7<アメリカナイズと、首ったけ>
七緒に促されようやく鉢巻きを外した私は、それを紙袋に戻す際、ある違和感を感じた。
「……あれ?」
がさごそと音を立て、袋の中を探る。
そんな私を、七緒が不思議そうに見ていた。
「何してんの?」
「必勝うちわがない」
「うちわ? 今持ってたじゃん」
「いや、もう1つ美里用に持ってきたんだけど、それがないの」
試合が始まる前はしっかり手に握っていたから──もしかして、観客席に忘れてきてしまったのだろうか。
少し離れた美里の様子を伺うと、笑顔の彼女は未だ色めく柔道部員たちに囲まれていた(「栗原さん、次の試合も絶対見に来てくれよな!」「俺、栗原さんが応援してくれるなら死んでも勝つよ!」「もういっそうちの部のマネージャーになってくれ!」ってな具合だ)。
この状況で美里に近付くのは、かなりの至難の業だろう。
私は隣の七緒に告げた。
「多分、観客席だと思う。ちょっと戻って見て来るね」
「一緒に行く?」
「ううん、大丈夫。ちゃっちゃと行って取ってくるよ」
それだけ言うと、私は体育館に踵を返した。
もしあのうちわが今も館内にあるとしたら、誰かに発見されるのも時間の問題だ。
背中を冷や汗が伝うのを感じる。
七緒には見せなかったけど、実はあのうちわの裏面には派手な赤文字で『lovely☆smile☆nanao』と書いてあるのだ。制作時の深夜のテンションと、作業しているうちに何やらアイドルのライブグッズでも作っているような錯覚に陥ってしまったのが主な原因だった。
さすがにあれを他校に忘れ物として残していくのは恥ずかしすぎる。
だから私は、普段の歩調の何倍もの速度で観客席へ向かった。
「あった……」
探し求めていたうちわは、私が先程まで座っていた観客席の辺りに落ちていた。
私はホッと息をついた。これでよそ様の学校に変な忘れ物を残さず帰ることができる。
体育館内は、試合後の撤収作業で賑わっていた。
50人はいそうな西有坂中学校の柔道部員たちがパイプ椅子を運んだり床を拭いたり、せっせと動いている。
「おっ、杉崎ぃ!」
本日二度目となる豪快な呼びかけで振り返ると、そこには予想通り、山上がいた。
彼は柔道着のまま、両手に3つずつパイプ椅子を持っている。
「山上、お疲れ様」
「おう。何やってんだ? もう有坂中の奴ら全員帰っただろ」
「ちょっと忘れ物しちゃって」
慌ててうちわを背後に隠す。
「片付け大変そうだね」
「まぁな、会場校だからしょうがねぇよ。その分こっちはギリギリまで練習できたわけだし」
私は、試合開始直前に見た山上の迫力満点の背負い投げを思い出した。
「山上、きっと次は試合で大活躍だね」
「ははは! そうだといいんだけどな」
「いや、お世辞じゃなくて本当、そう思うよ」
山上はその場にパイプ椅子を降ろすと、
「杉崎! お前はいい奴だなー!」
ガバッと私に抱きついてきた。
あぁ、やっぱり彼は帰国子女だ。私は妙に納得した。
しかし気さくなのは良いけれど、ものの加減を知らないのはいかがなものか。
力いっぱい抱きしめられ、私の呼吸は限界だった。
「ぐっ……や、山上、苦しいんだけど」
「ははは! わりー、わりー」
そう言って山上は私を離した。
「つい嬉しくてな。別に窒息死させるつもりはないんだけど」
「はぁ」
よくよく考えれば私、男性にギュッとされたのなんて生まれて初めてだ。
少しびっくりしたけれど、相手がアメリカナイズの山上だからか妙なドキドキはなく、私は割と落ち着いていた。例えるならば、大きなゴールデンレトリバーに体当たりを食らった感じ?
