約束と龍の花
一匹の猫が長い長い約束の旅をして、この森にたどり着きました。猫はここに住みついてたくさんの友だちをつくりました。
あるとき、いつもキレイな花をみんなに見せる猫の友だちがいいました。
みんなに喜んでもらえるのはとてもうれしいけれど、私も一度、みんなが見ている花を見てみたいわ……。
それを聞いた友だちたちは声を合わせていいました。
だったら、私たちが、次にあなたがここに来る時までその花を残しておくわ、と。
彼女はとても喜び、やがて友だちに別れを告げました。友だちは彼女との別れをとても悲しみました。
それはずっと昔に交わされた約束。
どれくらい昔かって?
それは気が遠くなるくらい。おばあちゃんのおばあちゃん、そのまたおばあちゃんよりも前のできごと。
でも大切な友だちとした大事な約束。
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深い深い森の奥をこえていくと、一本の太くて立派な石の柱がありました。
そこへクルクルと大きな樹が巻きつくように空へ向かって生えているのです。樹のてっぺんにはこれまた大きな花のつぼみがウトウトするように眠そうに頭を下げておりました。
森に昔からある大きな樹。
一年に一度だけ大きな花が咲くのです。
猫の子は寝床から起きると朝陽に目をこすりながら、伸びをして、大きな桶を担いで近くの水場にでかけます。
まだ朝がはやいので誰も水場にはやってきていません。猫は顔を洗って水を飲み、今度は持ってきた大きな桶に水をいれて「よいしょ」とかつぎました。
小さな猫からしたら、桶はとても大きな桶でした。後ろからみたらその大きさで猫がぜんぶ隠れてしまうほど。
でも慣れたもので、おもい水もへっちゃらです。水をかついだまま、大きな樹のところまで歩いて、水をあげに行くのです。
森に住むたくさんの猫のなかから、一匹だけ、樹のお世話をする猫が選ばれます。
選ばれた猫は「樹の猫」と呼ばれました。樹の猫は、代々黒猫と決まっていたので、当然この子も真っ黒な立派な黒猫です。猫の仕事はこの大きな樹に、毎日水をあげること。
大きな樹のあるところは水場からは遠いので、何日か水を上げないと樹はげっそり、葉っぱはぐったりしてしまうのです。
猫の子は樹の根本に桶の半分ほどの水をまくと、残りをかついで今度は樹をトコトコのぼり始めました。
残りの水は上からかけてあげるのです。
クルクル巻きつく樹の幹はとても太いので、猫は坂道でも歩くようにのぼっていきます。
景色がどんどん高くなって、まわりの森の樹が下に見え、遠くの山が見渡せるほど。
大きな樹の大きな花は、生えている所がとても険しくて、水もありません。
だからむかしの動物たちはみんなで樹のお世話をすることにしたのです。
何年も何年もお世話をして、やがて、お世話をしていた最初の子たちがおじいちゃんやおばあちゃんになって動けなくなると、今度はその子どもの子ども、孫の孫も運んだのでした。
そのおかげで、こんなに険しい場所でも大きな樹の花は毎年大きく咲きました。
けれど、この花を見せたい大切な友だちがあらわれることはありませんでした。
この花を見にくる子のことをお母さんが子に伝え、子が子に伝えていたこともだんだんに忘れられて、今ではいったいどんな子がこの花を見にくるのかもわかりません。
誰かが、ここに見に来るなんてことがあるのかしら? あるとき、猫と一緒に水を上げていた「樹の犬」は思いました。
この森そのものがとても険しい山に囲まれていて、外から訪ねてくる子なんて、大昔に来た黒い旅猫しかいないのです。
ふつうの子が来られるはずないわ。
少し理屈っぽい樹の犬は、少しずつ水運びから足が遠のいていきました。
犬の足が遠のいたのと同じくらいのとき、食いしん坊の「樹の羊」は樹のまわりに生えている雑草をていねいに食べながらふと思いました。
約束した本人だって、そんな昔の約束、忘れてしまっているんじゃないかしら?
だって、もう何年も、何十年も昔の話なのですから。
羊はそう思うと、少しずつ樹のそばの雑草より、たくさん草があって日当たりのいい広場の方へ、仲良しの「樹の牛」と出かけるようになっていきました。
本当に、そんな約束があったのかもあやしいもの。そのお話って本当なのかしら?
