1〜10
1、喪失
追い風はどこまでも爽やかで、潮の香りも、もはやない。
そんな、西へ向かう峠道で、木立が途切れる場所がある。
最後に海と王都が見えるので、『見返り坂』とも呼ばれている。
かつて王都を追われた者たちは、ここで最後と振り返り、二度と帰れぬ都を目に焼き付けた。
私も倣って振り返り、手をかざして彼方を眺める。
緑の丘が緩やかに連なる先に、芥子粒のような屋根屋根がこじんまりとまとまっている。青い瓦の塊から、城の尖塔だけが飛び出している。その向うには一線、空と海を隔てる白いもやが見えた。
人々が行き交う巨大な都は、既に精巧な背景の一部となっていた。
あの街に、私は全てを捨ててきた。
仕事も、お気に入りの店も、少ない友人ですら捨てて、私はここまで歩いてきた。
一つだけ、どうしても捨てられなかったものがある。
ただそれは、得られるはずもないもので。
とっくの昔に私から、飛び去ってしまっていた。
だから、私は旅に出る。
さあ、ここから離れよう。どこか遠くでなら、あの街に郷愁を寄せられる。
胸にぽっかりと空いた虚無を抱えて、私は峠を後にした。
2、メロディー
しんとした昼下がり、私はその小さな街に身を寄せた。
白い壁がどこまでも続き、人の姿もまばらだった。
どこからともなく澄んだ声が聞こえ、私は立ち止まった。
浅黒い肌の少女が、街角で一人唄っている。
前に置かれた麦わら帽に、私はコインを投げ入れた。
少女は怪訝な顔でこちらを見上げた。素朴な美しい唄が途切れる。
「あなたには、自分の唄がないの?」
「自分の、唄?」
「そうよ」
少女は黒い、きらきらとした瞳で返す。
「この町の人はみんな、自分だけの唄を持っているわ。ない人には、私があげるの。」
「そうか」
相づちを打って、考える。私は、私の唄を持っていたかどうか。
「多分、持っていないと思う」
「そう」
少女は大まじめにうなずいて、姿勢を正す。
じゃあ、唄うわね、と少女は目を閉じた。
「あなたのための、唄よ」
そうして少女は澄んだ声で、聞き覚えのあるメロディーを口ずさむ。
忘れていたものを思い出させるような、懐かしい旋律。
これは、何だろう。
潮の香り、吹き渡る風、真っ白な雲。
その唄は鳥のように舞い上がり、青い青い空へと溶けて消えた。
「あなた、持っていないって言ったのに」
嘘ついてたのね、と少女は無邪気に笑った。
忘れていただけだよ、と私も微笑む。
また、この街を訪れるときに、私は自分自身の唄を覚えているだろうか。
忘れているかもしれないが、それは大して問題ではない。
きっとこの少女が、覚えていてくれるだろうから。
3、扉
レジーナ村の祭りは変わっている。
色ガラスのランプが列をなしてつり下がり、冷え冷えとした闇を追い払う。
その広場の真中には、扉が据えられている。
大人三十人が一度にくぐれそうな、樫で作られた巨大な扉だ。
その扉の後ろには、何もない。
ただ、広場はその扉で半分に仕切られて、片方には大勢の人が集まっている。
もう片方には、ほどんど人がいない。
いたとしても、慌ててこちらへ駆けて来る。
彼らはしんしんと冷える寒さの中、白い息を吐きつつ今か今かと待っている。
夜もとっぷりと更けた頃、ついに教会の鐘が鳴る。
そのとたん、群衆は叫ぶ。「ようこそ、新年!」と。
人々は、広場の扉を押し開けて、我先にとくぐり抜ける。
その先に何がある訳ではないのに、彼らは満面の笑みを携えて、扉の向う——去年から新年へと向かうのだ。
私もそれに交じり、新たなる年を迎えると共に、過去を捨て去るふりをした。
お祭りはここからが最高潮だ。
群衆は唄い、踊り、飲み、そして扉へと火を放つ。
めらめらと燃える巨大な扉は、過去の忘却の証なのだろう。
突然、赤ら顔の陽気な老人に、辛気くさい顔をしなさんな、と諭された。
考えを言葉にすると、彼は豪快に笑って、片手に持った地酒をラッパ飲みした。
「それは違いますわい、旅人さん。去年を燃やして、ええ肥やしにして、今年を生き抜く、これはそのための祭でさ」
そうかもしれない、と答えると、彼はまた、豪快に笑って去っていった。
空気が、少し暖かい。
私は、それからもうしばらく、燃える扉を見つめていた。
4、薬
うっそうと茂る山道で、一人の薬売りに出会った。
背負子を背負ったその老人は、私が魔術をかじっていると知ると、生き生きと魔術薬草学についての話を振ってきた。
魔術と薬草学を一緒にするのはやめてくれ、と私は言った。
月の光を浴びせたからといって、呪文を唱えながら鍋をかき回したからといって薬効は上がらない。
薬草はただ、その植物の持つ力のみで構成されている。
本来魔術が入り込む必要など全くないが、魔術師が薬を作ると、とたんに値段が跳ね上がる。それを容認する文化こそが間違いだ。
