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天使と殺人鬼の夜

   天使と殺人鬼の夜

 その夜は天使が降る夜だった。
 冷たい風が、濡れた髪からどんどんと体温を吸い取っていく。靴下越しには、真冬の空気に冷やされたコンクリートの硬さを感じた。はあっと暖かい呼気を手のひらに吹きかけ、シャツの襟を引っ張り上げる。上着が欲しい。
 僕はマンションの屋上で落ちてくる天使を待っていた。
 息を潜めて時が満ちるのを待つ。寒いな、靴を履こうか、とも思ったけど、やっぱりこのまま天使を待っていたかった。寒さを我慢しながら、天使を待っていたかった。
 空に月は登り、明るい部屋の中から見上げる空よりも、もっともっとたくさんの星が空にはめ込まれている。家々の光が細かい粒となって地平に散らばって、東には黒々とした海、南の方に視線を滑らせると、細かい粒の光は密集して、大きな光の群れとなっていた。
 天使はケチだった。
 天使は、ただ一つだけ、一番乗りで天使のもとにたどり着いた人の願いを叶えてくれるという。
 誰が言い出したのかわからない。
 しかし、ここ一ヶ月のうちに、いつの間にか「天使がこの街の上空に降ってくる。しかも、天使はただ一つだけ願い事を叶えてくれる」という噂は、まるで確定した事実のように、人から人へと伝わっていった。
 現実主義者は「天使なんて降ってくるわけないさ」と無関心を装い、オカルト好きは天使の降ってくる意味に想像を逞しくした。誰もが心のどこかで、もし目の前にその天使が降りてきたなら何を願おうかを考えていた。
 とにかく、僕はダメ元で、この寒い夜をマンションの屋上で過ごすことに決めたのだ。コンクリートにぺたりと座り込んでいると、どうもズボンと靴下の向こう側から冷たさが忍び込んでくる。
 もう一度、はあっと暖かい息を手のひらにかける。こすり合わせる。腕を組んで、手のひらが直接外気に触れないようにした。なんだか少し暖かい気がした。
「ねえ、隣いい?」
 女の子の声がした。僕は街を見下ろしたまま答える。
「いいよ。…………え?」
「はああ、寒いねえ」
 そんな声とともにごそごそと音がして、とん、と右肩に誰かの左肩が触れた気がした。暗闇の中に目を凝らして隣を見やる。僕の右隣には、確かに一人の女の子が座っていた。
「え、え、え。ちょ、ちょ、ちょ」
「こんな寒い中屋上に登ってるってことは、君も天使を待ってるクチ?」
「そうだけど…………、え?」
 疑問が多すぎる。聞きたいことがぐるぐると渦を巻いて、脳みその中を何周も泳ぎ回っていた。
 彼女は僕と同じようにはあっと手のひらに息を吹きかけると、ごしごしと両手を擦り合わせて見せた。
「君も…………、天使を待ってるの?」
「うん。待ってるよ。ちょっとでも高いところが天使を見つけやすいかな、って思って」
 あっさり答えられてしまった。あっさり答えられてしまうと、どうもそれ以上何を聞いていいのかがよくわからない。自分も、いかにもアヤシげな「天使」なんてものを待っているのに、彼女の行動を「変だ」と断じることなんてできない。
 ただ、僕も彼女も、同じ天使を待つ者だということだけがわかった。
「待ってるってことは」彼女は、僕とは違い、なんの迷いもなく言葉を紡ぐ。「なにか叶えてほしい願いがあるんでしょ?」
「あるよ」
「なに?」
「…………いや、それは秘密」
「そっかー、秘密かー。残念だなあ」
 彼女はそう言うと、あっけらかんと笑って見せた。
「そう言う君は何を願ってるの?」
「私は特に、願い事はないかな」
 その答えは想像してなかった。
「ってことは、ただ天使を見てみたいな、ってだけ?」
「ううん、そうじゃない」
 つかみどころがない。
「そうじゃないって…………、願い事はないけど、天使をみたいだけでもない。ってことは、天使が現れた瞬間に何かをする必要があるか、天使自体に願い事以外の用事があるか、どっちかってこと?」
「まあ、そう言うところかな」
 彼女の返事が聞こえる。ふっと右隣に感じていたぬくもりが消えて、ついついそちらを振り向いてしまう。少し離れてみて初めて、彼女がベージュのダッフルコートを着ていること、彼女は肩にかかるかかからないかくらいの髪の長さだということを知った。
