苔の生すまで
当初構想のあらすじ通りにはいきませんでしたが、むしろこの形が良かったと思います。ライトノベルというには、まだ硬いと友人にも言われましたが、とてもよい経験ができました。
斎木梛 鼎はまるで長い長い眠りから目を覚ましたように戻ってきました。今までのことは、ときに少女、ときに乙女、ときに幼女だった頃の夢を見ていたかのようでした。そのどんなときでも傍にいた周は傷だらけの心を隠し通そうとしていました。
「あまねーーたすけ、て」
ああして声に出して助けを求めたのは、いつ以来でしたでしょう。自転車で遠出した先の古い洋館に迷い込んだ思い出がありました。優しい老婦人に美味しいケーキをごちそうになっている間に迎えに来てくれたのは父 文武でした。周は足を怪我して横になっていて、そのとき鼎は、なにがあったのかも考えないで薄情と思ってしまっていました。ほんとうは探しまわっていて、危険な場所で傷を負ったことが今になってやっと分かったのです。
「ありがとう、周」
「おかえり、鼎」
「……うん」
「ゆっくり話をしたい、顔を見ていたいけど」
「分かってる。聞いてたから。でも、いいの?」
あの日足を怪我していたのだって、誰とも知らないなりかけの怨霊に騙されたからでした。小さな頃から外に出ないで屋敷の中でひっそりとしていたのだって、彼らを際限なく受け入れてしまう生まれつきのせいでしょう。結い合えば、文武も望んでいた平穏な一生は送れなくなるのに。
「いいんだ。みんなで一緒に帰るためだから」
「そう、だね。わかった。はー……初めての対手が大神だなんてハードル高すぎ。でもね、あたし今ならなんだってできちゃいそうなんだ」
「僕もだよ。なんだってできそうな気がする。鼎と一緒なら」
「もおっ、周のそういう正直すぎるとこってーー」
ほんっと大嫌いだったのに。
周と鼎は静かに手を取り合います。それは幼い頃の二人だけに手遊び歌として教え込まれていたものです。目をつむっていても、相手に肉体がなくてもできるようになっています。その手の動きは印、その不思議な節回しは呪の言祝ぎ……そして、二つの霊魂は結ばれました。この繋がりを断つことはもう誰にもできません。斎木梛家が司る御霊送りの儀式が分かつまで。
結い合った二人の霊力は文武や岐山、旧宮家、四方家の誰にとっても驚くほどでした。広く、大きく、深い。どんなものでも容れてしまえるような器です。その中は鼎の快活さと周の切なさが感じられるでしょう。思い出深い現世とはもはや関われなくなってしまった霊魂の者たちに好まれそうな気配です。
鳥居をくぐって大神の目前に姿を現すと、前触れなく登場した特異な霊力の持ち主を感じた尾裂狐と大天狗は平伏の姿勢を解いていました。尾裂狐は三本の尾を逆上げて、大天狗は長い鼻を反り返らせて威嚇を示します。周と鼎の力は頂点に近い霊獣の彼らさえ警戒させずにはいられないほどのようでした。しかし、大神が小さく口を鳴らすと狐も狗も元の平伏の姿勢に戻ります。周と鼎にはその口鳴りが、
「控えていなさい」と聞こえました。
「大神よ、私たちの声は聞こえていますか」
ええ、聞こえています。無事に妹の魂を取り戻せたこと、お祝いしましょう。先ほどは驚かせてしまいましたね。それにしても、こんなに下った時代の皇孫でもない人間が私の声を受け止めて、送ることまでできるとは少々驚きました。汚れないこんなに澄んだ霊気は久しぶりです。でもどうしてでしょう、どこか悲しみの色合いが感じられますね。
「ありがとうございます。大神よ、あなたは私たちの父をどうなさるおつもりでしょうか」
あの者はすべて承知の上で印を違えました。約し事に則って肉と霊と魂を持ち去りましょう。
「どうしてもそうなさるおつもりでしょうか」
あなたたちの気持ちは分かります。あの者も好んで過ちを冒したのではないようでしたし、心底あなたたち二人を想ってのことでした。その気持ちに免じて、せめてこの狐と狗の供物とされる前に降り立ったのです。
「では、代わりのもので満たされませんでしょうか」
あなたが身代わりを望むのでしょうか。あなたはあなたの父が犠牲になろうとするのを嫌ったから、今こうして願っているのではないのですか。
「すべて一人で身代わって置いていかれるのは嫌です。でも、一人ずつが少しずつを持ち合って生きてゆけるなら、そうしたいと思っています」
