あなたがいるから
呆然とてのひらにのこったその存在を手に取る。
軽い。情けないほど軽くて、細い。小さく艶やかにきらめく。24インチ自転車の後輪スポーク。
「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっッッあぁぁぁぁっ?!! 」
うるさいな。誰が叫んでいるんだよ。
あれ。喉が痛い。視界が歪んで目が見えない。
自分が嗚咽を上げていることを
自らの声と喉の痛みで後から知った。
【最終話 あなたといるから】
『初めて会った日の事を。覚えているか』
千の剣が閃き、ぼくに、『俺』に一斉に襲い掛かる。
覚えているよ。君は毅然としていて、美しくて。
どこか切なげで。優しい笑みを心に隠していた。
「失敗した」「失敗した」「もうだめだ。世界は終わる」終わらせない。
誰が失敗しただって。小さな針金になったからといって。ふざけるな。
「『俺』は、『ぼく』は一人でも戦ってやる。
ぼく等が、俺らが愛する少女だった娘の為に。この胸に残る想いは。消せない」
「我が名はッ 『遥 正義』ッ!!
正義(justice)と書いてマサオと呼ぶッ 」
降り注ぐ剣を避け、かわし、拳ではじいてしのぐ。拳から血が噴き出る。
体中が切り傷に苛まれ、動きがどんどん鈍るのがわかる。
「私と結婚しろ。今すぐだ」「名前を教えてやったじゃないか」
蹴りを放ち、剣を弾き飛ばし、奴に迫る。裂帛の気合を入れた拳は空を切る。
奴は。石の顔の奴は笑ったような気がした。「ふざけるな。俺たちの。僕たちの絆は誰にも笑わせない」
両の石の瞳に向けて貫手を放つ。
奴の瞳にヒビが入った。すかさず足払いをかけ、追撃に入るが。
「!」背後から斬りかかる剣に舌打ちし、必死でしゃがんで交わす。
そこに稲妻や暴風、水鉄砲。次元断層に氷の刃。あらゆる破壊と悪意の力が襲い掛かる。
「春川なら、こいつにも勝てたかも知れないが」
無意味だ。春川は此処にはいない。そして此奴は。こいつはぼく等の。俺たちの敵だ。
俺たちの敵。俺たちの敵ってなんだ? 「俺」? 「ぼく」??
おれたち。おれたち。おれたち……。
戦いながら思案していたのが災いした。千の刃が襲い掛かる。かわせない。
すまない。『はなみずき』。『みんな』。ぼくは。俺は無力だった。
轟音より速く迫る刃。血の香りも知覚できない。恐らく痛みを感じる前に殺されるのだろう。
「ばか。おまえはばかだ。なんでも自分で解決するな。
私がいる。私も陥った愚かさだから同罪だがな」
かつて少女だった娘の懐かしい声が聞こえた気がした。
千の剣が僕を切り裂き、ぼくは絶命した。
脳裏にこれまでの人生が蘇る。幼年期、春川との出会い。否。出遭いだな。
初めての女に初めて心から泣いた少年刑務所での出会い。今まで逢ってきた人々。
毎日やってきて怒鳴り散らす俺。ぼく。反論するお客さん。憎たらしく開き直る自転車泥棒。
そして、ささやかに「ありがとう」とつぶやき「恐縮です」「ご丁寧に有難うございました」と返す僕の声。
懐かしい日本のスタッフたち、この世界で出会った仲間たち。『つきかげ』。『かげゆり』。フレア。
ガウルに『かんもりのみこ』、オルデールやワイズマンの憎たらしい悪態。エロ爺のソル。国王。
ポプラや『むらくも』の苦笑い。エースと酌み交わした酒。アンジェラさんの胸。もとい微笑み。
そして。そして……『はなみずき』。
目が開く。
ああ。ここは地獄かな。俺は天国なんてガラじゃないから、みんなには会えないだろう。
なんだろう。いい匂いがする。地獄に花なんて洒落ているじゃないか。
がれきの中、地面に手を付けて激痛に呻く僕は見た。
ぼくの周囲を覆う青い光を放つ輝きたちと、懐かしい無数の笑い声を。
『かげゆり』が笑っている。『つきかげ』が微笑んでいる。
オルデールが、エースが、ポプラが、皆が手をつなぎ、くるくる回りながら僕の周囲で踊っている。
死出の幻想にしてはいい趣向だな。俺は独り言ちると、彼らに腕をのばす。
僕と俺の手を取るのは、花の香りのする美しい皇女。
彼女の掌の暖かさが、凛と冷たい輝きに代わっていく。
冷たく、小さく輝く。小さな小さな針金に。
「これは? 」