 寒い冬の闇の中なら、ぬくもりこそが存在感だった。
 彼女は僕から離れたところで正座をして、ダッフルコートの中に手を突っ込んでいた。やがて、コートの大きなポケットの中から金属的なきらめきを取り出すと、僕と彼女の間に置いた。
 包丁。
 それを皮切りに、僕と彼女の間には次々とポケットの中の物が置かれていった。
 諸刃のサバイバルナイフ。
 いかにも乾いた手触りの麻の縄。
 瓶に密閉された液体。
 並べられた物たちからは明らかな意思を感じる。そして、その意思は僕の生活から遠く離れたところにあるはずの物だった。
 つまり、僕の目の前のこの景色は、おとぎの国の景色とそう変わらないってことだ。
 急速に乾いていく口の中を頑張って唾で潤す。
「これは……なに…………?」
「これは、殺すための道具」
「殺す?」
 わかりきったことを聞き返す。
「そう、天使を殺すための道具」
「天使を殺してどうするの?」
「どうするもこうするもないよ、殺すだけ」
 わけがわからない。
 マンションの屋上を照らすのは、街の灯りと月と星だけのはずだった。相当暗いはずなのに、それでも彼女には僕の顔がよく見えたらしい。あはは、と笑うと、
「やっぱりねー、そういう表情するよねえ!」
 と言った。
 自分じゃ自分の顔を見られないけど、確かに変な顔をしている自覚はあった。
「そりゃそうだろ。だって、天使を殺すって……」
 言ってる意味はわかるけど、なんでそんなことするのかわからない。素直に願い事を叶えてもらえばいいじゃないか。そもそも天使って殺せるのか? 天使に死なんて概念は通用するのか? それを確かめないままにこんなに凶器を用意して見せたって、それは無駄というものなんじゃないのか? 包丁麻縄ならまだわかるけど、拳銃って。目の前の女の子は僕とあまり年が離れていないように見えるけど、そんな年の女の子が簡単に手に入れられるような代物には見えないよ。
 言いたい言葉がまたも渦を巻くけど、結局僕の口から飛び出たのは
「ムリじゃない?」
 の一言だった。
 僕の言葉を、彼女は瞬時に打ち返した。
「ムリじゃないよ」
「なんでさ」
「つまり君は、私の持ってる凶器が天使に通用しないかもしれない。だから、私が天使を殺そうとしても、それはムリなんじゃないか、って言いたいんでしょ?」
「それもそうだし、そもそも天使って死んだりするものなのか、って問題もあるし……」
 尻すぼみになっていく僕の言葉を、彼女は勢い良くぶった切った。
「天使は死ぬよ。噂が全て真実ならね」
「…………なんで?」
「天使はなんでも一つ願いを叶えてくれるんでしょ? なんでも、なんでも、なんでも。なんでも、ってことはつまり、どんな無理難題でも、ってこと。
 だから、私が天使に『死んで』ってお願いすれば天使は死んでくれるし、もし天使が超自然的な存在だとしても、私が『人間になって』ってお願いすれば、ちゃんと私たちみたいに、物理法則の通用する体になってくれる、ってことじゃない? なら、あとは人間になったところを一発ぐさっと刺しちゃえば……」
「えええ…………」
 いかにも怪しい理屈をこねられてしまった。なんとなく、アブない人なんじゃないかなーという予感がするけど、そう思ってることを気取られてしまったら、もしかしたら目の前の得物のどれかでさくっとやられちゃうのかもしれない。
 怖いなあ。
 怖いなあと思うけど、彼女の計画についてもっと聞いてみたい気持ちも確かにあった。このまま寒空の下で震えながら気まぐれな天使を待つよりも、イカれてしまった女の子の話を聞いている方が、いくらか明るい気分になれそうな気がしたのだ。
「でも、天使を殺そうと思うなら、さっき言ったみたいに、天使に『死んで』ってお願いすればいいじゃん。なんでわざわざそんなに物騒なものばっかり集めてるのさ」
「天使の死の概念が人間と同じかどうかわからないでしょ。天使の言う『死』は、もしかしたらこの世の生物の『死』と違って、のちにやすやすと復活しちゃう『死』かもしれない。私は復活されちゃ困るの。だから、一つ目のお願いは『人間になって』って言うつもり」
