【一樹の陰 一河の流れも 多生の縁】
【 紅 】
いつも笑顔で明るいクラスの人気者。あたしに張られるレッテルは大抵それだった。あたしが座っているだけでクラスの大半は周囲に集まってきたし、登下校も一人でということなんて有り得ないことだった。
中学校に入学して、その傾向は弱まるかとも考えたけれど、それは甘い考えだったと、入学式の日に思い知らされた。あたしの何が、他人を引きつけるのかわからない。入学式当日から、あたしの周りには他人がいた。
「灯子さんって、訊いたことある! 有名だよね。」
「俺も友達から聞いたな。すごい明るくていい人だって。」
あたしは自分の周囲に集まってくれる人の名前を知らない。あたしの周りにいる他人はあたしを知っているのに、あたしにとっては誰一人として他人だった。
「そう? あたしそんなに有名かな。クラブもなにも入ってなかったんだけど」
否定もせず、肯定もしない。あたしの受け答えはいつも中途半端。それでも顔に張り付けた笑みは剥がれたことがないから、多分他人からしたら愛想良く見えているのだろう。
いつもいつも人に囲まれて、あたしはそれが鬱陶しく思うこともあった。偶には一人で登校して、一人で一日を過ごして、一人で帰りたいと思うことだってある。それなのに、周囲の他人がそれを許してはくれなかった。
そんなあたしだから、一人で机に向かう泉に興味を持ったのだ。泉は目立たない子だった。入学式当日からその目立たなさゆえに、あたしの目に入ってきた。羨ましい。泉への第一印象。入学式の翌日、あたしの席をちらりと盗み見していた泉を見て、あたしは無意識に声をかけていた。
「あたし、灯子。あなたは?」
「え……あ……」
泉は面食らったように口をぱくぱくしていた。なんだかその様子が可愛く見えて、あたしは不躾にも唐突に手を差し出した。
「よろしく!」
「あ、はい……」
これが、あたしと泉の初対面だった。
泉はあたしが想像していた以上に無口だった。あたしが投げた会話のボールを、泉は受け止めるだけで、投げ返して来ることは稀だった。あたしを拒否するようなことはなかったけれど、泉はあたしが声を掛けるたびに、どうして私なのとでも聞きたそうな顔であたしに着いてきてくれた。
中学生になって、半年ほど経った頃。あたしはいつものように他人からの誘いを断って、泉を下校に誘った。
「もう秋だねー。」
下校途中にある公園の前を通ると、そこに植えられた木々の葉がすっかり紅く色付いていた。はらはらと落ちてきている葉もある。春の桜みたいだなと思った。あたしは何となく歩みを止めた。それよりも二、三歩前で泉も止まる。
「ね、泉。」
あたしはふと、泉に訊いてみたくなったことを口にした。
「泉はどうしてあたしについてきてくれるの?」
風に吹かれた木から、紅葉がたくさんの落ち葉になる。紅色の葉を背景にして、無表情にあたしを見つめる泉は一つの絵画に入り込んでしまったように見えた。
「……から。」
「え?」
葉の擦れる音と、風の音でよく聞き取れない。あたしが聞き返すと、泉は少し躊躇うような顔をした。けれど、次に泉の口から聞こえた言葉は、これまでの泉の声の中であたしは最もはっきりと聞き取った。
「寂しそうに見えたから。」
思いもよらない答えにあたしは目を見開いた。常に何人かの人に囲まれているあたしが、常に一人で過ごしている泉の目には寂しそうに映っていたなんて。あたしが何も言わずに凝視していたせいか、泉は先ほどよりも躊躇の色を濃くして、あたしから目をそらしながら囁いた。
「灯子は一人でいることなんてほとんどないし、いつも太陽みたいに明るい笑顔で楽しそうにしてるんだけど、なんだか、あたしにはいつも独りでいるように見える。」
それから泉は、はらりと足元に落ちてきた一枚を拾い上げた。
「紅葉みたいだなって。」
再びあたしに向けられた泉の視線は、真っ直ぐにあたしの右肩に注がれている。あたしは思わず反射的にそこを抑える。ぐっと力を入れた指先の下で、去年の今頃に意図せず拾った傷痕が疼いていた。丁度一年前、交通事故で負った傷は、今でも紅葉よりも紅い血が流れているような錯覚を起こさせることがある。そのたびにあたしは自分の右肩を強く握っていた。あの事故を忘れないために、いつまでも自分の身体深くに刻まれているように。
