少しくらい勉強しろよ、坊主」
「うぅぅ、努力します…」
百目木が憂鬱な顔をしている理由、それは彼が放棄した筈の勉学に関わる問題であった。
彼方の助けもあってアルバイトの許可自体は降りた百目木であったが、許可の条件として出された彼に取っては途轍もない難題を振られたのである。
赤点禁止、それはアルバイトなどにかまけて、学生の本分である勉学を疎かにしないようにすると言う意味では打倒な条件だろう。
しかし高校一年目の時点で赤点常習者である百目木には、この課題は非常にハードルの高いものであった。
事情を把握した始は彼方と同じような表情を浮かべながら、頭の悪い弟子に対して師匠らしい言葉を投げかけるのだった。