 なんだか鬱々とした気分になる話だ。ちょっと変な子ってだけならまだしも、こうも「殺す」だのなんだのと言われると、どうも寒気がコートの縫い目あたりから忍び込んでくる感じがする。
「つまり君は」僕の声は少し元気がなかった。「殺人鬼なんだね」
 天使を殺すなら、それは殺天使鬼だけど、「人になって」とお願いしてから殺すなら、それはれっきとした殺人鬼だろう。
「まあ、そういうことになるね」
 彼女は得意げに胸を張る。なんで得意げなのかはよくわからない。得意げな顔をしたまま彼女はまた地面に跪くと、並べてあったナイフやら毒瓶やらをがーっと集めると、またダッフルコートのポケットにしまいこんだ。いろいろごちゃごちゃとしまいこんでいるからだろう、コートのポケットの生地はかわいそうなくらいよれよれになっていた。
 彼女はまた、手袋をつけていない両手のひらを擦り合わせては、はーはーと息を吹きかけた。僕も思わず彼女の真似をしてしまう。夜も深まって、いよいよ寒さが忍び寄ってくる時間だった。
「なんか寒いね」と彼女。
「うん」
「なんかあったかいの、買いに行こうか」
「いいね、それ」
 僕らはぺたぺたと屋上の錆びついたドアを軋ませると、トントンと階段を下り始めた。夏なら羽虫がたくさん集っている電灯も、今はただ階段を照らしているだけだ。
 殺人鬼を目の前にしてるのに、なぜか誘いに応じてしまった。
 武器はそこにあるだけで怖いし、それをもう数時間と経たないうちに使うぜ、と宣言してる相手が隣を歩いているなら、その倍くらい怖い。
 こわいこわいこわいこわい〜、と僕は心の中で歌った。
 階段を下りて、エントランスを抜けて、オートロックのドアを抜けて、街灯が照らす道に出た。遠くに青白い光を放つ自販機が見える。
 僕は、足の裏に触れる地面がごつごつしてきたことに気づいた。マンションのエントランスは御影石だったから、余計道路のアスファルトがごつごつ感じられる。
「あ、靴忘れてきちゃった」
「取りに戻れば?」
「うーん…………、いいや」
 僕は裸足と差して変わらぬ感触を覚えながら、地面を踏みしめた。天使は天から降ってくる。この地上を踏みしめたことは、おそらく一度もないのだろう。あるいは、踏みしめられること、地面に縛られ続けることこそが、天使と人間を隔てるのだろうか?
 ゆっくりと歩きながら、僕は隣の彼女に当然みんな抱くであろう疑問をぶつけた。
「君はさ、なんで天使を殺したいの?」
「逆に、君はなんで天使を殺したくないの?」
 なんで天使を殺したくないの? って言われてもなあ。そんな答えが帰ってくるなんて思いもしなかった。
 だって、普通は。
「理由なく天使を殺したいなんて思わないでしょ」
「……ふーん」
 彼女は人差し指で顎を撫でると(本当にそうやって考える人を、僕は初めて見た)、てくてくてく、と僕の前に回り込んだ。歩みを早めたからだろう、がちゃがちゃがちゃ、と金属のぶつかり合う音が一層大きくなった。彼女とぶつかりたくない僕は、ぴたりと足を止めた。
 目の前の人影が少し大きさをましたような気がした。
 彼女は腰に片手を当てて、もう片方の手で人差し指を立てて、僕をぴっと指差した。どうも芝居がかって見える。
「理由がないならば天使を殺したいと思わない。対偶をとって、天使を殺したいと思うならば、理由がある。
 つまり君は、私には天使を殺す正当な理由がある、と認めるわけ?」
 え、そこを前提として今まで行動してたんじゃないんですか。
 僕はあえてそこを指摘しなかった。だって、彼女が普通じゃないという可能性はまだ残ってるし、もしくは、
「正当であろうとなかろうと、理由は理由でしょ」
「ま、それもそっか」
 彼女はそう言うと、うーん、と空を見上げた。天を仰ぐ感じじゃない。何かを考え込みながら、眉に皺を寄せながら、どこか遠くを眺めている。そんな表情だった。
 街灯の下を通り過ぎる。一瞬僕らにスポットライトが当たって、数歩進むともう影に飲み込まれてしまう。
 彼女の声はよく通る。でも、冷ややかな街灯の下で見た彼女の顔は、そんな声から想像していた彼女の顔より、少しだけ幼かったことに僕は気づいた。
「私としては、これ以上なく正当な理由に思えるんだけどなあ」
「天使を殺すための理由が?」
「うん…………」
 彼女は少し自信なさげだった。