そう答えると,彼はすこし考え込むふうだった。
だが、つかの間の沈黙が過ぎ去ると,老人はしょげた様子もなく辺りの草の説明を始めた。
その知識の豊富さと目の輝きに,私は驚きを隠せなかった。
彼の見ている世界は、私の見ているものとは違っているのだ。
私にとっては名もない野草が、彼の世界では宝石と同等の価値を持っている。
思ったことを述べると、薬売りは無邪気に笑った。
「あんた、これを魔術とは思わないかね」
そう言う薬売りの顔は、輝かしい誇りに満ちていた。
「何の変哲もない野の草が、人を救ったり、幸せにしたりする。それが薬草の魔術だと,私は思うとるよ」
魔術、とは言うほど簡単なものではない。
使って幸せになるから、それが魔術であるという定義は完全に間違っている。
だが、彼の幸せそうな笑顔を崩す権利は、私にはないように思えた。
あなたにとっては、そうなのかもしれない。
精一杯譲歩すると、老人は神妙に頷いた。
山道は、そこで二股になり、私と老人は短く挨拶をして分かれた。
薬売りは、魔術と宝石を携えて、誇り高く歩き去った。
5、花葬
見渡す限りの広野原。
かつてこの地で、大陸を二分する戦いが行われたとは思えないほど、何もない。
地平線まで荒れ果てた、空虚なその場所は、カデンザ平原と呼ばれている。
だが、この草地にはたった一つ,旅人が見ておくべきものがある。
誰が植えたのかも分からない。が、その茫漠とした草地の一角にだけ、ライラ草が群生しているという。百合によく似た白い花を咲かせる高山草で、本来平地には生えるはずもない。高地にもあまり密生することはなく,この平原のライラ草はかなり珍しいものだ。
私は夕暮れ時、その場所に向かった。
草原は夕日にあかあかと映え,さながら戦場の炎のようだった。鳥も獣も,いるのだろうが見当たらない。私と荒れ地だけの空間で,懸命にその場所を探す。
日が落ち,辺りが薄暗くなり始める。一番星が天上で瞬き始めた。
私は足を急がせる。
ふと、周りが明るくなったような気がして,私はその光の元を見上げた。
闇の中,金貨の月が、だんだんと輝きを増してゆく。
星たちは地上に落ち始め,やがて私の足下からいくつもの明かりが灯り始めた。
ライラの花は月の光を集め、自ら燐光を発する。
闇夜に点々と,無数に咲く小さな白い花。
それはまるで彷徨う魂のように、風と静かに戯れていた。
6、笑顔
雨は黒い森に絶え間なく降り続き、今日も宿から出られない。
安宿の食事はうまくなく、私は早々に部屋へと引きこもった。
退屈しのぎに、革表紙の本を広げる。
大切に扱ってきたはずなのに、そこここにシミや汚れが付いていた。
この本とともに歩いてきた、膨大な距離に思いを馳せながら、私はぱらぱらとページをめくった。
と、ページの間から、かすかな潮の香りが白い砂粒と共にこぼれ落ちた。
もう何ヶ月も海を見ていないことを、私はふと思い出す。
あの海岸沿いの、水の都に帰りたい。
馬鹿馬鹿しい。
突然出てきた郷愁を、私は頭から振り払おうとした。
もし都に戻れたとしても、すばらしい過去は二度と帰らないのだから。
けれど、もし、あのひとがまだ私を覚えていてくれたとしたら。
私に気づいて、懐かしげに笑いかけてくれたとしたら。
それだけでもいい、と思った。
ガラスに雨粒が滝のように流れ落ちていく。
その後ろに、うっそうと茂る樅の森が揺らめいていた。
私は本を膝に乗せたまま、窓の外をぼうっと見つめていた。
7、星空
満天の星空の下では、野宿さえ楽しいと言った人は誰だったか。
頭を一巡りさせ、思い当たった。
昔、一緒に旅した仲間の一人。
重そうな斧をぶら下げた、気のいい戦士はそう言った。
似合わない台詞だと皆で野次ったが、今思うと、彼はなかなかに詩人だった。
あの頃の仲間連中には、死んだ者も多いが、まだ生きている者もいる。
だがどっちにしろ、彼らは一つ所に住み着いて満足する輩でもなく、旅の空では連絡を取る術もない。
私を含めて、皆散り散りになってしまった。
けれど、私はまだここにいて、枯れ枝を火に放り込んでいる。
白い煙が昇るにつれて薄れゆくのを確かめるように、私は顔を空に向けた。
その先には、闇と、星々。
無数に散らばる白い小さな光の群れに交じり、たき火も陽気にぱちぱちと音を立ててはぜた。
満天の星空の下では、野宿さえ楽しい。
確かに、あの時は楽しかった気がする。
だが、楽しいのは、野宿ではなかった。
他の何か——他の誰かがいたからだということを、私は改めて思い知る。
それでも、空にはやはり、あの時と同じ満天の星が輝いていた。
8、翼
あるとき、私は翼を手に入れた。
それはどこにでも飛んでいける、魔法の翼だった。