よくわかりました。あなたの願いを聞き入れましょう。ですが、誰の肉、誰の霊、誰の魂を持ってゆくかは私が選びます。よいですね。
「わかりました。そのように申し伝えます」
幾日かは家族揃ってお過ごしなさい。かけがえのない日々となるでしょう。どうか大切に。
「大神もどうかご壮健で。願わくば、いつまでもこの御世をお見守りください」
微笑んだ大神(私)の化身は一吠えして天空に還りました。後には大きく息を吐いた人々の姿があります。
「父さん、帰りましょう」
「……帰れる、のか」
「帰ろうよ。母さんも待ってるよ。お爺ちゃんもお父さんも周も私もいないから、きっと家の中は大変なことになってるよ」
「ああ……そうだね。早く帰ろう。四方家の方々、そして**さま。今日はもうこういうことですので、話はいつかまた日を改めといたしましょう」
文武は彼らの返事を聞かずに鳥居、神域を出て、周と鼎のところまで歩んでいきます。勝手に捨てようと命を拾ってくれた子供たちへの感謝に満ちて。もうあと数歩。そしてきっと抱き合うでしょうか。
百舌が狙っていたとしたら、正にこの瞬間でしたでしょう。その黒い巨鳥の形を象ったそれは、やはりやってきました。文武の頭上から、鉄筋さえ裂いてしまいそうな嘴を差し向けて急降下してきたのです。周と鼎、そして文武さえもが油断していました。いえ、お互いを誰よりなにより大切と思っている気持ちが、いつも以上に高ぶっているのです。ここで他の何かに気を回せるはずがないではありませんか。
満を持したその奇襲は、しかし四方家の操る式神と尾裂狐と大天狗によって阻まれていました。哀れ、百舌は押さえつけられてもう身動き一つとれません。
「く。くっくく。やはり駄目か」
「百舌……」
「なぜ儂がこうまでしてお前を狙うか分かるか、文武」
「……分かるさ。鎮めようと思えば鎮められた霊を力ずくで払ってしまった過ちだ」
「そうだ。儂だけではない。お前に払われたもの皆お前を怨んでおる、憎んでおる。儂はそのうちのただの一つだ。くく。くくくくく」
百舌はまだなにか言葉を継いでいきたそうにしていましたが、すぐ目の前に膝を着いた周に目を奪われました。怯える子犬に手をやるように優しく触れて、こう言うのです。
「鎮まり給え」
「くく。馬鹿め、儂はお前の妹の仇だぞ。怨み憎みを抱いて鎮められるはずがーー」
百舌の言う通り、ふつうは上手くいくはずがないのです。でも、手で触れられたところから注がれる、周と鼎の二人の霊魂はなんと穏やかな安息に導いてくれるのでしょう。悲しく切ない、でも深く委ねれば委ねるほどに心地よさを覚えます。
「鎮まり給え」
文武も同様の仕草をとりました。ああ、文武と岐山の霊魂はなんと力強い意志で行くべき方向を示しているのでしょう。百舌にとって数百年はなかった安らぎの方へ。
「く。く。く。く。礼代わりに教えておこう……儂の望みは繋いである。くく。儂が拵えた人の手の幾人かはすでに怨霊の力に魅入られておる。その上、大神を退かせた信じられんほど力、黙って放って置かれはすまい」
「それでも、いつでも僕らは力を合わせて守り合う」
「そうよ。あたしたちはずっと大昔からそうやってきたんだもの」
「く。く。く。文武、お前、子には恵まれたな」
「ああ。できすぎているくらいだ」
「く。送ってくれーー」
「鎮まり給え」「鎮まり給え」
「鎮め給え」百舌は安らかに消えてゆきました。
周たちが日置南市に戻ったのはもう真夜中でした。大神が誰の何を持っていくかはまだ分かりませんが、鼎が心配していたとおり、斎木梛の者が一人もいなかった屋敷は、小さな霊魂たちの勝手気ままないたずらによって、上にあった物はあらかた下に転がって、順のあるような物は逆に入れ替わって、とてもとても母
姫子の女手一つで元に戻しきれるようなものではありませんでした。常にもない髪や着物の乱れが、この屋敷で繰り広げられた慌ただしい戦いを物語っています。そんな騒がしい夜も、皆が戻ってきてやっと落ち着きました。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
玄関に立つ文武と周の間に、ちょうど誰か一人が立っているような空間があります。そこはいつからか自然とそう決まっていた鼎の立ち位置です。
「おかえり、鼎」