「なんでそんなに自信なさげなのさ。さっきまでは少なくとも、傍目には自信ありそうに見えたけど」
「私の中では筋が通ってても、君が正当だと思うかどうかはわからないじゃん」
 至極真っ当だ。
 さっきから、ちょいちょい「ヤバイ人」と「普通の人」を行ったり来たりするのが、すごく面倒くさいというか、すごく返答に困る。
 でも。
「なんで僕の中の正当性を気にする必要があるの?」
「それもそっか」
 彼女はあっけらかんと言い放つと、今度は大きく息を一つ吸って、ふっと口元を緩めた。
 …………笑った、のかなあ。
「まず、天使が全ての願いを叶えてくれる、ってことが前提ね。
 となると、天使に『こいつが気に入らないので殺してください』とか、『この世界が気に入らないのでぶっ壊してください』とか、そう言う馬鹿げた願い事をしたとしても、叶えられてしまう、ってことになるでしょ。
 じゃあ、殺すしかないじゃん、天使を」
 えええ。ぶっ飛びすぎな気がする……。
「みんながみんなそんな願い事をするとは、思えないんだけどなあ」
「いや、そうとも言えないよ」
 僕らがてくてくと歩き続けたから、自動販売機はもう目の前だった。僕はポケットに手を突っ込んで、そして、財布を持っていないことに気がついた。彼女は僕のそんな仕草を見ていたのか、仕方ないなあ、と言うと、ホットコーヒーを二本買って、僕に一本渡してくれた。
 恐悦至極である。
 早速プルタブを開けようとした僕を、彼女は制した。
「一気に飲んじゃうと、どんどん缶が冷たくなっていくよ。しばらくは、ほら、こうやって」
 彼女は両手で缶コーヒーを包み込んだり、ほっぺたに缶を当ててみたりした。僕も彼女の真似をする。なるほど、暖かい。
 暖かいということは、つまりここに缶コーヒーが存在するということだ。
「どこまで話したっけ」
「誰もがそんなにネガティブな願い事ばっかりするわけじゃないんじゃないかな、ってところまで」
「じゃ、天使への願い事がネガティブなものに偏る、そのわけを説明しよっか」
「お願いします」
 おほん、と彼女はわざとらしく咳払いをした。耳にかけていた髪が幾束か、さらりと頬に流れ落ちる。
「天使は、非現実的な存在である。これはまあどうも主観的な感じがするけど、感覚的に理解してくれればそれでいいかな。結局、これは一から十まで感覚的な話だし。
 非現実的な存在に託す願い事、って何が考えられるかな。元の状態と、願い事それぞれに良い悪いが、あるとすると、
 元からいい状態にある人が、さらに良くなるための願い事。
 元からいい状態にある人が、悪い状態になるための願い事。
 元は悪い状態にある人が、いい状態になるための願い事。
 元は悪い状態にある人が、さらに悪くなるための願い事。
 の四通りが考えられるよね。
 願い事は良い状態になるためのものであることが普通だから、一番目と三番めが生き残る。で、悪い状態を脱したい、と言う願いと、良い状態からさらに良くなりたい、っていう願いだったら、前者の方が一般的には強いはず」
「えーっと、それはなんでそう言い切れるのかな」
「だって、暖かい暖房の効いた部屋にいる人と、寒空の下にいる人、どっちがホットの缶コーヒーを欲しいと思う?」
「そりゃ…………」
 本当は、寒空の下の人でしょ、と言おうとしたんじゃない。その二択はずるいなあ、と思ったんだ。
 彼女は僕に缶コーヒーをおごってくれた。だから、僕には「はい、寒空の下にいる人の方がホットの缶コーヒーを欲しいです」と答える義務がある。
 ずるいなあ。
「寒空の下の人でしょ」
「その通り。で、強い願いであればあるほど、解決策の現実性はどうでも良くなってくる。神頼みってやつだね。強い願いであればあるほど、つまり、悪い状態から脱したいと思ってる人ほど、非現実的な解決策、つまり、天使に願うようになる、ってこと」
「うん…………うーん?」
 なんだか煙に巻かれたような気がする。だけど、もう夜中だからか、何を以って反論として良いのかが良くわからない。
「でも、それなら、天使が叶えてくれる一回きりの願い事を、何としても自分で使い切れば良いんじゃないの?」
「私は別に取り立てて願い事なんてないし」
「それは、どうして?」
「私はさ、幸せだから。今の私は満ち足りてるの」