そのことを泉は知っているのだろう。
「……なんか、まずいこと言った?」
泉は不安げにあたしの様子を窺っていた。いつもは雰囲気だけでそのときの気分を示す泉が、眉根を寄せている。あたしはなんだか嬉しくなって、ふっと肩の力を抜いた。
「ありがと! 泉!」
「え? あ、うん……。」
あたしは泉に駆け寄って、ぽんと右肩を叩いた。
自分がどうして泉に惹かれたのか、このとき初めて気が付いた。
【 命 】
病室の窓に切り取られた景色を見て、もう秋になるのか、と俺は目を細めた。ついこの間までは一面雪化粧を纏っていて、その次には薄紅色の欠片が舞っていて、その後に蝉の鳴き声が五月蠅かったことなんて、つい昨日のことのようだ。
車椅子に身を預けて病院内を散策するのは、いくらこの近郊で一番大きな病院とはいえ、ここに来て数か月も過ぎた頃には限界も見えた。車椅子だから辿り着けない、そんな常識だって覆してきた。人の手を借りて、機械の力を借りて、この病院は隅々まで制覇した。まだ行けていないのは他の入院患者の病室くらいのものだ。
「お兄ちゃん! またここにいたの?」
「泉。」
いくつもの病室が並ぶ廊下の一番奥。そこにある大きな窓からは、道路を挟んで向かいに並ぶ、病院の駐車場と公園が見えた。駐車場はともかく、綺麗に整備された公園の方は長い入院生活の中で一際映えていた。残念ながら寝起きする病室からは見えない。だから、この病院の中で一番眺めの良いこの場所を見つけた。
「お兄ちゃん、いつも同じ景色見て、よく飽きないね。」
十歳離れた妹の泉が、そう言いながら隣に並んだ。溜息でも突きそうな口調だが、泉だって病院に訪れるたびにここに来ている。兄妹そろっているところを顔見知りの看護師に見られて、何度笑われたことか。
はらはらと落ちていく紅葉を見つめて、ふと、泉に訊いてみたくなった。
「なあ、紅葉ってなんで落ちていくんだろうな。」
泉の顔を見たわけではないからはっきりとは言えないが、きっとポーカーフェイスをわずかに崩して、訝しげに兄の後頭部を探っているだろう。その中身を透かすような、泉特有の鋭いまなざしで。
「なんでって?」
「泉は、どう思う?」
答えを促すと、泉は素直に考え始めた。そして、多分一分ほどかかって、ようやく泉は答えを出した。
「役割を終わったからだと思う」
「役割?」
「うん。葉っぱって、二酸化炭素を吸って酸素を出してっていつも繰り返しているんでしょう? 理科の時間に習ったよ。毎日お休みもしないで働いているから、一年に一回疲れちゃうんだよ。だから落ちちゃうの。」
「……役割、か……。」
理科の知識に乏しいから、泉の答えが正しいのかなんてことは知らない。しかしその澱みない答えを聞いた瞬間、もう一つ、訊いてみたくなった。
「それならさ。」少しだけ、これはほんの少しの好奇心だ。
「もし、俺の役割は泉を助けることだったからって言って、紅葉が落ちるみたいに俺が死んだら、お前はどうする?」
我ながら意地悪な質問だと思う。少なくとも泉には酷な質問だ。入院生活で車椅子を使って、そんな兄にこんなことを訊かれたら、この賢い妹は何を応えてくれるだろう。
「私も死ぬよ。」
泉は、ひとつ前とは打って変わって、即座に答えを出した。思わず車椅子の上から後ろを振り返る。泉は真っ直ぐに、兄の目を見ていた。
「お兄ちゃんが紅葉なら、妹の私も紅葉だもん。秋にお兄ちゃんが落ちたら、私もそう遠くないうちに一緒に落ちる。」
あまりにきっぱりとした泉に。思わず絶句した。目の前の妹が、知らない人に見えた。こんなにも快闊に返答をしたということは、日ごろから考えてでもいたのだろうか。
「……行くか。」
「うん。」
自分で質問しておいて、何も次の言葉が浮かばなくなってしまった。慣れた手つきで泉は車椅子を押してくれる。しかし、車椅子の向きを変え、二、三歩歩き出しただけで泉は止まってしまった。どうしたのかと振り返れば、車椅子の影に座り込む泉がいる。小刻みに震えて、車椅子に縋っていた。
「俺は何が何でも生きなきゃいけないなぁ、泉。」
公園の紅葉は、いつまで眺めていられるだろう。
【 始 】
