15<帰り道と、おすそわけ>
通い慣れた東家の庭先で、まさかこれほど恐怖に打ちひしがれる日が来るとは夢にも思わなかった。
七緒はじっと黙り込んだまま、何も答えてくれない。
私はもうこの静けさが怖くて怖くて、少しでも気を抜けば発狂して叫びまくってしまいそうだった。
10秒ほどの沈黙の後、七緒はゆっくりと私に目線を合わせると、落ち着いた口調で言った。
「山上、何も言ってなかった」
「ほ、本当……?」
「うん。うちわで叩かれたこと以外は、何も」
じゃあ今の間は何?
そう問いかけたかったけど、そんなにキッパリ頷かれたら、私は何も言えない。
またしても妙な沈黙が辺りを包みかけた──のだが。
それをすぐに破ったのは、大きな音をたてドアを開けた明美さんだった。
「おい、七! お前ちゃんと心都を家まで送ってけよ」
その突然の提案を、私は慌てて打ち消した。
「え? いいよ、大丈夫だよ。まだ8時台だし、家まで5分もかからないんだから……」
そもそも今までだって七緒の家から帰るときに送ってもらったことなんか一度もない。
明美さんは大きく頭を振った。
「ダメダメ! 春は変質者が多いんだぞ! 心都も最近めっきり垢抜けてきたからこんな時間にふらふら歩いてたら危険だろ! というわけだから七、心都を家まで送って、ついでにコンビニで徐光液と寒天ゼリー買ってこい」
そう言って明美さんは、自分の息子に向かって革製の長財布を投げ渡した。
「……それがメインの目的かよ」
七緒はげんなりした表情で呟いた。
なるほど、と私も苦笑してしまった。
なんだかんだ言いながらも、財布を持って歩き出す七緒はやっぱり優しい(且つ、良き息子だ)と思う。
私は明美さんに「お邪魔しました」を言うと、七緒の隣に並んだ。
「……なんか悪いねー。わざわざ出掛けさせちゃって」
ひと気のない夜道を歩きながら、七緒に詫びる。
「別に。あの人の自己中には慣れてるし」
「寒天ゼリー、どうしても今すぐ欲しかったんだろうね」
「あー、最近ダイエットもどきみたいなことしてるらしいから」
「寒天ダイエット? って効果あるのかな。もしあるならちょっとかなり興味深いんだけど」
「わかんねーけど、でもうちの母親の場合、寒天とか食っても夕食の量そのものは減らしてないから意味ない気がする」
「あぁ、なんかすごい明美さんらしいね。っていうか明美さんスリムだからダイエットなんか必要ない気もするけど」
先程のような沈黙が嫌で、私はいつもの2割増お喋りになっていた。
しかし意外にも淀みなく会話は続く。
「なんか夏に爽子さんと南のほうに旅行行く計画立ててるらしい。それで海入るから痩せたいんだって」
「旅行かぁ、いいな。しかし水着を着こなすために痩せようだなんて、やっぱり明美さんまだまだ若いね」
「つーかあの人、水着うんぬんの前に極度のカナヅチなんだけどな」
「あはは。──そういや、もうすぐ私たちも修学旅行だね」
しんと静かな辺りに、私たちの声と足音だけが響く。
七緒の家と私の家の間の、5分足らずの道。幼い頃から飽きるほど通ったはずなのに、今日はなんだか、いつもと違う道みたいだ。
「俺、北海道ってあんまり詳しくないけどどの辺が名所なんだろ」
「私も全然知らない……どっかのラベンダー畑とか、どっかのでっかい時計台とか?」
「……ちゃんと調べとかないと班行動のとき大変そうだな」
「でも私たちと美里と田辺だもん。こないだの遊園地みたいに、きっと楽しいよ」
「田辺が暴走しなきゃいいけど」
「有り得そうだよねー。そのときは七緒、とめてよね」
「火がついた田辺をとめるのは、栗原以外の人間には無理だろ。同じ班に決定したときだって舞い上がって浮かれまくって『田辺くんうるさい』って一蹴されてたし」
「気の毒に……」
だらだらと喋っているうちに、私の家へと着いた。
私は七緒を見据え、笑顔で言う。
「送ってくれてありがとう。買い出し頑張って」
「おー。……じゃあな」
「……うん。また明日」
──あぁ、やっぱり。
やっぱり変だ。
我が家の玄関前で七緒の背中を見送りながら、私は思った。
だって七緒、帰り道で一度も目を合わせてくれなかった。
私、何かしてしまったんだろうか?
知らず知らずのうちに、彼の態度をここまでぎこちなくさせるような失態を犯してしまったんだろうか?