 幸せだから、天使を殺さなければならない。なんと素晴らしい矛盾だろう。
「でも、じゃあ、天使に『今の幸せが続きますように』って言えば良いじゃん」
「だからさ」彼女はずっと弄んできた缶コーヒーのプルタブを起こした。かしゅり、と軽い音がする。「天使がいずれまた二つ目の願い事を叶えちゃうかわからないじゃん」
 …………頭がこんがらがってきた。
 彼女はコーヒーに少し口をつけると、今度は僕の目をまっすぐ覗き込んだ。真っ黒な瞳の中に自販機の無機質な明るさが写り込んでいる。
「天使は超自然的な存在であることと、願い事が叶えられる形は願い事を聞き届ける側の基準にどうしても依存することを考えると、ただの天使に願い事を伝えるという行為には、人間の基準と天使の基準が入り混じってるんだって。
 だから、『人間になって』という願い事で天使を人間のレベルに引きずり落として、そして、二度と他人の願い事を叶えたりしないように、物理的に殺す必要があるんだ。そうすれば、確かに人間のレベルで私の願い事が叶う」
 天使を引きずり落とす。その言葉だけが僕の頭の中にこだました。なんともアレな響きだけど、どうにも魅力的に聞こえた。彼女が天使に組み付き、真っ白な、やわらかな、汚れのない翼を引きちぎる様子が頭の中でちらついた。
 やっぱり頭がこんがらがったままだ。
 これが、彼女にとっての「正当な理由」なんだろう。残念ながら僕には理解できないけど。
「ふーん」
「興味なさそうだね」
「まあね。聞いたところで納得できるなんて思ってなかったし」
「そっちから訊いておいてなかなかひどいね…………」
 彼女は苦笑いすると、ぐいっとコーヒーを飲み干した。僕も手のひらの中の缶コーヒーを思い出して、かしゅりとプルタブを起こして飲み干した。
 コーヒーの熱さが食道を通り抜けて胃へと降りていく。
 なんとなく、一つ思いついたことがあった。
「君、もしかして心配性なの?」
 彼女は、しばらく目を見開いて、そのままの格好で固まってしまった。何かを言おうとした口元が小さく動くけど、何も言葉を結ばない。
 やっと彼女が紡いだのは、
「かもね」
 と言う短い言葉だった。深呼吸して、彼女は再び口を開いた。
「なんで、そう思うの?」
「だって、普通の人は、天使が降りてきたら、お金が欲しいとか、モテたいとか、もっとどうでもいい、汚くって臭い願い事をするよ。賭けても良い。世界が滅べだとか、そんな綺麗な、混じりっ気のない願い事をできる人は少ないはずだね。
 で、そんな少数派の人たちが天使のもとにたどり着く可能性も少ないし、そんな人たちがいよいよ願い事を口にするときに躊躇しない可能性も低い。
 でも、そんな小さな可能性を気にせずにいられないほど心配性なんだな、って思ったんだけど、外れてる?」
「あながち間違いじゃないかも」
 彼女はふーっと長い息を吐いた。さっきまで見開かれていた目も、今は足元のアスファルトへと落とされている。
 と思ったら、今度は大きく体を反らせた。伸びだ。それも豪快なやつ。
「そっかー、私、心配性だったのかなあああああ! うううううんっ!」
 伸びをしたときに漏れる声。その声でそのまま言葉をしゃべった、みたいな感じだった。
「まあ、私のことはこれくらいで良いよ。君の話をしようよ」
「僕の話?」
「私のことばっかり白日のもとにさらされていくのは、なんというか、不公平だよ」
「今は夜中だけどね」
「そういうことじゃなくってさー」
 目の前のふくれっつらを見ながら、僕はぷっと吹き出した。
「あ、笑った!」
「ごめんごめん。で、僕の話?」
「そうそう。なんかさあ、私の話ばっかりでさあ、私が天使を殺すって言ったらなんか変な人を見るような顔してさあ。なんかすごく納得いかないんだけど」
「そりゃ、いきなり天使を殺すなんて言われたら誰だって驚くでしょ」
「そりゃ、天使を殺すってシチュエーションが派手なだけで、もっと地味なところに目を向ければ、誰だって微妙に分かり合えないことばっかりじゃん。そういう小さな違いが積み重なれば、誰だって誰かの変な人になれるのに」
「それって、君だけじゃなくて、僕も変な人だって言いたいの?」
「まあそうだけど、それを突き詰めれば、誰だって変じゃないとも言えるね」
 そうだろうか?
