神降ろし
都内23区を越え、多摩丘陵の某中核都市に入った文武は、やはり、と思いながらも、胸中に渦巻く言いようのない不安を無視できず車を止めました。
「どう思われますか」それは百戦錬磨の斎木梛 文武であっても、自分の予想が的外れであることを望んでしまうほど不気味な予感でした。
「どうもこうもない。対手が何者であれもはや正気ではない。なんと懼れ多いことを……」
後部座席のお爺さんはまるで恐懼しているかのようです。今になって自分こそが最大の誤りを冒していたことに気付いたのでした。鼎が消えた次の日12月25日はクリスマスとして有名ですが、実は日本独自の重要な祭祀も執り行われているのです。しかし、それとこれとを繋げて考えるなんて思いも寄らないことでした。
「もう何年前になる……90年近くにもなるのか」
「1926年12月25日ですか」
「そうだ。その日崩御されたあのお方の御霊を、わしの父とわしとでお鎮め致したのだ」
「鼎の魂はこの先の陵の方に吸い寄せられたようです。ですが、あの一帯は宮内庁が厳重に管理する神域です。黒幕は彼らですか」
「典範と慣習を固守して誇り高い彼らがこんな事件など起こすまい。百舌の反魂を企てた黒幕に引き込まれたのだろう」
「親王家ですか」
「御稜威に翳りを作るようなことはなさるまい」
「外戚ですか」
「いつの世も外戚が求めるのは現世の栄華のみだ。秘宝を持ち出そうとはしても、常世には関心を持たん」
「では……旧宮家?」
「そうだ。彼らには多少とも知識と技術が残っていよう。どうやら次第が分かってきたわい。旧宮家が百舌の舌と術を用いて何かを企てた。だが、蘇らせた後がまずかった。あ奴の狡猾さを抑えられず、宮内庁を巻き込んでの一派が構じられたのだろう」
「宮内庁の者から私の名が出れば鼎も怪しまなかったはずです。警察も、25日の例祭に用いられる式具を運ぶ御用車を不審車両とは判断しなかったでしょう。今になって宮中祭祀を念頭に考えれば、鼎の魂が年末に現れた理由も解ります」
「大祓だな」
「はい。大晦日になれば、あのお方が人々の罪穢とともに野辺を漂うすべての霊を憐れまれて祓われます。そうなれば、鼎の手がかりはまったくなくなっていたでしょう。しかし、誰よりも周囲の霊魂を敏感に感じ取る周が鼎の霊を口寄せたのが誤算の始まりだったのです」
「なるほどな。ふつう霊を失った魂は遊鬼と化しついには怨霊となる定めだが、陵墓のような神域ではそうはなるまい」
「ええ、その目論見通り運んでいれば、誰よりも深いところの霊魂と交信できた鼎を反魂し、意のままに操って目的を果たそうとしたのでしょう」
「ところが、周が鼎を口寄せた上に一日も休まず魂を集めるので反魂できなかった。子供のやることと侮って静観していたか少し待てば諦めるとでも思ったかもしれんな。だが、予想に反して鼎の魂のほとんどを取り戻すほどにやってのけた。そこで邪魔になった周の動きを封じようとしたわけだ」
「ですがそうすると、百舌が周を事故から助けて屋敷の中に侵入しようとした目的が分かりません。やはり百舌と黒幕の間には微妙な思惑の違いがあるようですね」
「生きた人間と死んだ怨霊の間などしょせんそんなものだ。これからじっくりと聞き出すとしよう。わしもこの世にあってずいぶん久しいが、今日ほど腹の虫が収まらんのはない」
「それは、俺もですよ」
怒れる男たちは車を降りて一歩一歩着実に陵墓の方へと歩いていきます。お爺さんの霊力の加護を受けた文武の目は鷹のように遠くまでを見晴らして、夜空の星々は光に包まれた街のただ中にあって三等星、四等星までもがくっきりと見えています。聴力は喧噪の中に落ちた針の音さえ聞き逃しません。跳んでも走っても国内記録を上回るでしょう。