「今日さ、杉崎、すげぇ全力で東のこと応援してたよな」
「そ、そう?」
「おう。遠くから見てもわかったよ」
ひょい、と背後に回ると、山上は私が隠していたうちわを手に取った。
「こんなうちわまで作るなんて、なかなか出来ることじゃねーって」
バレていたのか。なんだか居心地が悪くなり、私は山上から視線を逸らした。
「『lovely☆smile☆nanao』……うん。やっぱり尋常じゃねーよ」
「……山上、それ誉めてるの? どん引きしてるの?」
「もちろん誉めてんだよ!」
力強く山上が言う。その表情はとても真剣で、嘘をついているようには見えない。
もしかして本当に、この「尋常じゃない」は誉め言葉なのだろうか。
「……じゃあ、ありがとう」
「おう」
山上は何かに納得したような口調で呟いた。
「そうか。やっぱり、杉崎は東が好きなんだな」
私は転倒した。
「どうした、杉崎。段差も何もねぇぞ!」
「な、何! いきなり何言うの!」
先程抱きつかれたときとは比べものにならないほど、私の心臓は脈打っていた。
山上は私を助け起こすと、けろりとした表情で言う。
「見てりゃわかるよ。これで気付かないのなんて、相当鈍感な奴だけだって」
「……う」
その相当鈍感な奴っていうのが、他ならぬ七緒なんだけど。
「なぁ、俺、間違ったこと言ってないよな? 東が好きなんだろ?」
山上がまっすぐ私を見つめ、問う。
どうして私の恋心は、こうもことごとく言い当てられてしまうのか。
「……うん」
私は頷いた。体中の血液が顔面に集中しているのが自分でもわかる。
出来ることなら今すぐ、体育館の隅に山積みになっているマットレスに潜り込みたい気分だ。
「そうか、やっぱり」
山上は腕組みをして言った。今までに見たことのないような、難しい顔をしている。
「困った」
「ん? 何が?」
豪快で、突き抜けて明るくて、心と行動が直結しているようなこの人にも困ってしまうことなんてあるのか。
若干失礼な感想を抱きつつ、私は山上に尋ねた。
「悩みごと?」
「いや、本当に困ったよ。だって俺、杉崎のこと好きなのにさー」
さらりと言ったその一言。
「え?」
瞬間、私の頭は真っ白になった。
山上はひとり頷きながら、やけに真面目な顔で語る。
「だから、俺は5年前から杉崎が好きなのに、杉崎は東にめろめろなんだもん。まいっちゃうよな」
だもん、って。
一体この人は、何を言っているのだろう?
「えぇ? ちょ、ちょっと……冗談だよね。だってあんた私のことめっちゃいじめてたじゃん」
「あぁ、それはさー、」
平然とした顔で山上は言う。
「好きな子ほどいじめたくなるっていうじゃん?」
言葉を失う私に、山上はさらに続けた。
「正直5年間離れてて恋心もちょっと冷めかけてたけど……久しぶりに会ったら杉崎、なんか可愛くなってるし、東のことを血相変えて応援する姿を見て、すげー良いと思った。まぁ再燃ってやつだな!」
当然ながら私は、異性に抱きしめられたこともなければ、可愛いと言われたことも愛の告白をされたこともない。
しかも相手は長年私の中で「いじめっ子ヤマザキ」としてインプットされていた、山上だ。
だから私の頭は真っ白で、何も考えられなくて、つまり──固まってしまった。
「…………えっと……」
「どわ、ストップ!」
山上が両手を突き出し、私の言葉を制した。
「勢いでぶっちゃけちゃったけど、いま告白の返事聞いても断られるのはわかってるから! だって杉崎は東に首ったけだもんな!」
「く、首ったけって……」
「だから、今のは忘れろ! 今後もっと俺のこと知って、5年間の空白をばっちり埋められたら、あらためてまた告白するからさ!」
言っていることが滅茶苦茶だ。忘れろと言われても、こんな衝撃的な出来事を簡単に忘れられるはずがないじゃないか。
「あ、やべぇ。顧問が睨んでる。ちっと喋りすぎたな」
山上が再びパイプ椅子に手をかける。片腕に3つずつ、両腕合わせて6つにもなるのに、彼はいとも軽々とそれを持ち上げた。
「んじゃ、杉崎、またな!」
普段の彼だったらきっと別れ際にバシバシ肩を叩くか、激しすぎる握手をしてくるところだろう。しかし今は両手が塞がっている。
だからなのか、山上はその大柄な外見からは想像もつかないほどチャーミングな表情で右目をつむった。
こんなに上手にウィンクする人を、私は初めて見た。
やっぱりこれも、いわゆるひとつのアメリカナイズ?
私は山上の後ろ姿を見送りながら、衝撃を受けすぎて痺れてしまった頭で、そんなことを思った。