私は鏡の前に立ちながら、服に隠れた自分の肢体を想像していた。元来、血色が悪いせいか蒼白い肌に焼き付いた、深い業。
目をそらしてはいけないと、私がこの傷痕と一緒に心を決めた、あの日。
小学校に入学したばかりの私は、兄の背中に付いて回ってばかりだった。兄が行くと言ったところには、どこであろうと着いて行こうとしたし、そんな私を兄は全く拒もうとしなかった。兄の高校入学と、私の小学校入学は同時に行われたから、私と兄には十年分の壁があった。当時の私は、その十年を乗り越えようとでもしていたのかもしれない。
「おにいちゃん! いってらっしゃい!」
「いってきます。泉もちゃんと学校行くんだぞ?」
「うん!」
兄は隣町の高校に電車で通っていた。下宿の方が何かと不便もないのにそうしなかったのは、やはり私がいたからだ。朝、兄が学校へ行く前にいってらっしゃいと言おうと、私は毎朝必要以上に早起きだった。
それでも、兄が学校に行く日は、私も学校に行く日だったから、高校にまでついて行こうとはしなかった。しかし、学校には開校記念日というものがある。私の学校も例外なくそれがあった。もう秋も終わりが近づいてきた頃、私は朝に起きた瞬間、兄がすでに登校してしまったと気が付いた。休みだから起きてこない私をぎりぎりまで待ってくれてはいたが、電車の時間は私に合わせてはくれない。さらに、開校記念日がその学校だけの記念日で、その日は私の学校だけが休みだということも理解していなかったから、休みの日になぜ兄が出かけたのかわからなかった。
「おにいちゃんは……」
「もう学校に行ったわ。ほら、朝ご飯食べなさい。」
「……きょう、おやすみなのに……」
小さな脳をフル回転させて、私は休みの日に兄が学校へ行った理由を探した。きっと、兄は自分を嫌いになったから家には居たくないんだ。幼い私の結論はあまりに極端だった。それでも、そうだと勝手に確信した瞬間、私は一人で泣き出した。母がなだめてくれるのも聞かずに、おにいちゃん、とそればかり繰り返した。
「お兄ちゃんは夕方になったら帰ってくるから。ね? ほら、泣くんじゃないの。」
共働きだった両親は、隣に住むいとこの家に私を預けてしまった。仕事中に私を一人で家に置いておくわけにはいかないという配慮だったが、きっとそれは失敗だった。お留守番しててね、と一言提示されれば私は梃子でも家から動かない。留守番は親がいないときに家を守ることだと言い含められていた私がそこから出て行くことなど決してしなかっただろう。私が泣くことをやめて、大人しく三時のおやつを食べ終わると、母のいとこのおばさんはすっかり気を抜いていた。私が一人で遊んでいるのを見守りながら、おばさんはいつの間にか転寝を始めた。その機会を見逃す私ではなく、かくして私は一人、兄を追って玄関を飛び出した。
小学校に入学したばかりの子どもが、こんなに行動力があると誰が想像できただろう。私は兄がいつも行く駅に一人で向かい、更にどうやったのか今では覚えていないが、電車にも乗り込んだ。電車に揺られて、親切な女の人が私の降りる駅を示してくれた。私はそうして初めて兄が通う高校がある町についた。
「おにーいちゃーん!」
私は駅前で一声張った。勿論、兄を見つけて発したわけではないから返事は帰ってこない。それでも私はしゃんとして、まるで行軍中の兵士のように胸を張って歩いた。知らない町の知らない道を、兄を求めて彷徨った。しかし、私は兄がいる高校の場所など知らなかった。
当てはあるけれど行先のない状況で、ついに夕方になってしまった。烏が鳴く、急激に冷え込み、手が悴む。兄が帰宅する時間。私は寂しさと後悔でまた泣き出した。
「……泉?」
突然、どこからか兄の声がした。私が聴き間違えるはずがない。私がハッとして顔を上げると、車通りの疎らな道路の向こう側に、兄が驚いた顔をして立っていた。
「おにいちゃん!」
私は本当に、本当に嬉しくて、ただ兄のところへ行きたいとだけ考えて駆け出した。私は短距離走の自己ベストをここで出したと思う。
「泉! 来るな!」