みんながこう思い始めたころ、「樹の係」に選ばれたうさぎも馬も、トラも、イノシシもネズミもサルも、水を運んだり、草を取ったりして樹のお世話をするのをサボるようになっていったのです。
だって、もう何年も何年も花が咲いているのに、咲いた花を見るのはここにいる動物たちだけなのですから。
今では、毎日運んでいるのは樹の猫だけ。猫の子はコロコロと転がって落ちてしまいそうなクルクルと巻きつく幹のうえで鼻歌を歌いながらトコトコとのぼります。
どうやら猫はとても呑気な猫のようです。
「おや、今日もせいが出るね」
「あっ、ヘビさんおはようございます。そんなところで寝て大丈夫ですか?」
枝に干されたようにぶらさがる白ヘビが猫の子に声をかけました。ヘビは赤い舌を出したり引っ込めたりしながらゆっくりとした動きで言いました。
「もう少し陽が出てくれないと、あたしは動きが悪いんだ」
ヘビはこの樹や樹の葉っぱに虫がついたり、病気になったりしないかと見張るために昔から樹に住んでいる賢い「樹のヘビ」です。ヘビは樹の猫たちよりも長く樹にいる、樹の先輩なのでした。
「毎日水を運んできてくれるのはお前さんだけになったね。この仕事も、お前さんの代で終わりになるかもしれないね」
ヘビは「よいしょ」と声をかけながら、日向に出ると体を温めながら言いました。
「どうして? 私、ちゃんと水をあげに来るし、子どもができたらその子にもちゃんと教えるわ」
猫の子は「えっへん」胸を張って言いました。けれど、賢い白ヘビは首を振ります。
「最近、樹の葉の元気がないんだ。幹も潤いをなくしている。何より花のつぼみがあんなに下を向いてしまっているだろう」
猫はつぼみを見上げます。ヘビの言う通り、つぼみは大きくふくらんではいますが、しょんぼりして肩を落としたときのように下を向いていました。
「お水が足りないのでしょうか?」
「いや、もしかしたらこの樹はもう寿命なのかもしれない」
「じゅみょう?」
猫は首をかしげます。猫の子は「じゅみょう」が何なのかわからなかったのです。
「つまり、もうすぐこの樹が死んでしまうということさ」
「ええっ!?」
ヘビの言葉に猫は驚きました。
驚きのあまり飛び上がり危うくかついでいた水をこぼしそうになりました。
「じゅ、寿命って、この樹が死んじゃうってことなんですか?」
「うむ、おそらくな」
「ええ!?」
ヘビにもう一度言われて猫はまた驚きました。あまりに驚いたので、今度は少し水をこぼしてしまいました。
猫はそれから少しあいだ何も考えられませんでした。ヘビに「だからあまり無理しないようにな」と言われましたが、猫は気が気ではありません。
ふらふらとてっぺんまで登り、チョロチョロと水をあげると、ハッとして今度はものすごい勢いで樹を駆け下りて行きました。
猫は急いで水場にかけて行き、水を汲んで、もう一度樹にあげることにしたのです。
「どうしようどうしよう!」
猫の頭の中はグルグルしました。
もしかしたら、いままで水が足りなかったから、大きな樹が弱ってしまったのかもしれない。と猫は思いました。
もっとまえからたくさん水をあげていればよかった、と後悔しました。
猫の子は「寿命」の意味がよくわかっていなかったようです。
猫の子はその日からたくさん水を運ぶことしました。
もちろん、「樹の係」のみんなを集めて、ヘビに聞いたことを話しました。
「樹が死んじゃうかもしれないんだって!」
猫は必死です。すると「だったら、もう水をあげなくてもいいんだね」と、樹の馬が言い、樹のサルや樹の鳥たちも「そうだね」とうなずきました。
馬はおもい思いをしてたくさんの水を運んでいました。本当はおもい水を運ぶより、散歩をしたり、風のように走り回ったり、遠くへ出かけたりしたいと思っていたのです。
けれど樹の馬だったら、樹のことがあるので遠くへ出かけるわけにもいきません。
樹のサルは樹が荒らされないように、身軽に樹に登っては、ヘビの手伝いをしていたのです。本当は何度も登った樹よりも、もっといろいろなところに探検にいきたいと思っていました。
けれど樹のサルだったら、樹のことがあるので探検にいくわけにはいきません。
樹の鳥は空から樹を見守って過ごしていました。平和なこの森で唯一の警備員は毎日退屈していたのです。本当は、樹よりも森に出かけておいしい木の実を探したいと思っていたのです。