 少なくとも、天使を殺すなんて言い出す人間には出会ったことがない。稀であることすなわち変であること、なら、目の前の彼女は間違いなく変な人だろう。
「とにかく、私は君のことがもっと知りたいんだ」
「なにそのこっ恥ずかしくなるようなセリフ」
「ぜんっぜん恥ずかしくなんかないね!」
 彼女の頬に赤みがさしてたのを僕は見逃していない。
「えーと、おほん。ではインタビューを始めましょう。
 君はなんで、こんな寒い夜に、天使を待っていたのですか?」
「それは…………、秘密、ってことじゃだめかな?」
「それは……、そうだね」
 うーん、と彼女は考え込むと、
「いやー、じゃあ、どうしようかなあ」
 と言った。
「どうしようかなあっていうのは?」
「どうやって君のことを知ろうかなってこと」
「そこまで頑張って僕のこと知らなくても良いのに。というか、そこまで面白い人間でもないし」
「いやいや、せっかくだから」
 何が「せっかく」なんだろう。彼女につられて僕も考え込んでしまう。
 これから天使を殺しに行く彼女が、何を考えているのか、僕には全く想像がつかない。
「そうだなあ、君の願い事を当ててみるのも楽しいかなあ、って思ったんだけど」
「当ててみる?」
 当てられるのか?
「そう。天使が落ちてくるまでの暇つぶしにはちょうど良いかな、って思って」
「でも、当てられるかどうかわからないしなあ」
「君の願いは、何かを隠し通すことなんだな、ってところまではわかったよ」
「…………え?」
 僕はおもわず聞き返した。
 あまりにも素っ頓狂な声だったから、彼女も一瞬驚いたような表情を見せた。けど、じきにその表情はにんまりとした笑みへと変わっていった。
「お、当たりかな?」
「…………当たり、だね。でも、なんでわかったの?」
「まあ、半分カマかけ、もう半分がズル、って感じだけど」
 全部ずるい。
 彼女は手のひらの中でコーヒーのスチール缶を弄びながら、ポツポツとしゃべった。僕はそんな彼女の横顔をじっと眺めていた。
「だって、私は『天使を殺す』って話を君にしたんだよ? それなのに、君は天使に願う程度の願い事を頑なに隠してる。
 それに、君は天使を待っていたのに、私が天使を殺すっていっても、一向に止めようとしない。だから実は、君の願い事は天使に願わずとも叶う願い事で、でも天使に願っても良いかな、くらいに思ったこと。しかもそれは、頑なに隠し通すことそれ自体で叶うことなのかなあって思ったんだ。
 どんぴしゃ?」
「どんぴしゃ」
 小声の「やったー」が隣から聞こえる。もし彼女が僕の顔を見ていたら、多分苦虫を噛み潰したように見えたに違いない。
 彼女はにやにや笑いのまま、僕の肩をバシバシと叩いた。
「でもさあ、君くらいの歳の男の子が隠し通したいことっていったら、えろ本の隠し場所か、好きな女の子かくらいのことでしょー? かわいいもんだよねえ」
「君くらいの、って…………」
 君もだいたい僕と同じくらいじゃん。
「君もかわいいなあ……」
「天使を殺そうとしてる人に言われても嬉しくないって」
 彼女はあはははと腹を抱えて笑いながら、缶を自販機横のゴミ箱に投げ込んだ。縁に当たって跳ね返ってきた缶を今度は蹴り上げる。今度は綺麗に缶はゴミ箱に飛び込んだ。器用だ。
「あははは……、はあ。さて」
 急に真面目な顔つきになった。それはそれでまた面白い。
「もう天使も降りてくるみたいだし、そろそろ君とはお別れかな」
 彼女は僕の背後遠くを捉えていた。僕も彼女の見つめる先へと振り向く。
 暗いはずの夜空がぼんやりと明るくなっていた。月の光をぎゅっと集めて柱にして、夜空へ向けて垂直に立てたような、そんな感じだった。
 光の柱の中を、ひらりひらりと風に煽られながら、紙切れみたいなものが落ちてくる。
 あれが天使なのか。
「まあ、楽しく時間がつぶせてよかったよ。君も、えろ本はベッドの下とかじゃなくて、もっときちんとしたところに隠すんだよ。あ、最近だと、電子化って手もあるけど」