「おかえり」
「鼎、おかえりなさい」
「な、なによもう、みんなして改まって」鼎は照れているようです。でも、少しずつ心をほぐして素直にして、まだちょっと顔を赤くしたまま、
「ーーた、ただいま」
かわいらしい仕草で家族の元に戻ってきました。
雨戸のような印と呪のないしきたりです。今夜は寝間に布団を四つ並べて眠りましょう。きっと久しぶりに深い眠りが訪れるでしょう。そんな晩に涙は似つかわしくないと思ったのか、周はこの日も泣きませんでした。
そして、すべて成し遂げて気が抜けた体に、数ヶ月の無理が現れてきてしまいました。もう春を過ぎて初夏のようになっていた日のことでした。膝が体を支えるのを忘れたかのように真下に落ちて、そのまま倒れてしまったのです。熱中症と思われて水をかけられても何度呼びかけられても返事をしません。結局、重度の過労と見立てられて入院してしまいました。
意識を戻したのは一日半後。見舞いに現れた文武は、そこで鼎の魂を鎮めたと告げました。大神は、鼎の魂、文武の霊、そして周の肉を選んだというのです。周が倒れたのはその黙示なのだと。衰弱している体が健やかになり次第清められて捧げられます。あまりといえばあまりでしょうか。でも、祟りというのはこういうものです。これが、印を破った者に下される呪なのですよ。
しかし、周は信じられない、信じたくないようでした。妹を探しに行くと言って退院を求めましたが、度の過ぎたそれが入院するほどに体調を悪くさせたのだから、と許されませんでした。なんとか一泊の帰宅許可は得られて、また再びあの日々を、鼎の魂を探す日々を始めました。
屋敷の中にはまるで気配がありません。雨戸の順を破った人が消えてしまった話をしてくれた庭にもいません。鼎の部屋は12月の事件以来そのままですが、長い間部屋主の呼吸のなかったそこはどこか色がくすんでしまっているように感じられます。名を呼びかけても返事は聞こえません。きっとここにはいないのでしょう。
ろくに眠りもしないで明け方になって外出します。曙光とはこんなにも眩しく気を散らす目障りなものだったろうかと心に念じながら。
鼎が大切にしていた自転車に乗って、古町日置南の入り組んだ道を行って潮騒が聞こえる緩やかな坂道にやってきました。ここにも、いません。海に出ても、
「鼎……」
やっぱりここにはいません。活発な妹のことですから一つのところに留まらないで別の場所に移ったのでしょうか。
まだ人影もまばらな日置南駅です。二人して、苦しんでほしくない、嫌がってほしくないと意見を戦わせて、死に別れてまでも強情を張り合って兄妹喧嘩をしてしまったこの辺りにもいません。
「鼎……かなえっ」
触れた肩には肉の感触がありました。残念ながら後ろ姿だけが似ていた別人でした。ここにもいないようです。
かすかな望みを抱いて陵墓へもゆきました。わずかな気配も残っていません。もう、どこにもいないのではないでしょうか。
日置南に戻ってきても、行く宛はほとんどありませんでした。とぼとぼと歩いていると、今のようなひどい辛苦に無理を重ねて覆い隠していた頃に、ほんのひととき息を継げた覚えのある古い洋館の前にいました。格子扉の鍵は今も開いていて、老婦人は今日も庭先にいました。
「あら、周くん……今日は一人なのね」
「そう、ですか。僕は一人なんでしょうか」
年老いた体に鳥肌が立つようなただごとでない感じがしました。前に女生徒と来たときも線の細さを感じさせましたが、今はもう触れたら崩れてしまうような痛ましい儚さばかりです。周は、漏電か何かのせいで部屋中のガラスが割れてしまった一室を望んで入っていきました。老婦人は、ほんとうは持ち合わせていた鍵で扉を閉めて、今日一日は他の誰もやってこれないようにしてしまいました。
「ーーかなえーーかなえっ」
何度呼んでもいないのです。ついにそれを思い知ったのでしょう。もうどんな無理を重ねても押さえつけていられない悲しみがこみ上げてきて、周の目からついに涙が流れました。口を噛みしめて声が漏れないようにしようとしてもできません。両手で顔を覆っても隠せず、拭いきれません。ああ、これは慟哭ではありませんか。
さあ、ほら、あんなにつよい子をこんなに深く嘆かせるものではないですよ。はやくいってあげなさい。
「やっと泣いてくれた」
