ばーか
拳を握り。彼女の残滓を振り返る。
女神像は語らず、ただ無言で剣を揺らして迫る。
小さな狼の赤子は解放された。勇敢な一人の皇女の手によって。
「こうじょ……さま」「『つきかげ』。ねぼすけだな」ニコリと笑う彼女。
「ゆり……は」「気にするな。軽く怪我しただけだ」勿論嘘だ。
びきびきと砕ける像は再構成され、再び一つの像となる。
「これは」ぼくの頬が引きつり、彼女の苦笑いが悲痛なものに。「最悪だな」
眠る小さな小さな狼の赤子を抱きしめ、慈しみながら膝を落とす彼女は夢をみるようにつぶやく。
「空手ってここまでデカい敵相手に使う武術じゃないんだが」と言うか対人用だ。間違っても牛だのクマだのを殴る武術ではない。アレはパフォーマンスだ。
「大笑いだな。『つきかげ』の要素はむしろ奴の戦闘能力を押さえていたということだな」震える掌で狼の子供を撫でながら彼女はつぶやく。
「うわぁあぁあああぁあぁっ 」「もうおしまいだっ 」
まだ生き残っている人々もいるにはいるが、確かに逃げ場はない。
「ほら。君だけでも逃げろ」もう私は立てそうにない。彼女は弱弱しく呟くとめきめきと音を立てて再構成されていく像を無視してぼくに、『俺』に告げる。
「最後の願いだ」「なんだよ」
彼女の真面目ぶった表情は血の気が無く、唇は弱弱しく震えている。
力の抜けた身体からは血の臭い。舌だってろくに動いていない中彼女はつぶやく。
「マサオ。遥 正義。愛している」「ぼくもだ。俺も」
両手に伸し掛かる彼女の重みは羽根のように頼りない。
それでも彼女はゆっくりと目を閉じ、小さく唇を突き出した。
そういえば長い付き合いなのに一回も。邪魔が入ったり誤魔化したりしてたな。
彼女は残った僅かな力でもう一度唇を突き出す。その頬はもう赤みを帯びることはない。
ぼくの。『俺』の腕は力が抜け、もう拳を振うに至らない。再構築されていく彫像に対しては諦めと言うか諦観と言うか。もうどうにでもなれだ。
彼女の甘くかすかな息が触れる。
彼女の弱弱しく響く心臓を抱きしめるようにぼくはその身体を支え、
彼女の柔らかい髪をもう感覚が無い指先で愛で。ゆっくりと唇を落とした。
思いのほか強く抱きしめ返されて戸惑う『俺』。
彼女の血の味の残る柔らかで甘い舌がぼくの舌と絡み合う。
ゆっくりと彼女の身体から力が、命の兆しがなくなっていく中ぼく等は抱きしめ合い。
ぷはっ 急に彼女が『俺』から身体を離し、ニヤリと笑う。
「バカだな。何度も命を狙った女の言うことを信じるなど」はい?
「『真実の愛と口づけ、お互いの名と共に』」
歌うように、涙を流すように彼女の唇から言葉が漏れる。
「我、汝の剣となり永遠に寄り添うことを誓う』」
そりゃ、お前なら騙されてもいいさ。
「姉上はいい女だぞ。物凄くッ! ……悔しいが国を任せた」ばかいえ。
挑戦的な笑みを浮かべたまま彼女は微笑み、軽く瞳を閉じてまたぼくの唇を奪う。
「くそ。何度でもやりたい。腹が立つ。こんな状況なのに」今更バカップルしてもなぁ。
乾いた笑みを浮かべ、再構成されていく『女神像』に泣き笑いする俺と彼女。
もう万策尽きた。身体からは血が抜け、骨から力が抜け、気力も萎えた。
最後の最後にやっている事ってバカだよなぁ。ほんと。みんなには申し訳ない。
「肯定だ」彼女の身体から力が抜けていく。その表情は儚い。
「さらばだ。マサオ。そしてこれからは永遠に」??
死に向かって歩む彼女の身体からは想像もつかないほど強い声が響く。
彼女の身体を中心に光の柱が立ち、さわさわと集う力が爆発する。
「我。『遥 正義』と共に歩む剣となり、彼の者の守護となる。皇族の祈りと勇者の勇気に祝福を。我が名は『はなみずき』。寄り添い集う一本の針金なり」
白い光は青く、蒼く彼女を包んでいく。
必死で『俺』を手繰り寄せようとする手は儚く脆く。
彼女を手繰り寄せようとするぼくの手は虚しく宙を切る。
光の柱は収束し、小さな輝きとなって集い、勝気な彼女の最後の笑みと共に消え去った。
瓦礫の中、ぼくは呆然と座り込む。彼女の残滓、彼女の体温が残っている腕。
彼女の重みを掴んでいたはずの掌に残るのは小さく、軽く、ちっぽけな一本の針金のみ。
「『はなみずき』? 」「『最初の剣士』の伝説に光あれ。マサオ。愛している」
『はなみずき』? どこだ? 周囲を見回す。そして掌の上の小さな小さな。青く光を放つちっぽけな針金の頼りなげな重さに気づいた。
これが。彼女。
これが彼女なのだと。
手足から急速に力が抜けていく。
「『カシジテンシャ』とはなんだ? 」「し、失敬した。物珍しさに」「行ってくるッ! 」「おまえもそろそろギルドカードを作ったほうがいい」声が聞こえる。
これは、彼女の記憶?
彼女の手を男の手が掴む。
心臓が跳ね上がり、どきどきするのを、頬の熱さとゆるみを押さえようとする彼女に彼、つまり僕が告げる。踊ろうと。
彼女の足が軽やかに跳ね、石の橋の上に衝撃を伝える。
完成仕立てのつるつるした石碑に指先をなぞって微笑む彼女。
ふわふわした触感を楽しんで『いぬじゃない』との抗議を受け流す彼女。
煎った大麦での麦茶の代用珈琲に舌鼓を打ち、明るい未来を語る彼女。
瞳の下に広がる群衆。彼女を讃える声。べたつく油、爽やかな石鹸の感触。
アンジェラさんとやり取りを交わす男に小さく侮蔑の瞳を向けるも無視されて肘を叩き込む感触。ほのかな心痛。剣を取り、萎える手足を奮い立たせ、こわばる声を張り上げて指揮を飛ばす戦場の記憶。
きゅ。
まだ少女の姿を残す彼女の手を握る。
振り仰いでみると、それはぼくの鏡に映った顔。
彼はただ微笑んでいる。この国は良くなると支えてくれる。
信じたい。信じる。未来は明るいものになると信じて生きていく。
一瞬の幻想は彼女の一生をなぞらえ、ぼくは再び瓦礫の下に。
ぼくの掌には。彼女がいる。小さな。小さな一本の針金となって。
生暖かいものが視界をゆがめる。掌が濡れる。胸が揺らぎ、喉から空気が漏れた。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」