生き字引と辞書と賢者と魔族
前にも述べたがぼくのお店は自転車販売会社の元倉庫と店舗、居住スペースで構成されている。掃除や片づけをするといろいろなものが出てくることは言うまでもない。親父は趣味人だったし。
ところで、店舗をやっていると意外と使うのが『辞書』であるが、この世界に来たぼくには都合よく謎の翻訳魔法がかかっており、辞書不要な身体になってしまった。
具体的に述べると前は日報を書いたり、連絡ノートを書くときに漢字を調べたり国語辞典で正しい意味を調べたりする必要が皆無になってしまったのだ。
そーいうわけで、愛用の辞書はお店のロッカーの奥深くで眠っていたのだ。『はなみずき』が掘り出してくるまでは。
「こ、この本を売ってくれッ 万金の価値があるッ!!」
なんどもなんども言うが、うちは貸し自転車屋であって、古書店ではない。
夢中でラノベを読んでいたことがあるのは覚えているが、夢中で辞書を読むのは彼女くらいだろう。
「貴様の店から持ち出した資料。この本があれば研究がはかど……あ」
ほう。また持ち出していたのか。
使い古しのレシート用紙すら持ち出そうとするからな。この娘。協力する魔導士(ソル爺さん)も論外だが。
そういえば、この世界って紙が貴重だもんな。
日本や中国と違って辞書が普及するのはもうすこし先かもしれない。
「言葉と知が溢れてくるようだ。これが異世界の知識と、文化と思想か」
うーん? 辞書一つでここまで感動できるのは君だけだと思うが。他の異世界人はどう反応するか。試しにソル爺さんに『手紙の書き方辞典』を見せてみたら即パクリしようと瞬間移動魔法を使おうとした。
ちなみに座標を定めずに使用すると国が吹っ飛ぶ被害が出る危険魔法である。ナニをしようとする。死にたいのか。
「母音と子音、主語、述語、名詞、形容詞……頭がくらくらしそうだ」
日本語をしゃべってください。
あ、日本語だ。
「これはすごいですね。我が国も作りたいところです」
賛同するポプラ。
同意を求める『はなみずき』とソル爺さん……あれ? 雲行きが怪しくなってきた。
「『かげゆり』。後は頼んだ!」
ぼくは人間辞書にして記憶魔法を得意とする魔族の少女に後を任せて、自転車に飛び乗り巡回に出かけた。
すまん。『かげゆり』。あとでお菓子買ってきてやる。
「『愛』『ゆめ』『月光』『憎悪』『勇気』『いのち』……『仕訳』『減価償却』『借入金』『買掛金』……。
この本は持ち運びができて、簡潔かつ素晴らしい基準で知と異世界の思想が詰まっている」
同じものを作りたいと『はなみずき』が賛同を募ると、ソル爺さんはさておき騎士団は『?』な顔をした。
繰り返すが、文字の普及率が少なく、紙の大量生産法が失われ、活版印刷が無いこの世界では当たり前の反応なのだろう。
「お言葉ですが知らない言葉があることに何か問題があるのですか皇女さま」
「同じ国でも村々で細かい言葉は変わりますよ」
日本や中国は古くから紙もあったし、印刷も曲りなりにあったしなぁ。
この世界で本を読むのは一部の知識人や魔導士に限られるし、魔導士の多くは翻訳魔法を使える。つまり辞書に頼る必要はないのだ。
実際ぼくも最近使ってなかったから『はなみずき』が掘り出してきたし。
地味に漢字全てを覚えているとか翻訳魔法とやらはなんというチートだ。ぼく。いまいち役に立たないけどな。
「やっぱよ。魔法を使えば八百万で肉体的に無敵でチートでニコッと笑えば女が惚れてハーレムなのは標準だろうに」
チートといえばこうだと見解を述べたところ『はなみずき』の反応は大変冷たかった。
「ナニを言っているのだ。頭でも打ったか。……それよりだ! ……ポプラ。『仕訳(SHIWAKE)』とはわかるか」
若き騎士は首をひねってみせる。
そのそばでぼそりと『かげゆり』がつぶやく。
「『簿記(BOKI)』『用語(YOUGO)』……」
