戦いの決意
「百舌は怨霊としては並程度だ。自ら蘇りはせぬ」
屋敷前での遭遇を聞いたお爺さんはこう断言しました。文武も同じ意見です。百舌は口が達者な怨霊ですが、滅んでも自ずと蘇るような力は神霊しか持ち得ません。
「あいつが、鼎を襲ったんですね」
怨霊を払う話し合いに初めて加わらせてもらえることになった周は、仇として念頭に焼き付けた百舌の姿が目の前にあるかのような声で言います。
「そうとは限らない」
しかし、父 文武はあまりにも冷静に、怒りに囚われて危うい周をなだめるように言いました。
「百舌はいかにも並程度だが、口が達者で狡猾なのだ。しかし、奴はよく口を滑らせる。落ち着いて失言を当ててみなさい」
でも、周はまだ頭に血が上っていて、百舌の言葉をしっかりと思い出すことができません。
「霊脈の真上で斎木梛家の者とやり合う気はない、と言っていただろう。ならば鼎を襲ったかどうかは怪しい」
「あ……」
それに、百舌よりも遙かに強力な天狗の神隠しさえ、幼少の子の霊感を惑わして誘い寄せなくてはなりません。たとえ神霊であっても常世の者が現世の者の肉体を直接連れ去ることはできないのです。
仮にすべてが百舌の仕業だとしても、鼎の魂がなぜか戻ってきていない理由が分かりません。たとえ百舌に囚われているのだとしても、屋敷前まで来れば抑えられるものではなく、自ずと戻ります。周が何度も必死に鼎の名を呼んでいたのなら、なおさらです。
「周に潜んで屋敷に入り込もうとしたというのもおかしい」
目的が復讐なら、車を暴走させたままはねるだけでよかったはずなのです。百舌の言動にはあちこちに不自然な矛盾があります。いくらなんでもここまで雑な怨霊ではなかったはずでした。
「やはり黒幕がいるようだ。間違いなく人の手が関わっていよう」
「目星はついています。百舌が失敗したことで向こうも動くでしょう」
文武の読み通り、数日のうちに変化がありました。ですがそれは、斎木梛家にとってかなり切実な形で現れたのです。
「おはよ、あまね」事件前の鼎はこんなに幼さを感じさせはしません。
「か……かなえ?」
「どしたの? おにいちゃん」日置南駅で見せた蘭のような凛々しさはどこへ行ってしまったのでしょう。おにいちゃんだなんて、もう十年以上も言わない言葉です。
本人の霊が取り戻した魂が抜け出るなんて考えられないことですが、女生徒の話を経て戻ってきた分も、今日まで周が集めてきたはずの魂までもが大半なくなってしまったのです。黒幕の正体と目的は今なおはっきりしません。しかし、もはやこのまま手を拱いているわけにはいきません。不幸中の幸いですが、なくなったばかりの鼎の魂の跡を追うのは容易のようです。その先に、百舌と、そして黒幕が待ちかまえているのでしょう。
鼎の魂を餌か何かのようにして誘き出そうとしている卑劣な目論見は承知の上です。かつての文武ならばこんな挑発も冷徹にやり過ごしていたでしょう。しかし、命を奪われた上に無惨に利用される娘と、毎日毎夜悲しんでいることも苦しんでいることも悟られないように無理に振る舞い続ける息子を一刻も早く楽にするには、こうするしかないのです。
その夜、文武とお爺さんは密かに屋敷を出ました。我々がいないと屋敷内の霊たちが悪さをするから、と周と鼎に留守番を言いつけて。
足手まといだから置いて行かれたわけではありません。これ以上は巻き込みたくない、戦いを好んだ愚かな親の因果を子に報わせたくない親心です。でも、周だってこの事件に抱く思いは生半可ではありません。文武が父として猛るように、周だってかけがえのない妹をこんな目に遭わせた連中に憤怒を覚えないでいられるはずがないんです。
「ねー、あまねおにーちゃん、はやくページめくってよー」
床に開いてある絵本に触れようとも触れられず透けてしまう手を振りながら言う鼎の姿を見て覚える感情をなんと呼びましょう。つい先日、周が苦しんでいるのを見るのは嫌と言ってくれた鼎が、今こんな有様です。
「おにいちゃん? どしたの? どこかいたいの?」
いたいのいたいのとんでっちゃえ、あの鼎がこんな子供だましのおまじないをするなんて。
周の胸が裂けてしまいそうに痛みます。その痛みをかきむしってでも打ち消さないと、感情を抑えつけている無理が今にも限界を破ってしまいそうです。
「ご、ごめんっ、ちょっとまってて」
周は辛うじてこう言って鼎を置いて部屋を出ていってしまいました。そのまま勝手知ったるはずの屋敷中を二階から一階、一階から二階へと彷徨うように歩くと、ついに力尽きたように膝を着いてしまいました。
「誰か……」
いえ、誰もいないのです。助けて、と求められたのは周で、それを求めたのはあの鼎なのです。だから挫けない。諦められない。父 文武は心中こんな有様の周の味方として手助けしているのですが、本当は誰よりも周こそが鼎を迎えに、鼎を助けに行きたいのです。
なんとか気を取り直した周が部屋に戻ってみると、そこには鼎が読んでいた絵本を手にとっている母 姫子がいました。
「懐かしい絵本ね。鼎のお気に入りのお話だったわ」
「今も好きみたいです」
「……鼎はどうかしたの?」
「その絵本が好きだった頃の歳に戻ってしまいました」
「そう……」
霊力がなく斎木梛家のことを理解できない姫子は、信じようもない話です。でも、おもむろにその絵本を開くと、ゆっくりとした口調で読み始めるのでした。誰もいない空に向けて。鼎の位置も表情も分からないはずなのに、鼎が喜ぶと微笑みかけるのでした。愛娘のことですから、すべて覚えているのです。読み終わると、そして言います。愛息子のことです。分かるのです。
「行きなさい。きっと大丈夫よ」
なにが起きているのかはやっぱり分かりません。でも、文武も周も鼎も、いつだってしなくてはならないことを懸命にやってきました。きっと今もそうなのでしょう。そうやって信じて待ち続けること、彼らが安心して休める家を保つこと、それこそが彼女がこの斎木梛家に嫁ぐ最も重要な役割として何度も聞いて、何度も心してきた決意でした。
「私には霊力というものがないみたいだけど、あなたたちが無事であるようにずっと祈っていたわ。これからも、ずっと祈ってる。だから、大丈夫よ」
「……ありがとう、母さん。かなえっ、行こう!」
その名の持ち主はやはり姫子には見れません。でもその姿はきっと、幼い頃の兄妹二人が仲良く出かけていった日の通りでしょう。