プロローグ1
それは、一瞬の出来事だった。
私の目の前は、真っ赤になった。
私はその日も、彼と帰路を共にしていた。
付き合っていたとかそういう話ではない。私にとってその話はやぶさかではなかったが、彼がどうであったかは知らない。
人付き合いの苦手な私が、気がねなく話せる相手の一人が彼だったというだけだ。
彼は、変だった。
趣味は家事という時点で逸脱している。特技はいつでもどこでも寝られることという特技なのか特技でないのかよく分からないものだった。弓道の有段者で――この年齢で弓道の有段者になることは凄いことらしい――学校には弓道部があるにもかかわらず何故か天体観測部に入部。その際、弓道部の先輩はかなり悔しがっていた、らしい。入部の理由は『楽そうだったから』
特技に違わず、授業中のほとんどは睡眠を敢行。たまに起きだして机の下で読み始めるのは経済誌。株とかって意外と面白いですよ、先生もどうです?というのは彼がそのことを注意した先生に対して言った言葉だ。そんな学校とは全く関係ないことを普段しているのにもかかわらず、成績は良好。上の中。また、実力テストで総合2位をたたき出すほどの頭脳の持ち主だったというのは一学期に行われた最初の実力テストで発覚する。
そんなこんなで周りから一目置かれているが、普段の行動が行動だけにそんなに友人は多くないようだった。少ないというわけでもなさそうだったが、あまり自分から話しかけるということはないように見えた。休み時間は授業中と変わらず眠っているし、昼休みも食事を済ませるとどこかへ消えてしまう。他人とのかかわりを避けているというより、他人は他人、自分は自分と分けているようなところがあった。
一匹狼、というわけではないのだろうが、友達とつるんだり、じゃれあったりどうこうしている彼を私は見たことがない。おそらくみんなもそうだろう。
そして、彼が変だと思う一番の理由は
私なんかに、声をかけてきたということだ。
「高崎さんってさ、いつも本読んでるよね」
一学期の最初。
出席番号で並んだ席で、私たちは隣同士だった。私は高崎。彼は千葉。四十人クラスで男女は同数。出席番号10番と30番。そのあと、何回も隣同士になった。確か、二回目の席替えの後だったと思う。休み時間に、珍しく彼が起きていた。メールを打っていたのだろう、携帯電話をいじる指を動かしながらそんなことを言った。
「千葉君だって、いつも寝てるじゃない」
「一応、授業は聞いてるけどね」
「なにそれ」
私が笑うと、携帯電話の画面を見ながら彼も微笑んだ。
短い会話だったが、何年か必要最低限のことしか喋ってこなかった私にとって、久しぶりの会話だった。懐かしいとさえ感じた。
私と彼の会話が増え始めたのは、そのあとからだった。
挨拶なんてろくにしなかった私だが、それからは毎日するようになった。彼に対してだけだけど。あいさつから、友達同士の人間が交わすような、下らない、他愛のない話まで。私たちは、言葉を交わした。
それに何か意味があったわけではない。普通の人なら日常の範疇で終わることだろう。
だけど。
だけど、私にとってそれはとても―――大切な時間で、幸せな時間だった。
話の話題など探さなくても自然に出てくる。そんな風にまで私は変わった。相変わらず、彼に対してだけだけど。
そんな私に、彼はこう言った。
「別にいいんじゃない?高崎さんは高崎さんだし。無理に周りに合わせて変わろうとする必要はないと思うよ。それに、変わるチャンスなんていくらでもあるじゃない?それを見逃さなければきっと変われるよ」
と。
その言葉。
その一字一句が、どんなに私の心に響いたかは、想像に難くないだろう。
無理に変わる必要なんてない。
彼が泣き黒子をほころばせて柔和な表情を浮かべて言った、その言葉も励ましになり、私の自信になっているけれど。
私は、むしろ彼が初めて見せたその表情に心を奪われた、んだと思う。
その言葉と一緒に彼の顔を思い出すと、胸が高鳴る。普段の彼からは想像もできない表情だったからだというのもあるんだろうけど、私でなくても女の子は彼のその表情には惹かれるだろう。
要するに、そういうことだ。
私は、彼に惚れた。
だから、『千葉と高崎はできているらしい』なんて噂が流れ、真相を聞かれるのは困ったけれど、不思議と嫌ではなかった。彼がそれをどう思っているのか、それが気になった。
一緒に帰るようになったのは、そんな噂が流れ始めた直後だった。
週番になって最初の月曜日だった。私たちは出席番号が男女を別々にしたときに一緒になるので、当然週番などクラスの仕事は一緒にこなすことになる。
月曜は授業が一般生徒下校時刻十五分前まで行われる。それから週番の仕事を済ませるとなると、夏が近く明るいとはいえ遅い時間になってしまう。そのことを心配したのだろう、
「高崎さん、家どっち?」
と彼は聞いた。
「瀬上の方」
「じゃあ途中まで一緒だ。送って行くよ」
「え、いいよ。千葉君自転車でしょう?」
とっさに遠慮して、私はすぐに後悔した。これで彼が引き下がってしまったらどうしよう、と考えた。
「大丈夫、押して行くし。時間も時間だしさ」
が、彼は引き下がることなく、私と一緒に帰ろうと言った。
「・・・ありがとう」
私はそれとなく言ったつもりだったが、心は躍っていた。顔に表れていたかもしれない。
それから週番は一週間続くので金曜日まで一緒に帰った。最後の金曜日、これでこの時間も終わりなんだな、と思うと寂しかった。しかし、そんな日に限って。
事故は起こる。
学校を出て五分ほど歩いていた時だった。周りが住宅街であるので、道が狭い。しかし、大通りが近く、車の出入りはそれなりに多かった。だから、そんな道をトラックが暴走してきたら避けようがない。そもそも、大型車の出入りは禁止されているはずだった。
しかし、あのトラックは走ってきた。
国道を回りこむよりも、こちらを通った方が近いと思ったのだろう。実際、時間は短縮される。だけど―――
飲酒運転をしていたとはどういうことか。
近道のことは酔った頭で考えられるのに、大型車進入禁止の看板は目に入らなかったというのか。
狭い道で、前から猛スピードで壁にぶつかりながらこちらに突進してくるトラックを、どう避けるというのだろうか。私たちに逃げ場は、なかった。いや、ないはずだった。しかし私の逃げ場は。
彼が、作った。
私をかばうようにして抱き込み、自転車を捨てて電柱の陰に走りこんだ。
彼が必死の形相で彼がそんなことをするものだから、私は抵抗しようとしなかったし、出来なかった。
たとえ、そのままでは彼が死ぬかもしれない、と分かっていたとしても。
ようやく事態に気がついた運転手が、ブレーキをかけながらクラクションを鳴らした。鳴らしてどうする。この状況を作り出したのはお前だというのに。
その時は、刻一刻と近づく。多分、私は分かっていた。
彼の体越しに、トラックのメーカーのロゴが見えるくらいまで近づいて、そして―――
ぐじゃっ。
それは、一瞬の出来事だった。
私の目の前は、真っ赤になった。