「『むらくも』。『あかねのそら』ということばがわかるか」
「あかねっていうお花から採った色をもとにしたエルフや魔族の名前だよ。朝焼けや夕暮れ、希望や絶望をさすの」
少女騎士が首をひねっているので『つきかげ』がこっそり補足してあげている。
「それを知ることが何かあるのですか? 翻訳魔法があるのに」
翻訳魔法の魔道具は高価だが無いわけではない。
「ある。私が欲しいのは……欲しいのは……この本を読むことで得られる……異世界の……なんと言えばいいのだ」
思い悩む彼女に見かねてぼくはつぶやいた。
「『概念(GAINEN)』か? 『はなみずき』」
「それだっ! ……そういえば貴様には高度な翻訳魔法がかかっていたな」
ニヤリと笑う彼女は悪魔の笑みを浮かべていた。
やべぇ。ぼくの背から冷や汗が流れる。魔族の少女は今度こそ素早く自転車にのって巡回にいってしまった。
「異世界の知識や技術というのは劇物だな」
辞書の研究を始めた『はなみずき』がそうつぶやいたとき、ぼくは自転車の修理を行っていた。
魔道具を用いた修理は前よりはるかに早く、確実な修理となる。愛用していた道具類の多くは補助的に使われるのみ。
「ああ、確かに魔道具は便利だよな。元の世界に持って帰りたいくらいだ」
「それだ」
彼女曰く、自転車のない時代が想像できないという。しかしこの自転車たちはおそらくぼくらの代のうちにすべて廃棄の定めになると思われる。いくら治せても金属疲労までは人間に把握できるわけではない。『認識しなければ』魔道具では治せないのだ。
「この珈琲も当初は苦い。不味いと思ったものだが」
彼女はふわふわと湯気をたなびかせながら美味そうに珈琲を啜りつつ告げる。
「今ではないと寂しい」
わかる気がする。
「本当に元の世界に戻る気か? 貴様は低所得且つ身分も低く、元犯罪者と聞く」
答えはもう決めている。ぼくは戻らないといけない。
「そうなると私は、貴様の残した事業の残滓の後始末をする役目なのだな。……まぁ貴様がいなければ我が国はとっくの昔に灰燼となっているからな」
寂しそうにつぶやく彼女はぼくに背を向け手持無沙汰にスポークを調整している。
「とっととどこにでも消えてしまえ」
彼女の背はその日、格段に小さく見えた。
背中を向けたままの彼女と話すのは何気ない話。
今まで起きたこと。初めて会った日のこと。彼女の手を握って自転車で駆けた日。
お忍びで視察に向かい、ひどい目に遭いかけた彼女と逃避行した日。
「あの時のお嬢さんがこんな立派なレディになっているのだからな」
「辞めろ。忘れたい歴史だ」
背を向けたままぶーたれる彼女は到底お姫様には見えない。
「政治も哲学も、言葉で定義される。そう思わないか」
彼女曰く、完璧な翻訳魔法が何故か最初からかかっているぼくと意志疎通する上では問題なかったが、ぼくの話す、あるいはぼくのもたらす異世界の知識や概念を人に伝え、実際に事業として成すのはものすごく苦労することらしい。
「そもそも貴様の言う言葉が、『無い』のだ。私は概念を朧ながら理解できるが」
伝えることは日々苦悩の連続だったと彼女は語る。
「それでも、なんとかしたい。なんとかこの国のためにと思って過ごしてきた」
彼女はフラリと店のカウンターのほうに歩んでいく。
子供たちが接客するのを無視して、ロッカーに手を伸ばし、辞書を手に取る。
「この本を譲ってくれないか。私は、私たちは私たちの言葉で、お前と、お前の世界を知りたいのだ」
辞書作りは一〇〇年、二〇〇年の大事業になるかもしれない。
それでも彼女は決意をこめてぼくに告げる。伝える。
「私は。お前たちの世界からみた私や私たちではなく、お前を、お前たちの世界を知る私、私たちになりたい」
ぼくには彼女の小さな背が、とても大きくてまぶしい立派なものに見えた。