17<旅行前夜と、喧嘩の鉄則>
私が放ったキャンディの袋(20個入)は、結構なスピードをつけ、見事に幼馴染みの顔面へとクリーンヒットした。
「……」
七緒がゆっくりとこっちを向く。
その据わった半眼はとても険悪で、どす黒い怒りのオーラが辺りに見えるようだった。
「……何すんだよ」
不機嫌全開の声。
突然現れた通り魔の如き私に物を投げつけられ、それが顔面を直撃したのだから、当然だ。
一方私はほんの少し泣きそうになってしまっていた。
七緒が私から視線を逸らさずに、しっかり目を見て言葉をかけている。たったそれだけのことなのに、2週間ぶりともなると軽い感動すら覚えてしまう。
どんだけ低下しているんだ、私の幸せレベル。
しかし今は嬉し涙を流している場合ではない。私は彼を追いかけた本来の目的を思い出し、ぐっと気持ちを引き締めた。
七緒を見据え、口を開く。
「私に何か怒ってるわけ?」
予想以上に低い声になった。
「もうずっとちゃんと会話してないし、挙動不審だし、気まずくて気まずくて、何日経っても気まずくて、寝ても覚めても気まずくて……嫌だよ、こんなの」
七緒は黙って私を見ていた。
口を堅く結び、怒っている風でも悲しんでいる風でもなく、その表情は何とも掴みにくいものだった。
「明日からの修学旅行だって、こんな状態で過ごしたくない。……だから、」
少し迷って、言葉を切る。
私は相手の隠された気持ちを察して上手く動けるほど頭も良くないし、人間も出来ていない。
かといって、このまましおらしく七緒との距離感に落ち込む日々を過ごし続ける気もない。
だから、この状況を打破したいと思ったら、もう「ぶつかる」のみ。
正解かどうかはわからないけど、単純なこの頭にはそれしか方法が浮かばないのだ。
私は思い切り息を吸い込むと、力の限り叫んだ。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え!!」
突然の大声に、七緒がギョッと目を見開いた。
だけどそんなことを気にしていられるほど、今の私は冷静ではない。ここ2週間胸に溜まっていたもやもやが一気に爆発したような気分だ。
「嫌なこと言われるより、変に引きつり笑い浮かべられるほうがよっぽど辛いよ! 言いたいことは全部言ってよ! この十数年間で人のこと散々アホだのおばさんだのおっさんだの不審者だの言っといて、今さら遠慮することなんか何もないでしょ! ばーか!」
「ば……」
聞き捨てならない、といった感じで七緒の眉が動く。
「お前……ここで馬鹿はねーだろ、馬鹿は!」
「馬鹿だから馬鹿って言ったの! 私と話すたびにウヨウヨウヨウヨ目ぇ泳がせちゃってさー! そんな七緒、気味悪いんだよ!」
「気味悪いって喧嘩売ってんのか!」
「なんだこのやろー元気ですか!」
「その猪木顔やめろよ似てるぞ!」
次の瞬間、白熱の言い争いは停止した。
東家の玄関を開け、中から怖い顔した明美さんが現れたのだ。
「お前らの声、辺りに丸聞こえだぞ」
「……」
「ご近所迷惑だろうが。密会は結構だけど、痴話喧嘩なら小声でやりな」
それだけ言うと明美さんは再び家の中へ引っ込んだ。
密会でも痴話喧嘩でもない! と否定をする余裕もないくらいの妙な迫力。さすがは元ヤン……と言ってしまって良いものか。私と七緒は言葉を失った。
しかし確かにこの怒鳴り合いはご近所迷惑。他人様に迷惑をかけてしまっては駄目だろう。
私たちは先程よりも互いに距離を詰めると、明美さんの忠告通り小声での喧嘩を開始した。
「だから……つまり、最近の七緒のハッキリしないキョドキョドした態度、正直言ってほんと嫌」
「別にキョドキョドはしてねーだろ」
「嫌すぎて今日だって楽しい気分でお菓子選べなかった。私の1500円返せ」
「その理論おかしいだろ。ていうか1500円分もお菓子買ったのかよ」
ひそひそと小声で、しかし殺気立った雰囲気で言い争う2人組は周囲から見たらさぞかし異様だろう。
だけど幸いなことに今現在、辺りに人はいない。私たちは心置きなくバトルを続けられる。
「え、何、今のまさかダジャレ? お菓子とおかしいで掛けてる?」
「ち、違……」
しまった、という顔で七緒。
「やだー寒いっ。春なのに寒いよー七緒のせいで」
「違うって言ってんだろ!」
耐え難そうに、七緒の声のボリュームが上がった。
私は人差し指を顔の前に立て「しー」とそれをたしなめる。
「ご近所迷惑だよ、七緒」
ぶち、と何かが切れたような不吉な音と共に、彼の周りの温度がぐっと上がった。瞳の中ではゆらゆらと、怒りの炎が燃えているのが見えた──ような気がした。
あら、ついに本格的にスイッチ入っちゃった?
