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プール

作者: 山田柔道

 じつに気立ての良い薬剤師がおまけにつけてくれた栄養ドリンク一本を、薬局を出てしばらく歩くうちに飲みきった。鼻の奥まで昇ってくる強い甘みと、舌に残るわずかな苦さ。飲み終えてから音を立てずにげっぷする。車の行き交いが激しい大通りを歩くうちは、片手に薬瓶を入れたビニール袋を、もう一方の手にドリンクの空き瓶の口をつまんでぶら下げたままだったが、最寄りのスーパーマーケットがある角を曲がって小路に入り、前方からのろのろと近寄ってくる原付がすれ違ったのち、手近な家のブロック塀を選んでそのうえに空き瓶を置き捨てた。瓶から手を離した瞬間、それが春風に吹かれてバランスを崩し、アスファルトに落下して勢いよく砕け散るさまを想像した。それからきっと、誰も破片を片づけないままでいるのだ。

 門柱の表札には「戸田」とある。数えきれないほど何度も通り過ぎた家だが、この家の所有者が誰なのかずっと見過ごしてきたのだ。もちろんそれを悔やむわけではなく、そう気づいただけのこと。ブロック塀に取りつけられた鉄製の門の左右に一本ずつ、二リットル入りのペットボトルに水をいっぱいに詰めた猫よけが置かれていた。すこし立ち止まって、私の背丈より若干低い塀のむこうをなんとか覗き見ることができる。

 十メートル四方の庭の一面は刈ったばかりらしい芝生で敷き詰められている。いままでじっくりと観察したことはなかった。快晴の空にうかぶ陽の光に照り返って、視界に飛びこんできた眩しい緑の単色に、思わず眉をひそめてしまう。

 小さな屋根を設えてある玄関から一段降りてすぐ横、出窓の下にレンガ造りの花壇が壁沿いにこしらえてあるが、花は咲いておらず雑草もまったく伸びていない、中身はただの土だ。そのすぐ脇に水道の蛇口に結ばれたホースがだらしない渦を巻いて横たわっている。よく見るとそのあたりの芝生はしっとりと濡れていて、心もち色が濃くなっているようだ。芝生の一本一本に付着した水滴が、細やかな光の粒となって反射している。陽の差し具合のせいでむこうのブロック塀の影に隠れて、一見しただけでは何なのかよくわからない「ごっそりした」物、あるいは手入れの行き届いた庭に似つかわしくない不純物だったが、おそらくそれは子どもの遊ぶようなビニールのプールであり、円形に張られた状態ではなくすっかり縮んでくしゃくしゃになっている。あちこちが泥で汚れており、すっかり邪魔者扱いされて転がっているように見える。象かなにかの動物を可愛くデフォルメしてズボンを履かせたようなキャラクターが、表面の所々にプリントされている。

 いまは三月の半ばを過ぎたころで、日中を部屋で過ごすぶんには暖房も必要なくなったとはいえ、まだ外を出歩くには薄手のコートでもなければ心許ない。ビニールにこびりついて固まった泥を綺麗に洗い流してから、プールの中へ冷たく清潔な水道水をなみなみと注いで、波立つ水面にアヒルのおもちゃなんかを浮かべてみる。それから戸田家の子どもたちが玄関の扉を開けてわーっと群がり出てくる。底の浅いプールに次々と飛びこんでゆくのだが、みるみるまにプールは満員となり、子どもたちは皆たいへん窮屈そうに顔を歪ませて、押し合いへし合いしている。そのうちプールにはいれない子どももでてきて、喧嘩になる。おもちゃのアヒルなんかはとっくにプールの外へ追い出されている。私はブロック塀のこちらがわから、その様子を半ば呆れつつ眺めている。だいたいこの家に子どもが何人いるのか知らない(一人としていないかもしれない)。プール遊びを楽しむにはまだ早いだろうと思う。


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