兄はそう叫んだ。兄に嫌われたと思ってここまで来て、私はショックで道路の途中で立ち止まった。それがいけなかった。立ち止まった私に向かって、大きな、それ以外どんな車だったかは覚えていない、車が突っ込んできた。もし、そのまま私に激突していたら、きっと命はなかっただろう。ブレーキの音、車の硝子が割れる音、そして背中に、まるで茨の鞭に打ち据えられたような鋭い痛み。
目を開けると、ぐったりとした兄の顔。
私の記憶はそこで途切れている。再び記憶できるようになった頃には、私は病院の一室に運ばれていた。背中の大きな傷は、兄が私を庇ってくれた時、道路に散っていた硝子の破片が刺さった痕だ。私は服の上から、今はもうだいぶ薄くなってしまった傷痕を撫でた。傷痕を摩ると、あの時、兄の拒絶の言葉が聞こえる。あれはあくまで拒絶だったのだと自分に刷り込んで、私は鏡の前を後にした。
【 峡 】
病院は嫌いだ。白で覆われた病室は不自然な清潔感で溢れかえっているし、どの場所へ行っても親切な人がいて、何もしていないのに優しくされる。僕は何も不潔なところがいいというわけでも、不親切な人ばかりで他人に関心のない人ばかりがいいと言っているわけじゃない。病院というところの清潔感だとか親切心などというものは、僕には外見だけのものにしか感じない。実際、この建物ほど病原菌に侵された建物はないし、親切にしてくれる人の多くは看護師という職業の人だ。この建物の中でだけ有効な笑顔でもって接してくる人たちに、僕は溜息を吐いてやりたくなる。
僕がここに来てからもう二年経つ。交通事故で負った傷はすでに癒えているのに、僕は頑なにこの大嫌いな場所から動こうとしない。何かにつけて入院期間を延ばして、僕は退院するのを拒んでいた。大嫌いな病院と肩を並べるほど、いや、もしかしたら頭一つ分飛び出るほど嫌いなものが、僕にはある。その人物は、きっともうすぐ中庭にいる僕を探し当てるだろう。
「あ……ひかる、ここにいたの?」
「……。」
躊躇いがちに僕に声を掛けたのは、僕の姉だった女。過去形なのは、僕がこの女をもう血を分けた姉であるとは思っていないからだ。
「寒く……ない? 風邪ひくよ。部屋に戻ろう?」
まるで腫れ物に触る様に僕に話しかけてくる。そんなにおどおどとして話しかけるくらいなら、いっそのこと放っておけばいいのにと僕は心底苛立った。
「……五月蠅いな。一人で戻れよ。」
僕が一言言い放つと、沈黙させまいと話し続けていた女が黙った。学校では太陽のような笑顔の明るい人、などと思われているようだが、そんなもの、僕はみたことがない。
「……ご、ごめんね。それじゃあ、先に行くね。寒くならないうちに戻っておいでね。」
女はそう言って暖かい室内に戻っていった。僕は声が出そうなほど大きな溜息を吐いて、中庭に置かれたベンチに腰掛ける。女の言うように確かに寒い日だった。紅葉は終わりかけて、木は枝だけのみすぼらしい姿を晒している。
「綺麗だね。」
不意に、誰かが僕に声を掛けた。いつの間にか、僕が座っているベンチの横に車椅子に乗った男がいた。秋も終わりだと言うのに、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた男は、僕がぼんやり視界に入れていた終わりかけの紅葉を見上げている。
「……もう紅葉は散ってるよ。枝しか残ってない。」
丸裸にされた残りかすのような木のどこが綺麗なものかと、僕は吐き捨てるように言った。
「そうかな? もう少しだけ紅葉が残っているよ。まだ秋の中だ。」
男が言うように、確かに木の下の方にはまだ枝にしがみついている葉が残っている。けれどそれも夏にあった葉の量と比べて、僅かに十分の一にも満たない。
「あんなの、残っているうちに入らないよ。」
僕は紅葉から目をそらした。男が僕の方を見ているということには気付いている。
「さっき、君に話しかけていたのは、君のお姉さんかな。髪が短くて、背の低い人。」
「……そうだよ。」
車椅子に乗って、他の人より目線の低い男が他人を指して背が低いというなんて、なんだかちぐはぐだ。
「君を心配してくれていたね。いいお姉さんだ。」
「……。」
僕はもう、この男と会話することが嫌になっていた。あの女を褒めるような男なんかと、一緒にいたくはない。僕は舌打ちでもしそうな勢いで立ち上がった。
「あ、部屋に戻るのかい? 俺も戻りたいんだ。悪いけど、車椅子を押してくれるかな?」