考えても考えても、わからない。
春の夜道で、うちわを両手にぎゅっと抱きしめ、私はしばらく自宅に入ることができなかった。
翌朝。
「だーれだ!」
その声と共に私の視界が塞がれた。私は前回同様とても落ち着いた気持ちのまま、背後から手を回す彼を呼ぶ。
「……山上」
「うお! よくわかったな!」
朝一だろうがなんだろうが、彼は元気だ。私の目から両手を話すと、快活に笑った。
「こないだ学習した通り『だーれだ』方式でやったのに」
だって、声色がまんま山上だったし。そもそもこれって、ガチで背後の犯人を言い当てるバトルじゃなくて、恋人や親密な友人同士がただのじゃれ合いのためにやる可愛い遊びのはず。
しかしそんな反論を繰り出すこともせず、私は相変わらず落ち着いた──というか、どんより沈んだ気持ちだった。
「……山上、こんな所にいていいの?」
ここは有坂中学校の正門から300メートルも離れていない大通り、いわゆる正真正銘のスクールゾーン。登校時間真っ只中の今、隣の中学の学ランに身を包んだ大柄な彼は例によってこの場でかなり浮いていたけれど、もはやそれはどうでもいい。
そんなことより、隣校といっても歩いて15分程かかる西有坂中に通う彼が、今こんな場所で油を売っていてはおそらく遅刻確定だろう。
私の心配をよそに、山上は明るく笑った。
「大丈夫、大丈夫。ダッシュすればギリギリ遅刻にはならないから。それよりどうしても朝から杉崎と話したくなってさ」
まさかまた『愛を語る』んじゃないだろうな。
私の若干の警戒を汲み取ったのか、山上はさらりとした口調で言う。
「こないだは怒らせて悪かったな。そんなつもりじゃなかったんだけどさ」
「……私も叩いてごめんね。うちわ、届けてくれてありがとう……」
自分でも思っていたより、絶望的で悲しげな声になってしまった。
山上はきょとんとした表情で私を覗き込む。
「なんだ、なんかへこんでんのか?」
「……へこんでないよ」
嘘だ。
私は心に重度のダメージを負っていた。理由はもちろん、昨日の七緒のおかしな態度。一晩じっくり考えてみたけれど、どうしてあんなことになってしまったのか、答えはやっぱり出なかった。
ついつい重苦しいため息を吐きそうになって、なんとか飲み込む。
そのとき、山上がポンと手を打った。
「もしかして東と何かあった?」
飲み込んだため息が喉に引っかかって、むせた。
「ごほっ」
「あ、やっぱり図星なんだな」
この勘の鋭さは、一体何なのだろう。
私は少しの恐ろしさを感じ、山上から視線を逸らさずにいられなかった。
「……大したことないよ。いつもの喧嘩」
これも、嘘。
いつものくだらない喧嘩とは違って、お互いぎゃーぎゃー言い合うこともなければ、明確な理由もわからない。
だけど自分自身に言い聞かせるように、私はそう言い訳じみた説明をした。
「ふぅん」
山上は眉間にしわを寄せ、腕組みをする。
「俺のせいかなー……」
「ん? 何?」
難しい顔で何事かぽつりと呟いた山上の声は、よく聞こえなかった。いつも異様に声の大きな彼にしては珍しい。
もう一度問い直そうとした瞬間、山上が自分の腕時計を見た。
「やべ。そろそろ行かなきゃ」
彼はあまり焦っていなさそうな口調でそう言うと、私に向かって右手を上げる。
「じゃーな、杉崎。また会いに来るから」
私が何か言おうとする前に、颯爽と去っていった。
やはりああ見えて、少しは急いでいたらしい。遅刻しかけるくらいなら、わざわざ待ち伏せすることないのに。なんでこんな変な時間の使い方をするんだろう。と、ここまで考えて、「もしかして私に謝るためだけに朝っぱらから訪ねてきた?」と気付いた。
「……」
本当に、良い奴なんだけどな。
再会したとき私、『今の山上とならかなり良いお友達になれそう』なんて1人確信していたんだ。
七緒と山上も仲良さそうにしていたし、元道場メイト3人、5年を経てきっと平和に友情を育めると思っていた、あのときは。
つい最近のことなのに、なんだか遠い昔のようだ。
だってあの日はまだ、七緒と普通に笑って話せていた。それが当たり前のことだった。
──七緒。
喧嘩なんかたくさんしたけど、こんなのは初めてだよ。
本当にわけがわからない。
私は山上を見送った体勢のまま、ぼんやりとその場に立ち尽くした。
「杉崎先輩?」
遠慮がちに声をかけられ振り返ると、そこには通学中の華ちゃんがいた。
「華ちゃん、おはよう」
「おはようございます。……どうしたんですか? こんな所で立ち止まって」
華ちゃんは私の元へ近寄ると、首を傾げる。
「ちょっとボーっとしちゃって。寝不足かな」
はは、と曖昧に笑って誤魔化す。できればこの優しくて素直な良い子に心配をかけたくない。
しかし華ちゃんは不安そうに顔を曇らせた。