日置南からこの地方中核都市まで電車では90分ほど。そこからさらに二駅が、かの陵墓の最寄り駅です。鉄道ダイヤに恵まれて、周と鼎は父
文武に遅れること十数分でこの街にやってきました。時刻は23時40分を過ぎたところです。川を渡り、大きな公園を左手にしながら急いでいると、とつぜん鼎が、
「ま、まって」
と怯え始めました。
「まって、おにいちゃん。こ、こわい」
「大丈夫。ぜったいに僕が守るから。きっと助けるから」
「ん……でも、お、おいかけてくるよ」
鼎の怖がりようはどこか異様でした。今の見知らない街の暗がりでも、これから何が待ち受けているかも分からない不安でもなくて、自分たちを追いかけてきているという何かの気配に怯えているのです。
「追いかけてくる?」
「こわい……おにいちゃん、いぬがくる。あたし、いぬこわい!」
そうです。そうでした。この年頃の鼎は、犬を本当に怖がっていたのです。咬まれたり追いかけられた経験もないのに、どうしてかと思われていました。
「つれてかれたくないっ」
3月下旬、周は鼎から、雨戸を閉じる順番を間違えたその夜の内に消えてしまったという端女の話を聞いたはずです。
「かなえ……今夜の雨戸を閉じてたの、母さんだった?」
「ぐす、お、お父さん」
「どっちの方から閉まったか分かる?」ぐずる鼎を刺激しないように柔らかく聞きますが、緊張は隠し切れません。
「げんかんのほう」
「お庭の窓じゃなくて?」
「う、うん」
「そんな、どうして」
ついに思い当たった周は愕然とするしかありませんでした。斎木梛屋敷の玄関は、南です。東から閉めなくてはいけないしきたりなのに。もし、このしきたりを破ったならーー。
「お、おにいちゃん、おそら」
大きく目を見開く鼎の言葉に導かれて上を向いた周の瞳に真っ白な犬が映りました。とても大きく、そして百舌のような怨霊が放つ凶々しさではなく、金色と銀色の粉のような神聖さを振りまいているかのようです。先ほどまで犬の気配に怯えていた鼎の霊力は、軽く念じただけで部屋中のガラスを割れるほどなのに、泣く子も黙る霊位に圧倒されて自然とその場にひざまづいて頭を垂れています。ただ肉体を有する周だけがそれを仰いでいました。
「やっぱり……父さん」
それは宙にとどまって周と鼎を一瞥すると、すんすんと鼻を動かして、空を駆けて行ってしまいました。
斎木梛家は、死んだ者の霊と魂に関わる忌み事を司ってきました。しょせん常闇の世界の方と親しい家系なのです。天地を照らすように輝く大神とは慎重でなければなりません。無防備に休んでいる最中に日差しを受けないよう雨戸を閉めて眠る一方で霊感を持たない者を娶って常世に落ち込まない用心をし、最近の周のように常世の影響を深めすぎたなら定期的に曙光を浴びるなどして霊魂の傾向を調整しなくてはいけません。これでは一方的に利用しているだけであまりに都合がよすぎます。そこで、陽を遮りまた迎える雨戸の開け閉めの順序を印として結ぶことで従順の仕草を表す約し事ができたのです。家政婦を端女と呼び習わしてきた頃から続くしきたりです。これを破ったなら直ちに制裁が下るのですから、呪と呼んでもいいでしょう。
文武はそれをあえて破りました。なぜなら、自ら赴くことに決めたこの戦いは必敗の要素に満ちていたからです。百舌はともかく、斎木梛家双子の娘の反魂まで企む霊力の持ち主が待ち構えているのは、一切の殺傷を禁じる陵墓でした。この時点で抵抗の手段はまったくありません。生身の人間のそんな制約など意に介さない怨霊に嬲り殺しにされるだけでしょう。
ただ一つ手元にあったのが、その戦いに皇祖神の一柱を引き入れる荒技だったのです。
「天照大神……!」