男はすまなそうにそう言った。
「そんなの、他の奴に頼めよ。」
看護師ならそのへんにいるだろう。別に僕を頼らずともこの男は移動できる。そう思って言ったのに、男は頑なに言い張った。
「他の人は忙しそうじゃないか。君は病室に行くんだし、俺の病室は君の病室に近いから迷惑はかけないよ。」
「……なんで知ってるんだよ。」
僕はしばらく男を睨みつけていたが、男は微笑んでいるだけだった。暖簾に腕押し、これ以上は意味がないとわかって、俺は男の後ろに回って車椅子を押した。
「ありがとう。」
緩やかな段差で力を込めて、僕は男と病院内に戻った。僕が車椅子を押している間、男はずっと僕に話しかけた。
「あ、あの病室の子ども、また泣いてるんだね。あの子はいつも泣いてばかりいるんだ。」
「ふーん。」
それに対して特別な反応は返さないのに、男は性懲りもなく話しかける。やっとエレベータホールまで辿り着いた。
「今、少し時間もらえるかな。」
「は?」
「ちょっと寄り道していこうか。」
男は勝手にそう言うと、ちょうど着いたエレベータに自分で乗り込んで、僕の病室とは違う階のボタンを押した。
「どこ行くんだよ。」
「着いてからのお楽しみ。」
エレベータは気持ちの悪い感覚を起こさせながら、ぐんぐんと昇った。三階、四階、五階、そしてついに最上階まで辿り着くと、ようやく扉が開いた。
「さ、降りて。」
男に言われるがまま、僕は車椅子を押す。どうしてこんな見ず知らずの男に付き合ってこんなことをしているのか、僕が一番驚いていた。最上階は他の階とそう大きな違いはなく、病室が並んでいるだけだった。僕が来たのは初めてだったけど、そんな印象を持たないほど他との違いが見られない。それなのに、男は楽しげに道案内をしている。右、左、真っ直ぐ。僕はその通りに車椅子を押した。
「ここだ。」
一番奥まで来た時に、男はやっと車椅子を止めるように指示を出した。そこは自動販売機が置かれ、椅子なども置かれて、簡単な談話室のように作られた空間だった。
「ほら、見てごらん。」
男はそこの大きな窓を指差した。僕は眉根を寄せて、その窓から下を覗き込んだ。
「わぁ……」
そこには、思わず感嘆の声を上げるほど見事な紅葉の群生があった。病院の真向かいが森林公園になっていることは知っていた。今、僕はその森林公園を上から見下ろしている。公園の木は、さっき見た病院の中庭の木と違って、まだ多くの紅葉を抱えている。赤に朱色、黄色、色とりどりの紅葉は驚くほど綺麗で眩しかった。
「どうだい? ここは俺のお気に入りの場所なんだ。綺麗だろう」
「うん、綺麗……」
僕は思わず正直にそう言った。紅葉を眼下に、僕は窓に張り付くように見下ろしている。
「その景色、ぜひ君のお姉さんにも見せてあげてほしいな。」
「……。」
僕は高揚していた気持ちが急に冷めていったのに気付いた。この男になにがわかるのかという思いが湧いてくる。窓に張り付いていた両手をはがして、僕は一言言ってやろうと後ろを振り返った。
「……あれ……?」
そこに車椅子の男はいなかった。いつの間にいなくなったのか、僕は全く気付かずにいたのだ。
「くそ……どこに行ったんだ……」
僕が唇を噛んで床を蹴ると、男がいた場所に一枚の紅葉が落ちているのに気が付いた。真っ赤に染まった紅葉が一枚、ぽつんと忘れ去られたように落ちている。中庭から僕か男が持ってきてしまったのだろうか。それとも
【 花 】
小さな花束を抱えた一人の少女が病院に入っていった。季節は冬になろうとしている。紅葉も終わり、すっかり殺風景になった町、白を基調とした内装の病院には、少女が持つ花束がよく映えた。
少女は慣れた所作でエレベータに乗り込むと、四階のボタンを押そうとしてぴたりと止まった。
「兄さんなら、病室じゃなくてあそこかしら。」
一人、そう言うと、少女は一端止めた指をずらして、六階のボタンを押した。緩やかに扉が閉まると、エレベータは少女一人を乗せて上昇していく。重力に逆らうが故が、少女が抱える花束は少しだけ揺れていた。
六階に着くと、少女は凛と背筋を伸ばしてエレベータを降りた。入れ替わりでエレベータに乗った二人の患者が、少女の持つ花束を見て振り返る。首を傾げるような動作をしていたが、真っ直ぐ目的地を見つめる少女の目には入っていなかった。