けれど、樹の鳥だったら、樹のそばを長く離れるわけにはいきません。
樹がなくなったら、みんな好きなことができるのです。
こうして、みんなはますます水をあげるのをサボるようになってしまいました。
そんななか、猫は一匹になっても水をあげ続けました。
朝起きて、水をあげ、樹のまわりの草をとり、樹による虫を追い払いました。
でも、樹は元気にはなりません。
それどころか、みんなが猫に隠れて猫のことを悪く言うようになりました。
『あんなに頑張ってもしょうがないのに』
『もうダメなことが猫さんにはわからないんだね』
『早くあきらめればいいのに』
と。猫は耳をふさぎながら、毎日樹のところへ出かけていきました。
ある時、見かねた樹のトラが猫に言いました。
「猫さん、そんなに頑張っても、この樹は枯れてしまうのよ?」
すると猫は「でも、まだつぼみがあるわ。きっと花が咲くはずよ!」と言います。
「いくら花が咲いたって、見に来るやつなんかいないんだぞ。オイラのばあちゃんのときもこなかった」
樹のイノシシも言いました。
「で、でも、今年は来るかもしれないわ! あの花を楽しみにしている子がここに来るかもしれないもの!」
猫は負けじと言いかえし、それから静かにこう尋ねました。
「みんなはあの花が咲かなくなってもいいの? みんなだって、毎年咲くのを楽しみにしているでしょう?」
「「……」」
「樹の係」たちはみんな黙りこみました。
ですが、そう言った猫も何だか自信がなくなり、肩を落としてうつむきます。
だって、水をあげても草を抜いても、虫がつかないようにしてもやっぱり樹は元気にならないのですから。
猫はヘビの言ったことを思い出し、ヘニャリと元気をなくして一匹でとぼとぼ寝床に帰るとパタンとたおれてしまいました。
どうして、樹は元気にならないの?
水が足らなかったから?
雑草がたくさん生えたから?
虫がよって来たから?
どうして毎年咲いていた花を誰も見にきてくれないの?
約束を忘れてしまったから?
もう昔のことだから?
だから花はもう咲かなくていいの?
猫は寝床で星空を見上げながら考えました。
みんなの言うこともわかります。
誰も見にきてくれない花をお世話しても、誰も喜んではくれないのですから。
お世話は面倒くさくて、おもくて、つらくて、毎日あって、それでもそれは当たり前で……。
月を見ながら寝床で考えました。考えて考えて、眠れないほど考えて、やがて疲れて果てて夢の中で考え込みました。
次の日、猫は「樹の猫」になってから初めて樹に水をあげいくのを休みました。
その次の日も、また次の日も、猫はヘニャリとしたまま寝床に伏せたままでした。
もしかしたら、みんなの言うとおりかもしれない。猫はそう思い始めていたのです。
猫が水をあげなくなって一種間ほど経った頃、森に大きな大きな嵐が迫っていました。
猫は閉じこもったままの寝床で、風と雨が窓を叩く音で起きました。窓から外を見ると、大きな動物みたいに唸る風と滝の中にいるような雨だったのです。
「……こんなに雨が降るなんて」
と、猫はボンヤリ思いました。
この森はとても穏やかな場所で雨どころか、風もそんなに吹いたりしません。
嵐が来ることだって何百年ぶりのことでした。
「こんなに強い風が吹く……あっ!」
猫は思わず寝床を跳ね起き、外へと飛び出しました。
飛び出すとあまりの風に押しかえされて、猫は一度寝床の中にコロコロ転がりながら戻らなければなりませんでした。
すごい風! こんな風が吹いたら!
樹は!? 元気のないつぼみは!?
猫は雨に濡れながら、風に逆らって走りました。大きな樹のもとへ。
雨はどんどん強く、風もどんどん強くなっていきます。
猫は何度も飛ばされそうになりながらも、大きな樹を急いでのぼっていきました。
「猫、どうしたんだい、こんな時に!?」
白ヘビが驚いた顔して言いました。
「ヘビさん、こんな風が吹いたら、つぼみが飛ばされちゃう!」
「バカなことを言うな。花よりもお前が飛ばされてしまうよ、これよりも上に行ってはいけないよ!」
ヘビの言葉は走っていく猫には聞こえていませんでした。猫はずぶ濡れになりながら樹を駆け上がります。
し、下よりも上の風はもっと強い!