ぼくの周囲を周回する青い輝き。
それは小さな小さな無数のスポークだった。
「まさか。まさか」これが君の力か。
「『はなみずき』」『肯定だ』
耳朶に彼女の声が聞こえた気がした。
『私は剣より、一本の針金になりたい。
力に正面から向き合わず、弱さをあえて晒しあい。
運命に向かって力強く回る車輪の軸を引き合い支えあう針金たちの一本に』
今、小さな針金たちはぼくの、俺の周囲を旋回し、
神の剣を受け流し、支えて宥め、押さえて引き合い。これが『はなみずき』。
これこそ。
『魔剣 はなみずき』。
人々の微笑みが、優しさが僕を、邪神像を包む中、ぼく、俺と邪神像は相対し、拳をかわす。
「ぼくは。俺は……『私』は」蹴り脚は恋人とかわすステップのように軽やかに。拳はキスより力強く。
「やっと気が付いた。君が好きだ。この世界が好きだ。元の世界と同じくらい。それ以上に」
『はなみずき』の針金たちの力強い支援を受け、ぼくは。俺は。『私』は拳を振るう。
「『私』の意志は。ここにある全ての微笑みだ」
手を伸ばす。あれほど憎かった女神像が泣いている子供のように見える。
「一緒にこないか? 皆が手を取り合い、一つとなる『車輪の王国』に」
微笑みながら手を伸ばす。いつまで泣いているんだ? 未来はきっと輝いている。
千の剣が万になり、万の剣が億になり『私』に殺到する。
「すべてに。感謝する。運命に。君に。君たちに出会えたことを」
私は両の掌を広げ、歓喜をもってそれを出迎えた。
迫る刃に瞳を閉じ、耳を澄ませ世界の香りに想いを寄せる。
吸う息に風を感じ、舌から喉。肺腑にすべてを受け入れ。
手を合わせ、祈る。
「祈りの掌は『梅の花』。祈って春の訪れを待つ」
手を広げ、生まれた空間を愛しく抱く。
「捧げる掌は『桃の花』。春の訪れを知らせる」
空間が広がる。掌が世界とつながっていく。
次々と来襲する億の剣を手刀で撃ち落とし、蹴りで薙ぎ払い。叫ぶ。
「咲き乱れるは『桜の花』。舞い散り命の喜びを告げる」
「耐えるその花は『椿の花』……奥義・『乱れ咲き』ッ」
両手を重ねて、繰り出す。
指先に触れる一〇〇〇の剣が春とともに砕ける氷河のように砕け、きらめき。消え去っていく。
その冷たい石の瞳が微笑んだように見えた。
「さあ。共に舞いましょう。女神様。『はなみずき』」
……。
……。
長い長い夢を見ていた気がする。
遠く、遠い異国の地で。花の香りのする美しい娘と出会った夢を。
彼女と共に抱いた夢を実現するため、奔走する夢を。
寒い。ぼくはかぶりをふる。
冷え切った店内の気温に虚しい抵抗を試みる電気ストーブのかすかな明かり。
カウンターの上に散らかる整理仕掛けの伝票類。売上袋。
どうやら、事務処理をしたまま疲れ切り、寝てしまっていたらしい。
喉がひりひりする。鼻水を袖で拭い嘆息。風邪を引いたかもしれない。
鼻をかむとほのかに花の香りがした。
え。これは。
その花は、今の季節にはそぐわない。
その花の香りは、ずっと嗅ぎ続けていた記憶のある香り。その花は。その花は。
小さな牛乳瓶に倒れそうに活けられたその花弁はぼくの記憶と。記憶の奥底の微笑みとかぶる。
外から「早く開けろ」と叫ぶ声が聞こえる。
住宅街なんだから静かにしてほしい。開店時間は一定なんだけど。
不思議な夢の感傷も出来ないまま、ぼくは。『私』はふらふらとシャッターに向かう。
「早くしろ。お前はこれ以上私を待たせるのか。正義」「?! 」
心臓の音が跳ね上がる。肌が泡立ち、背の毛が立つ。
喜びに内臓が跳ね上がる。待っていた。何百年も。何千年も。君の声を聞くためだけに。
シャッターを押しあけると美しい金髪の女性が艶然と微笑んでいる。
「これ以上、私を待たせる権利は貴様にはない」「はい」
黄金色の太陽の輝きが僕らを包んでいく。彼女の香りと体温がぼくにぶつかる。
「もう。待たない。待ってやらない。私から、お前を奪いに来た」
柔らかく暖かい味が唇に、歯に、喉に伝わってくる。彼女の華奢な身体がぼくにかかる。
ちりん ちりん。
開店した貸し自転車屋に、お客さんたちの鳴らすベルの音。
ぼくらの一日が。また始まる。
~ ファンタジー世界で『貸し自転車屋さん』はじめますた。 お し ま い ~