ぜったいに聞き違えたりしない声がして、えっと顔を上げた周は、目に潤ませながらはにかんでいる鼎を見ました。
「か、かなえ?」
「ん……ごめんね、ちゃんと詳しく話すから」
大神が選んだ肉と霊と魂は文武が言っていた通りのものでした。でも、それを通してしまえば斎木梛家は考えられる限りの悲劇を被ることになります。肉を奪われれば死んでしまいます。魂を持ち去れば二度と現世に現れません。霊を奪われて霊力のない両親から新たに生まれる子はふつうの子でしょう。そうなると皇孫の霊を鎮める儀式もできなくなってしまいます。そんな結末は大神(私)だって望みたくはありませんでした。だって、あまりにかわいそうではないですか。
「おじいちゃんが代わってくれたの」
そこで、斎木梛の長老が申し出たのです。
「儀式の行儀作法進行ののことは一切を遺漏なく孫娘に教え伝えます。その上で、この老いぼれめをお連れくだされ」
名案と思いました。そうなれば私の選択も変わってきます。
肉は、すでに失った者からいただきましょう。
魂は、すべてを伝えた者からいただきましょう。
霊は、まったく持たない者からいただきましょう。
「だから大丈夫なの。あたしはまだここにいられる。周の傍にいられるの」
「ほ、んとに?」
「うん」
「でも、あの儀式が……」
「それも、大丈夫かもしれないって」
先代の皇孫が「憂慮の念」を示して、鎮魂を望まなかったのはどうしてでしょう。その霊魂を間違いなく鎮めるためには、常世までの案内を本務としてきた斎木梛の者が必要と知ったからなのです。その務めもちろん霊魂でなければできません。この儀式に限って殉死という言葉は使われてはきませんでしたが、在位の間に数え切れないほど多くの尊い犠牲があった世を考えて、ついに憂慮が示されたのでした。そして、今上の皇孫もその経緯を知ってか火葬を望んでいます。鎮魂の役割は神から仏へと移り、短くとも数十年は、斎木梛のこの兄妹が永遠に引き裂かれるようなことはないでしょう。
「ああ……ああーー」
周は安らかにため息をつくしかありませんでした。胸に詰まったいろいろな思い、それは言葉ではなく、おさえきれない涙となってあふれでました。先ほどのような慟哭はありません。深く傷つき、虚もない空っぽの胸が癒えて希望によって満たされていく喜びでした。
「ありがとう、周。助けてくれて、たくさん泣いてくれて、ありがとう」
周はただただ鼎の名を呼んでばかりいました。目を潤ませる鼎は、その頭をなでることも、肩を合わせることも、抱き合うこともできないのがとてももどかしく感じていました。
やがて季節は梅雨になりました。周はもう鼎の行方も霊魂も探さないで事件のことをほどよく忘れたかのようにごくふつうの学生生活を送っています。
「ね、鼎の友達の、僕と一緒にあの洋館に行った彼女って、どんなのが好きなのかな」
「えっ、周、もしかしてあの子、気になるの?」
「うん……もう一度、会えないかなって」
鼎は祖父の岐山に、失ってはならない儀式の進行一切を教え込まれています。なにしろ足の運び一つ、腕の振り方一つまで定められていますから、相当厳しくされています。
「これっ、姿勢は力んではならん。表情も強ばらせてはいかん」
「もーっ、おじいちゃーん、もっと優しく教えてよー」
「なにを甘えておる。周ならこれくらいではへこたれんぞ」
「む、むむむー、じゃあがんばるもん」
もう戻ることはない古い日常は遠く過ぎ去り、新しい日常が続いています。平穏な毎日ばかりが続いているのではありません。百舌が言い残していったような危難に巻き込まれることもあるのです。
「鎮まり給え」
それでも周と鼎は父 文武のような過ちは犯さず、どんな悪霊怨霊も払うことなく鎮めてやり、無体に操られる神使霊獣を懐かせてゆきます。
印を結んで呪を言祝げばほかの誰よりも深く近しく結ばれる二人は、たとえ遠く離れても思いやり合えるでしょう。けれど、どれだけ想っても、どんなに願っても、手や肩や顔を触れ合わせることだけはやっぱりできません。まるで、岩にせかるるように。しかし、その岩を押し開かずに寄り添い合って生きてゆくと決めました。かけがえのない人はいつだって傍にいてくれる、いざとなったらぜったいに探し出してくれると信じ合って、二人のその心には少しの戸惑いも不安もありません。
読んでくれて、ありがとうございました。