猫はしっかりと爪を出して風に飛ばされないようにしていなければなりません。
「ああ!」
つぼみは大きく揺られながら、まだ風に飛ばされることもなく残っていました。ですが、大きく揺られて、今にももげて飛んでいってしまいそう。
「わわっ! ダメ! がんばって!」
猫はつぼみが風に揺れないように必死に両手で押さえました。けれど、猫の子よりもずっと大きなつぼみは、小さな猫の手で押さえたくらいでは揺れを止めることができません。
「がんばって! 飛んで行かないで!」
猫は必死にお願いしました。
樹に、つぼみに、風に、雨に、何でもいいから猫は必死にお願いして、嵐の中でつぼみを抱きながら叫びました。
「大切なお花なの! このお花を楽しみにしている子がいるの!」
すると、不思議とつぼみの揺れが小さくなったではありませんか。
風も雨も、弱くなったわけでもないのに。
「あっ……」
見ると樹の犬がつぼみをおさえるのを手伝っていたのです。
「気になってきちゃった」
ずぶ濡れの犬は照れたように言いました。
「もっと、そっちによってくれない? 私達の方が風よけになるわ」
樹の牛と樹の羊が、樹の馬と一緒につぼみのまわりに立ちました。
「回り込んで、そっち押さえて!」
「わかっているよ!」
樹のサルと樹のうさぎが猫の体を、樹のねずみと樹のイノシシが犬の体を押えます。
「みんな!」
「しっかりしないとお前さんが飛ばされるぞ! がんばるんだ!」
ここまでやってきた樹のヘビが、つぼみの付け根に巻きついておさえながら言いました。そのヘビをさらに樹のねずみと樹の鳥がおさえます。
そして一番力の強い樹のトラがつぼみを抱え込むように抱きました。
「このつぼみ、もう少しで咲きそうじゃないか?」
雨と風に声をかき消されながら、言ったトラの言葉にみんな顔を上げました。
「もう、そんな時期だったのね」
風に吹かれて必死に立つ馬が言うと「この花、綺麗なんだよな」とサルがこたえました。
大きなつぼみが大きく開いて咲いた花がとても綺麗なことは、小さな頃からみんな知っていました。
誰も見に来なくても、この花は誰かに自慢したいみんなの花なのでした。
「がんばれ、がんばれ! どこにもいかないで!」
樹のみんなはつぼみを抱え、ひたすらじっと耐えて、祈って、応援しました。
「あ、雨が……」
やがて激しい雨と風の中がおとなしくなっていくと、あつい雲がゆっくりと割れ、空から光が差し込みました。
「えっ!?」
空を見上げた猫達の目は思わずくぎ付けになりました。だって、雲の割れ間から大きな大きな碧色をした龍がゆっくりと降りてきたのです。
「……あ、あれ」
大きな大きな龍のその頭には大きな大きな花のつぼみ。
大きな碧色の龍はずぶ濡れの猫達を見て、申し訳なさそうに、けれど嬉しそうににっこりと笑い言いました。
「……とても綺麗な花ね」
猫たちは龍に言われて初めて気がつきました。猫達が守ったつぼみがいつの間にか大きく花を咲かせていたのです。
「あなたが、もしかして、約束の?」
「ええ」
「ようこそ! あなたが来るのを待っていたの」
猫の言葉に龍はとても喜ぶと、龍の頭にあるつぼみが開き、見事な花を咲かせたのでした。
その花は猫たちの花と同じ花。
しかし龍は自分の頭のうえにある美しい花を見ることはできませんでした。
だから龍が生まれ変わる何百年もの間、龍の友だちは龍にその花を見せるために、この花を守ると約束したのです。この花を見に来る子はこの龍だったのです。
龍はみんなにお礼を言おうと思いました。
約束を覚えていてくれたこと、花を見せてくれたこと……そして、みんながここにいてくれたこと。
龍がそう口にしようとすると、猫の子は両手を広げて言いました。
「ありがとう龍さん!」
樹の係のみんなは猫を見ました。猫は言いました。
「花を見に来てくれて! あのね、この花、私達の自慢の花なの、ずっと誰かに見てほしかったの」
そう言って猫は濡れたまま胸を張りました。「私達の」その言葉に「樹の係」は頭を掻きながら、それぞれ誇らしげに胸を張りました。
「ええ」
龍は微笑みながら、猫たちの花に顔を近づけその香りを楽しみ、猫たちは龍の花に顔をあげ、その香りを楽しんだのでした。