人の気持ちも知らないで
【前書き】『はなみずき』視点
『人の気持ちも知らないで』
「いらっしゃいませ」「ありがとうござました」
騎士の剣と鎧を捨て、商人風情の姿になって何年経っただろう。
この男の背中を眺めて眺めて何年経っただろう。
ねぇ。初めて出逢った日の事。お前は覚えているか。
私は心の中で呟くが、あの魔族の少女『かげゆり』ならぬ彼には届かないであろう。
いつか。この背に剣を突き立てなければならないのだろうか。彼の『店』は王国の発展に恐ろしいほど貢献している。時として王家をしのぐほどに。
私が彼の店を手伝うようになったのも、騎士団が彼の店に常駐するようになったのも、彼を護るためだけではない。監視する必要があるからだ。
……『いつか』か。
『いつか』は気がつけば『毎日』となり、『未来』になりつつある。
彼がこの国に尽くしてくれるのは判る。悲しいほど判る。
いつかニホンに帰るから。そう彼は断言している。それは私たちを置いていくことを意味する。
『いっそ、今すぐにでも私を置いてニホンとやらに帰れ』
そう心にないことを叫びたくなる。「いらっしゃいませ」内心とうわはらに明るい笑みを下賎の者に浮かべる。
柔らかく香ばしい香りと苦く切ない。
珈琲の黒色の髪の男。
彼は戦乱の世、瓦礫の町に忽然と現れ、人々を笑顔にしていく。
私は。笑っていないのに。
「おはようございます」
満面の笑みを浮かべて手を振り、帰還した『オキャクサンを迎える。』
頬に手を当てる。
親しい神官が斬られて死んだ日、彼は自棄酒を呑んでいた。
私は彼に告げる。
「呑みすぎだ。もうやめろ」と。
『あの娘が好きだったのか』
そんなことは言わない。いえない。答えなんて決まっている。
「五月蝿い」
彼は安酒の呑みすぎで完全に酒に呑まれていた。隣で犬娘が「おおかみ」酔いつぶれているなか、魔族の娘が延々と酌を務めている。魔族には毒も病気も効かない。
「『はなみずき』」
突如名前を呼ばれ、とっさに避けようとしたところ、頬に衝撃。彼の唇が私の頬に。あたっている。彼の唇が痛いほど私の頬を吸っている。
ドキドキと胸がなり、反撃しようにも腕がどんどん重くなっていく。
これではいけない。これではいけない。私情は捨てたのだから。
いつかこの男を斬らねばならないのに。
「好きだ。大好きだ。世界で一番好きだ」
私の耳たぶを軽く食む。
私の胸の奥が、身体の奥が燃えるように熱い。風邪ではないのは私にもわかる。
「でもな。愛する人を残して日本に帰るくらいなら。俺は誰も愛さない。
それなら。それなら。愛する人の国を幸せにして。日本に帰る」
風のように。最初からいなかったとして。
知っている。お前がそういう奴なのは知っている。
私は『私』より『国』のほうが大事な女だからな。
そして愛する人に胤だけのこして去れる性格ではないのは。私が一番知っている。
「……呑み過ぎるなよ」
「おう」
その日、私は一人惨めに自室で眠った。
涙は出なかった。
「『はなみずき』様ッ 大変でございます」
寝起きに部下が報告してくる。こういうときは基本ろくな事がない。私の率いる騎士団は最近騎士団と言うより何でも屋の様相を示しだしている。
カシジテンシャヤの警護のみならず、郵便だの諜報だの父上も無茶振りばかり押し付けて。
拳ほどの大きさの大型の蜜蜂。
この国では時々見かけるが、ある種の魔導液を利用する事で早く、正確に緊急の手紙を届けることが出来る。
『土砂崩れ発生。孤立しています。速やかに支援を』
暗号を読み解いてみると王国が所有する銀山からの手紙と判明した。先日の大雨の影響らしい。迷信深いドワーフたちから『呪いが発生している』と訴えていた山である。
「馬ではムリか」
「ええ。大きく迂回する必要があります。そして飲み水が不足しているようですね」
厄介な。
あの銀山は水が出なかったか?