「あら、こんにちは。泉ちゃん。」
「こんにちは、看護師さん。あの、兄は」
少女とすれ違った中年の看護師が、少女に声を掛けた。少女が躊躇いがちに聞こうとすると、看護師はそれを察したのか優しく微笑んで答えてくれた。
「海斗さんなら、さっき見た時にはあの場所にいましたよ。本当にあそこが好きなんですねぇ。」
「そうですか。どうもありがとう。」
少女は軽く会釈をして、看護師とすれ違った。もう何十回も通った通路を、一つひとつ見つめながら歩く。なんだか新鮮な心持がするのは、この花束があるせいだろうか。少女は兄の顔を想像しながら、一人で笑った。
看護師に言われた通り、その場所には見慣れた後姿があった。その場所は、この大きな病院の最上階、一番奥にある場所。自動販売機と座り心地の良さそうなソファーが並んだ談話室。そこの大きな窓の前で、男が車椅子に乗っていた。
「やっぱり、ここにいたのね。兄さん。」
「泉!」
少女が声を掛けると、男は弾かれたように振り返った。どうやら、いつものように窓の前にはいたが、窓の外を眺めていたのではないらしい。もういい大人だというのに、まるで悪戯を発見された子供のような驚きの表情が面白かった。
「兄さんなら、絶対に自分の部屋じゃなくてここだろうって思って。私、兄さんの病室に行かないで真っ直ぐここに来たわ。そんなにここが好きなら、いっそここを兄さんの病室にしてもらえばいいのに。」
少女が冗談めかしてそう言うと、男は笑いながら「なるほど。その手があったか。」と手を叩いた。
「それなら、診察のたびに看護師さんは俺を探して彷徨うこともないもんな。最初からここに来ればいいんだから。」
「診察の時間の前にもここに来ているの?」
「俺はいつだって関係なくここにいるよ。」
あまり威張れたことではないのだが、男はどうだと言わんばかりに得意げにそう言った。
「威張れたことじゃないわ。さっきも、すれ違った看護師さんに、兄さんはいつもの場所にいますよって笑われたんだから。」
少女が口を尖らせて先ほどのことを報告すると、男は他人事のように大きく笑った。
「笑い事じゃないわ。」
「悪い悪い。今度から診察時間の前はちゃんと本当の病室にいるようにするよ。」
そういう問題じゃないでしょ。少女が呆れてそう言うと、男は少女が持っていた花束に目を止めた。一輪が大きな花は、たった四本でも十分に華やかに見える。
「どうしたんだ? その花束。」
「ああ、これ。」
少女は兄にそっくりの得意げな顔になって、花束を目立つように目の前に持った。
「ダリアの花よ。夏の花なんだけど、花屋に行ったらこの四本だけ残っていて、だからこれで花束にしてもらったの。綺麗でしょう。」
「綺麗だけど、なんでダリアなんだ?」
男はダリアなどという花は一度しか見たことがなかった。訳を尋ねると、少女は愛しむように花束に視線を落として話した。
「ダリアってね、別名を天竺牡丹って言うんだって。天竺って、インドのことでしょう? 仏教とかもインドから始まったんだもんね。お兄ちゃん知ってる? 仏教では輪廻転生っていって、死んだら他の生き物に生まれ変わるの。」
少女はここで、少し恥ずかしそうにはにかんだ。大きく咲いた天竺牡丹の花束を兄に差し出す。
「だから、もし生まれ変わっても、また……その、兄さんに会えたらいいなって。……お誕生日、おめでとう、兄さん。」
「……ありがとう。」
男はお礼を言って、嬉しそうに花束を受け取った。妹からの花束を一通り眺めて、花束を大事に抱えた。
「もしかしたら、そういう意味なのかもな。」
「なにが?」
男が笑いながらそう言うと、少女は首を傾げた。男は自分の車椅子の後ろを指差す。少女が後ろを覗き込むと、そこには少女と同じ、ダリアの花が一輪置かれていた。
終
大学の文芸部で書いたもの、4作目です。
文芸部では毎回テーマを決めてそれに沿って書いています。
この作品は学校祭の特別号だったので、5つのテーマがありました。
それぞれのテーマで短編を書きました。
テーマや作品の背景、執筆の裏話(?)などは活動報告に掲載しておりますので、よろしければご覧ください。