「いや……、えろ本なんて持ってないって」
 天使は、少しずつ、それでも確実に、地面に近づいてきていた。ひらり、ひらり、右へ、左へ。地上で待つ僕らをあざ笑うように、焦らすように。早く願いを叶えてくれと願う僕らを見下ろしながら、白い羽根は地上へと舞い降りようとしている。
 くるり、とこちらに背を向けて、彼女は立ち去ろうとしていた。蹴り出しかけた足を止めて、再びくるりと振り返る。
「じゃね、殺人鬼くん」
「……………………っ!」
「あははっ、その顔だと、確かに私の読みは当たってたみたいだね」
 場違いなくらい華やかな笑顔。どうしてそんな顔をできるのか、不思議でたまらなかった。
「どうして……、どうしてそれがわかったの?」
 まるで子どもが褒めてほしいときのように、嬉々として彼女は話す。でも、彼女の声は冷たい風で、僕の背筋を意地悪く撫でるのだ。
 嬉々とした声なのに、話の内容も声も全く無機質だった。
「ただの当て推量だけどね。当て推量に当て推量を重ねてるから、当たってる可能性は限りなく低かった。
 君の髪は濡れてた。風呂上りかな、と思ったけど、もし風呂上りなら、寒い寒い言いながらも薄着でいるはずがない。ゆえに、君の髪が濡れていたのは風呂上りだからではない。また、なんらかの事情によって、薄着でいなければならなかった。つまり、上着が着られなかった。
 ならば、何かが付着した髪を洗い流す際に髪が濡れたのだろう。そして、その何かは上着にも付着したのだろう。
 さらに、君はさっきのマンションの屋上に靴を忘れて来てた。でも、靴を忘れてきたこと自体を、エントランスで思い出してた。つまり、君は靴を履いて外に出るつもりはなかった。じゃあ、なんで取りに戻らなかったのか。それは、あのオートロックの扉を開ける鍵を持ってないからじゃないのか。言っとくけど、靴があるのにほぼ裸足で冬の道路を歩くなんて、普通の行動ではないよ。
 オートロックの扉を開ける鍵がなかったということは、誰かが君を案内してあのマンションに入れたことになる。つまり、君は誰かのお客さんだった。しかし、どこかで君の髪と上着が汚れて、君はそれを洗い流して、そして、あのマンションから出ることなく、一人で屋上で天使を待ってた。
 最悪の場合を考えたんだ、私。そしたらね」
 彼女に、最悪の場合を考える癖がありそうなことくらい、この短い間に僕にもわかってきていた。
 最悪の場合でも幸いであるならば、それは幸いなのだ。
 彼女の表情はだんだんと冷たくなっていった。さっきは嬉々とした表情で自分を奮い立たせていたんじゃないかな、と僕は思う。
 彼女は、幸いでない場合をとことん排除したいのだ。
「血だよ、返り血。君の髪は、君の上着は、血で汚れたんだ。つまり、君を招待した誰かさんは、まだあのマンションの一室で、冷たくなって倒れてる。君が手ぶらなのを見ると、凶器もその哀れな招待主さんの体に刺さったままだろうね。上着はおそらく、招待主さんの家で洗濯と乾燥をしてるんじゃないかな、って思ってる。ってことは、招待主さんは一人暮らしか、そうでなかったら、同居人が遅くにならないと帰ってこないのかな
 とにかく、さっきも言った通り、最悪の場合、君は殺人鬼だ。だから、最悪の場合でないことを期待して君にあんなことを訊いたのに」彼女は目を伏せる。嬉々とした表情はもうとっくの昔にどこかに消えていた。「君は殺人鬼だった」
 彼女の言葉は、ただ彼女の妄想を並べただけだ。なのに、妄想は妄想のまま、僕の過ごしてきたこの数時間の過去と混ざり合って、紛れもない事実になっていた。
「ごめん」
 僕はうなだれる。どうしようもないくらい、僕の隠し事は、白みゆく星空の下に暴きだされてしまった。
「私に謝らないで」
 彼女はそう言うと、悲しみを無理やりに押さえ込んで、笑って見せた。いや、僕にはそれが正しいのかわからない。そんなような顔をしたのだ。
「私はその招待主さんが誰なのかよくわからない。でも、多分、私の幸せにはあんまり影響がない」