「本当に大丈夫ですか? だって、なんか今にも泣きそうな顔してますよ……?」
華ちゃんの優しく温かい声。
私の胸に染みて、色々なものを溶かしていく。
「くッ……」
食いしばった歯の隙間から、ついつい男らしい嗚咽のような声が漏れる。
「え! だ、大丈夫ですか? 涙ぐんでますよ先輩!」
「うぅ、大丈夫。ごめん」
ごしごしと拳で目元をこすり、私はなんとか気持ちを落ち着かせた。
「一体どうしたんですか?」
「……七緒が、わけわかんなくて、なんかよそよそしくて……」
「え?」
私は校門から下駄箱へ行く道のりで、華ちゃんにここ最近の奇妙な状況を打ち明けた。
華ちゃんは真剣な表情でそれを聞いてくれていたけど、話が中盤を過ぎた辺りから何やら頬がほんのり上気し、瞳がきらきら輝きだした。
そして全てを話し終え、それぞれの学年の下駄箱で靴を履き替えまた合流した瞬間、彼女はおもむろに言った。
「それって……東先輩の態度がおかしい理由って、杉崎先輩がその山上さんと仲が良いことに対するやきもちじゃないんですかっ?」
華ちゃんにしては珍しく、少し興奮気味な様子。
「きっとそうですよ、先輩っ」
しかし対する私は、彼女に申し訳ないくらいに、その説には食いつくことができなかった。
「……いや、それは……ないな。うん、ないない」
右手を振って否定する。
悲しいことに、七緒のやきもちが有り得ないことは私が誰より知っている。だって、私と山上が2人っきりだった現場を目撃した直後の七緒の態度はまだいつも通り、なんとものん気なものだったし。山上の「愛を語る」発言を「おもしろい」と評していたくらいだし。それに何より、もし七緒が妬いてくれるだなんてそんな胸きゅんな状況が訪れるのなら、それは数ヶ月前、「好きな人がいる」と私がカミングアウトしたときだったはずだ。
以上のことからこの「七緒やきもち説」、私は見事なまでに完璧に、自信を持って否定することができる。……あぁ、なんだか空しくなってきた。
華ちゃんは心から残念そうに肩を落とした。
「そうですか……」
「……ご、ごめん」
思わず、ご期待に添えなかったことを謝ってしまう。
「でもやきもちじゃないとすると、何でしょうね?」
「うーん……」
2人そろって首を捻っても、結局始業5分前のチャイムが鳴るまで答えは出なかった。
2階の階段の踊り場でくすぶっていた私たちは、ここからそれぞれの教室──華ちゃんは4階、私はこのまま2階──へ向かうことになる。
真相は相変わらず闇の中だけど、華ちゃんに悩みを聞いてもらって少し回復した。
「ありがとうね、華ちゃん。……愚痴っちゃってごめん」
「いえ、杉崎先輩の力になれるんなら私、話くらいいくらでも聞きます」
今度こそ号泣しそうになり、必死で堪える。
やっぱり彼女は天使だ。
別れ際、私は先程から気になっていたことを今更ながら聞いてみた。
「それにしても、今日はやけに荷物多いね。それ全部教科書?」
華ちゃんは通学鞄に加え、手に手提げ袋を持っていた。中には書物がどっさり入っていて、かなり重そうだ。
「これ、参考書なんです」
「へぇー、すごい量だね。塾で使うの?」
華ちゃんはほんのり頬を染め、嬉しそうに笑った。
「今日の放課後、禄ちゃんと2人でお勉強会なんです」
「べ、勉強……!? 禄朗が!?」
雷に打たれたような衝撃を受ける。
あの禄朗が、お馬鹿で暴力的で論理的思考が一切なさそうな禄朗が、勉強だなんて! 失礼ながら全く想像できない。
硬直する私を見て、華ちゃんは柔らかく微笑んだ。
「私もびっくりなんです。でも禄ちゃん、1年生のときもかなり成績ひどかったから、今学期の中間と期末で全科目平均点以上取らないと夏休みは補習だ、って先生に言われちゃったみたいで……。だから勉強教えてくれって私に頼んできたんです」
「へぇー、禄朗がねぇ」
「夏休みの補習が相当嫌みたいで……」
なんだか感心してしまった。
少し前の禄朗と比べると、かなり真面目に「中学生らしく」なってきている。それに何より、今まで自分から遠ざけようとしていた華ちゃんにこんなにも素直に頼み事ができるようになったのは、明らかな進歩だ。
華ちゃんの幸せそうな顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってくる。
「勉強会頑張ってね、華ちゃん」
「はい」
「勉強難しくて禄朗がイラつきだしたら、容赦なく頭叩いちゃいなね」
「ふふ。はい」
華ちゃんの後ろ姿を見送りながら、私は幸せのおすそわけを感謝した。
そしてその嬉しい気分の中に、ほんの少しの寂しさを発見してしまい、思わず苦笑した。
私もやっぱり──戻りたいな。
七緒と笑って会話できる、いつもの関係に。