空がバラ色に変わる夜明けに、金の満月に照らされる夜更けに、私はいつでも自由に舞い上がることができた。
上昇する風に乗り、遥か上から見下ろすと、民家の藁葺き屋根や古びた城、銀色に光る湖も全てポケットに収まりそうな大きさで、私はいつもそれをつまみ上げられる気がしたものだった。
あのときは、ただ大きな風に乗っているだけで、世界が全て私のためにあるような気がしていた。
いつからだろう、飛ぶだけで満ち足りた気分にならなくなったのは。
目的がなければ、私は飛ばなくなった。
もっとひどくなると、目的があろうとも、飛ぼうとも思わなくなった。
古代からたくさんの魔術師が、飛行の魔術に魅せられた。
そして、自らが弾となり、戦いの前線に赴いた。
カンテラに引きつけられた蛾は、恍惚のうちに焼け死ぬという。
飛行魔術に魅せられた彼らもまた、飛行魔術師の誇りを胸に多くが灰となり消えた。
私が飛ばなくなったのは、彼らを見て悲観したからではない。
私が飛ばなくなったのは、私こそがカンテラだったからだ。
小さな家々の屋根は、岩場にそびえ立つ古城は、さざ波の立つ湖は、あの飛行魔術師達の見た、最後の光景かもしれない。
翼をめったに使わなくなったのは、そう考え出してからである。
9、水の巫女
ククルチュア南西部の村で、真夜中の野外劇を見た。満月の夜に人々は湖に集まる。伝説の湖に浮かべた大船の上、物悲しい弦の音と共に「水の巫女」役の女性が舞う。
水の巫女に捧げるは
白く気高き蓮の花。
水底に舞う光集めて
金の冠を作りませう。
まだ水の巫女が水妖と呼ばれていなかった頃。
人と、水の巫女は互いに慈しみ、王は代々水の巫女のお告げを聞き、国を平和に治めていた。即位の儀式は、この湖で執り行われる。
満月の夜の湖上、王は冠とお告げをを授かるのだ。
だが、お告げに「なぜか」と問うてはならない。
その日、新王は慣し通り、この湖までやってきた。
満月の夜、現れた水の巫女は金の冠と共に告げた。
そなたの代で、国は滅びる、と。
王は戦の準備を整え、よい政を行った。
しかし、いつまでたっても戦は起こらない。
彼は、しばしば湖を訪ね、水の巫女のお告げを聞いた。
答えはいつも同じだった。
王は、ついにたまりかね、「なぜか」と尋ねてしまう。
その時、水の巫女は水妖となり、王を湖へと引き込んだ。
その後、王と共に水妖の姿を見た者はいない。
舞い終わった踊り子は優雅にお辞儀をし、聴衆は船縁を叩いて喝采した。
「あなた、知っている? お話の続きを」
隣の女性が、私に尋ねてきた。
黒目がちの瞳と、ふんわりと顔を覆う金の巻き毛。
ククルチュア特有の美人だった。
知らない、と私は答えた。
「水妖と王様は、手に手を取り合い、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」
大きな音を立てて、湖面に大輪の花が咲いた。花火は続けざまに打ち上がり、空と湖に完璧なシンメトリーを描き出す。
それに気を取られた、一瞬の間に。
私の隣にいたあの女性は、夜気に融けたかように消えていた。
鏡のような湖に、たった一つのさざ波を残して。
10、光
日の眩しい午後に、バルバの市場を訪れた。
バルバはバグナード随一の港町だけあって、どこへ行っても活気のある声と潮の香りに包まれている。街からは港に停泊している商船の帆柱が、まるで石柱のように並んでいるのが見え、私は思わず見上げてしまい、太陽の眩しさに目を細めた。
ここの光は、肌を焦がし、目に直接入ってくるようだ。
兄ちゃん、と声をかけられて振り向くと、黄色い屋根の粗末な屋台の中で、オリーブ色をした元気そうな女が右手にカニの足の串焼きを持ち、私を手招きしていた。
あんたのお国の味だよ、いいから一つ食べていきな、と女は強気に出た。
どうして私の出身国が分かったのかは知らないが、なし崩しに、まんまと一串買わされてしまった。
カニの串焼きは好きじゃない。
私はほとんど山育ちで、王都の水の都には数ヶ月ほどしかいなかった。
それでも、この名物は記憶に残っている。
カニの串焼きは好きじゃなかった。
ただ、城下街へ出ると、いつでもそれが焼ける香ばしい匂いが漂っていた。
そして、私の傍らには、カニの串焼きを食べ歩き、ところ構わず目に付いた酒場にふらっと入り、「ワイン!」と叫ぶ馬鹿がいた。
私はもう一度空を見上げた。
あのときは気付かなかったが、あの日々はこの太陽にも負けない鮮烈なる光だった。
あまりにも眩しすぎて、他のものが何一つ見えなくなるような。
そして、それが消えたあかつきには、他のもの全てが闇に沈んでしまうような。
そのまま串焼きを一口囓ってみると、ただ焼きました、というだけの乾いた味がした。
これはお国の味じゃない。そして、やはり私はカニの串焼きが好きじゃない。