そりゃあ私だってできることなら、穏便に平和に解決したかった。だけど、ここで引き下がってしまったらきっと彼の本音は聞けない。
先に目を逸らしたら負け。これ、喧嘩の鉄則。
私は覚悟を決め、七緒の視線をまっすぐ受け止める。
「言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「そんなら、言わせてもらいますけどね」
やけに落ち着いた口調で七緒が言う。
「山上から、心都が好きだって宣言されたんだけど」
その場に倒れそうになって、なんとか持ちこたえる。
──こいつ、山上からは何も聞いていないって言ったくせに。やっぱり嘘だったんじゃないか。
恨みがましく七緒を睨むと、彼は全くひるむことなく私を見返し、言葉を続けた。
「で、心都はその気持ち知ってていつも公園で待たせたり、日々アタックを受け続けてるんだろ。お前、こないだ好きな人いるって言ってたよな。それなのに山上にこんなハッキリしない態度取るのってどうかと思うけど」
「べ、別にハッキリしてないわけじゃ……」
見事なまでの形勢逆転。
私はもうしどろもどろで、どうにか視線が泳がないよう耐えることで必死だった。
七緒は目を眇め、驚くほど低い声で言った。
「その気がないならきっぱりお断りすればいいだろ。その気があるなら山上にちゃんと良い返事して付き合えよ。今のフラフラしてる心都は、山上にも、そのどこの誰だか知らない好きな相手にも失礼だ」
「……お断りはしてるけど山上がまだ納得してなくて私に公園のオーナーになれって……」
「うわ、何それ。魔性のオンナ気取りですか」
「違う! 違う違う違う!」
つい叫んでしまった私に、今度は七緒が口元に人差し指を当てシャラップサインを送る。
「ご近所迷惑」
「……くっ」
言葉に詰まる。
彼の言うことは全くもって正しいのだ。
私の煮え切らない態度はきっと不誠実で、山上の純粋な気持ちと貴重な青春時代の一部を浪費させているのだろう。
そして私の発狂手前の大声は、この夕飯時、ご近所の皆さんの一家団欒をぶち壊すだろう。
そう。
七緒は、とても正しいのだけど──
「……そんなの七緒に関係ないじゃん」
今まで以上に小さな声で呟く。
しかし向かい合う彼にはばっちり届いたようで、
「はぁ?」
かなり不本意そうにその眉がひそめられた。
「お前、関係ないってなぁ……、山上は俺に急にわけわかんねー宣戦布告を……」
と、ここまで言って、七緒は慌てて口をつぐんだ。
「え? せんせん?」
「……いや、なんでもない」
なんだよ、この期に及んでまたそれか。
私は七緒を睨みつけた。
彼の言い分は正しい。
正しくて正しくて、涙が出そうになるほどだ。
だけど七緒、1つだけ誤解している。
私の好きな相手は、どこかの知らない誰かさんじゃない。
「……私がフラフラしてようが、七緒には関係ないじゃん。なんでそんなイラつかれて変な態度とられなきゃいけないの」
喧嘩は先に目を逸らしたら負け。その鉄則を信じ守り続けてきたはずなのに、今の私はもう七緒の顔をまっすぐ見ることができなかった。
声が震える。
「七緒は関係ないんだから……私は私でちゃんとするから、ほっといて」
とてもひねくれたことを言っていると、自分でもよくわかっている。
だけどそれを理解した上でなお抑えられないくらい、私は荒れた気持ちだった。
先程の七緒の言葉が頭でリピートされるたび、水を含んだスポンジみたいに心がぐんぐん重くなる。
私は七緒にとって「女の子」じゃないんだから、きっと誰と恋仲になろうが彼にとっては大したことではない。そんなことはとっくにわかっているつもりだったのに。それでもなんとか変われるように頑張ろうって、今までは思えたのに。
『その気があるなら山上と付き合え』だなんて。
そんな明確な言葉は聞きたくなかった。
七緒は心底不機嫌そうに目を細め黙っていたかと思うと、やがて頷いた。
「……そーですね」
まるで某アルタの生番組の観覧客のような、投げやりな返事。しかしそこに快活さは全くない。
「悪うございましたね、関係ない人間が口を挟んで」
「……ふん。こちらこそ不快な気持ちにさせてすんませんでしたね」
妙に他人行儀なやりとりの後、私はくるりと踵を返し、東家の前から立ち去った。
また明日、とは言いたくなかった。
どう考えても、もう修学旅行なんか楽しめる気がしない。
のろのろと帰り道を歩いていると、今度こそ涙が出てきて、私は歯を食いしばった。
七緒に恋して5年目の春。
今まで一度も考えたことのない案が、初めて頭に浮かんでいた。
もう、諦めた方がいいのかな。
実る見込みのない七緒への片思い、そろそろ潮時なのかな。
この恋心はなかったことにして、昔のように完全に「幼馴染み」として仲良くしたほうが、きっとお互い嫌な思いもしないのかな。
ぐずぐずと鼻をすする。
言いたいことがあるなら言え! と促したら、本当に素直すぎる意見をもらってしまった。そして勝手に傷付いて喧嘩別れ。
我ながら、馬鹿らしくて呆れる。
だけどまさかあそこまで、何の躊躇もなく山上との仲について提言されるなんて。
──これってほぼ望み0だろ。
前に山上から言われた台詞が、心の奥でよみがえる。
そのときは、何くそどっこいとうちわで彼をひっぱたいてしまった私だけど、今なら素直に頷ける。
──うん。望み、0かも。
歩調を速めると、七緒を追いかけたとき派手にひねった左足首が、少し痛んだ。