 ひときわ明るくなった光の束が、彼女の顔を照らし出した。照らし出された彼女の顔は、明るくなったはずなのに、むしろ影が濃くなって、僕はますます彼女の表情からは何も読み取れなくなった。
 彼女の言葉はまだ続いた。
「でも、君は誰かの幸せを最悪の形で奪ってしまえるような人だということが、これで証明されたんだ。いいかい、それを私は許さない。何があっても許さない。天使だろうが神だろうが、私から幸せを奪う奴はみんなまとめて私が始末してやるんだ」
 深い息。
「私の幸せに手を出してみろ」
 そうか、その表情は。
 黒い瞳が僕を刺す。
「その時は君を殺すからな」
 一瞬、街が静まり返った。
 わっ、とどこかで歓声が上がって、夜空が藍色を通って、だんだん水色へと近づいているようにさえ感じられた。
 喚声につられてか、僕も彼女もあんぐりと口を開けて、空を見上げていた。多分、この街の誰もが同じ格好をしていたと思う。僕はきまりが悪くなって彼女に向き直った。
 目の前の彼女が、急に小さくなったように思えた。
「じゃあ、今度こそさよならだね」
 彼女は言った。
「君、自殺するつもりだったでしょ?」
「え?」
 なんでそこまで、と慌てたけど、よく考えたら当たり前だ。
 彼女の先を越そうと思ったのに、結局彼女の方が早かった。
「屋上で、靴を脱いでたから。
 まあ、自殺したいなら私は止めはしないけどね。それで何が変わるのか、そもそも君や哀れな被害者が救われるのか、私にはさっぱりわからないけど。
 でも君は、殺人の事実がばれないように、天使に祈るつもりだった。この殺人を隠し通せますように、って。おそらくそうでしょう? でも、同時に自殺もするつもりもあった。
 中途半端なんだよね。そんな君に、天使に願い事なんてさせない」
 彼女は言葉と、そして僕への視線をぷっつりと切った。
「ねえ!」
 僕は、僕に背を向けて走り出そうとしていた彼女を、無意識のうちに呼び止めてしまう。
 僕は彼女を呼び止めて、どうしようっていうんだろう。考えがまとまらないまま、振り返った彼女と目が合ってしまった。
 真っ黒な瞳が僕を覗き込む。
「君、名前、なんていうの?」
「猫島。私は猫島。君は?」
 僕は名乗った。声がかすれて、うまく声が出なかったかもしれない。
 街のざわめきがさらに増していく。静かだった住宅街にも、あちらで子供の喚声、こちらで慌ただしく扉の閉まる音。深夜に降りていた静けさの幕が、再び上がっていくようだった。
 彼女は僕を睨みつけながら、叫んだ。
「もし君が隠しおおせたとしても、私が真実を知ってるから」
「うん」
「隠そうったって、そうはいかないからね」
「うん」
「天使に願い事なんてさせないから」
「うん」
「他の誰かはどうでもいいの。私の」彼女はそこで、ちらりと空を見上げた。目の端にはおそらく、あの天使を捉えている。「私の幸せは、誰にも渡したりしないから」
「うん」
 僕にはもう、頷くしか許されていなかった。
 彼女、いや、猫島さんは、僕が頷いたのをみると、きつく結んだ口元を、さっきみたいに、ふっと緩めた。
「じゃあね」
 彼女は今度こそ、振り返らずに駆け出していく。ざわめきを増していく街の中に消えていく。
 僕は手の中ですっかり冷たくなっていた缶をゴミ箱に投げ込んだ。ゴミ箱の縁に弾かれて、アスファルトの上に落っこちる。今度は、さっきほどには音が響かなかった。缶を拾う気にはなれない。ただ、自販機に背中を預けて、だんだんと明るさを増していく空を見上げた。光の束の中を舞い降りる天使は、もう随分と下界に近づいていた。
 下界の者が何を願うかも知らずに、下界の者に殺されるとも知らずに、いや、もしくはあれもこれも全てを知った上で、ひらり、ひらり、と、のんびりしたスピードで降りてくる。
 確かに今夜は、天使が降る夜だった。

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