「水の精霊が怒っていると報告に」
確か、あの男が持っているジテンシャに水を綺麗にするよくわからないものがあったはずだ。
相談してみると王国大金貨にして五五枚もの価格があるらしい。頭がくらくらした。
そんな高価なものを各神殿にタダ同然に貸していたのかと呆れる私に。
「モノは使って初めて価値が出る」
いけしゃぁしゃぁと答える彼。まぁよい。
「貸せ。一日王国大金貨一枚。預かり金は王国大金貨二〇枚でどうだ」
「理由は?」
銀山の場所は国家機密だ。
「もちろん秘密だ」
いくら名目上は私の夫ということになっている彼が相手でも話すわけにはいかない。
「話にならんな」
肩をすくめて見せる彼。恥辱と怒りで頬を染める私に彼は驚きの台詞を放った。
「タダでいい。災害のときこそ役に立つ自転車だからな。その代わり壊すな。あと何処に行くか教えろ」
追加の自転車を寄越せるからと彼は平然と告げた。
こういうとき、商人は儲けを。とことん吸い取ることを考えるはずだ。
だが彼は言い切った。
「災害のときにいかに振舞うかで企業の本質が見える」
キギョウという言葉はわからないが、彼の思いやりだけは伝わった。彼の好意と励ましを受け、私たちは立ちこぎをするだけで六十数えるうちに六リットルもの水を簡単に浄化し、一日で一五〇〇人分の水を確保できると言う自転車五台に乗り、鉱山の救出に向かったのである。
美しい谷だ。第一印象は悪くはない。
このような鉱山を王国は持っていたのか。
夜越し『ジテンシャ』を動かした我々は一時停止し、緑に染まる谷を見下ろす。風がさわさわと私の髪を撫で、木々の香りを鼻から喉から吸う。
「快適ですね。皇女様」
「あと一息だ」
弾む声を放つ大柄な猟師と淡々と応えるエルフ。
「パンクしないタイヤっていいですねぇ」
「これ、彼とのデートに使いたいなぁ」
失言したと顔を青ざめる少女に思わず苦笑い。その程度で激昂するほど子供ではない。
「この谷の奥に王国の誇る隠し鉱山があるというのか」「ええ。土砂崩れで孤立していると」
ジテンシャは馬よりも早いが、馬と違い武装は最低限しか用意できない。まさか戦いになるとは思っていないが心構えだけは万全でいたい。
エルフの娘が編んでくれた木皮の胸当てに蜘蛛糸とポプラの綿毛で出来た服はとても快適で普段着にしたいほどだった。皇女の身ではそれは叶わないが、団員の中で彼女と親しいものはいつもこの防護服を着用している。
「このジテンシャ、毒水でもなんとかなるって?」
猟師が呟く。
「公爵殿の世界では『たった五五王国大金貨』なんですか」
価値観が違うようだな。
かの男の世界では失われた上水道下水道技術が普通にあるらしく、常に安全で美味い飲み水が飲めるそうだ。それこそ、飲み水で身体を洗えるほどの量だそうだが。
「信じられませんね」
「実際、この自転車で浄化される水と同等かそれ以上に綺麗な水を常時飲んでいるそうだ」
衛生概念というもののおかげで人の寿命は七十年を超えるらしい。魔導士でもないのにだ。
「このジテンシャを奪われたら、ひどいことにならねぇか」
猟師が不吉なことを言う。
「彼に嫌われるな」
冗談で返す私に、彼らは呟いた。
「国が揺れるほどの宝ですよ。これは」
事実だと思う。だからこそ貸してくれたことを感謝している。そして借りた以上は返す。それが彼の世界の流儀だ。
私は彼の『ものさし』には従う理由はない。それでも、彼と共に歩む日々はそれほど不愉快ではないと思っている。
「いこう。水の乙女たちの機嫌を損ねれば土砂崩れだけではすまぬぞ」
「はい。皇女様」
彼が私を愛する代わりとして彼なりの愛情で私たちを包むように、
私は私なりの誠実さで彼の思いに。民の期待に応えたいと思う。
私たちは、恐らく結ばれることは。ない。
「こんにちは。水の乙女」
ジテンシャをしばらく走らせているとせせらぎが見えてきた。エルフの娘、『かんもりのみこ』がせせらぎに頭を下げている。
せせらぎ程度ならばエルフは魔力を用いずに一時的にその向きを変えて反対側を渡れる。らしい。
しかし、彼女の相方のガウルは『かんもりのみこ』を待たず、ジテンシャを抱えたままでせせらぎを飛び越えてみせ、私たちに腕を振りつつ歯を見せて笑う。
「……」
『かんもりのみこ』が口元を一直線にしている。
と、いっても彼女はエルフ。私以上に無愛想に見える。
私がいつも無愛想だというものがいるようだがそれは気のせいだ。公式の場では花のように微笑んで見せるぞ。
「おいていくぞ。ドライアド」
猟師、ガウルが彼女に声をかける。ドライアドと呼ばれるエルフ、『かんもりのみこ』は小さく呟いた。
「水の乙女たちが怒っている」
せせらぎが向きを変えないらしい。
彼女曰く。山の水は見えない毒に蝕まれ、森が、山が、大地が静かな怒りを溜めている。
民はエルフを亜神として崇める。完全な異教だがその影響は今でも残っている。事実、ついてきた二人の騎士は言葉には出さないが脅えだした。
「そ、そのために私たちは来たのです。水の乙女よ」
見えない精霊に訴える若い娘に苦笑い。感受性の強い娘だ。
ひょっとしたら精霊使いになれるかもしれない。
「原因は鉱山か」
私が問うと、『怒りの矛先はあちら』とエルフは告げる。ある種のテレパシーのような言語である精霊の言葉を使うエルフは身振り手振りを好まない。
矢張り鉱山が原因のようだ。呪いなど迷信だと言い切れないのかもしれない。
わたしの質問をいい意味で誤解したらしいエルフの乙女は『呪いは見えない』と呟いた。
知らなかったが彼女らエルフは呪いの類すら可視化できるらしい。『神』の字は伊達ではないか。
爽やかな森の香りに喉を潤し、風に身を任せてジテンシャを走らせる私には穏やかな森にしか見えないが。
ひょっとしたら王家の秘宝を使い、鉱山を閉鎖せねばならぬ事態に発展するかもしれない。
私は不安を振り払い、ジテンシャのペダルを強く踏んだそのとき。
しゅ。
後ろ髪を切り裂くかのように、矢が通り抜ける感触がした。
迎撃姿勢を取る間もなく、訓練された謎の集団が襲い掛かってきた。私たちは奮戦したが初手に躓き、軽装も災いしあっという間に崩れていった。