5<お祝いの1ホールと、見学>
七緒の背が伸びた。
そんなおめでたいともいえる出来事を、当初そのナイーブさゆえに受け入れることができなかった私だけど、数日が経って徐々に気持ちも落ち着いてきた。
美里に豚と呼ばれてしまう日を迎えないためにも、なるべく甘いものを控える決心もついた。
しかし。
「お母さん、これは……」
リビングのテーブルには、たっぷりの生クリームに真っ赤な苺の乗ったケーキがひとつ。
ひとつといっても1ピースではなく、まさかの丸々1ホールだ。
「すごいでしょー? お母さん頑張って作ったの。ちょっと遅くなっちゃったけど、心都の進級のお祝い」
フリルのエプロンを身にまとったお母さんは、にっこりと笑って言う。
「さぁ、食べて、心都」
「お母さん、お祝いはほんと、ありがとう……。でも1ホール丸ごと?」
「大きい方が嬉しいと思って。心都、甘いもの好きでしょ?」
「今、夕飯食べたばっかりだよ」
「作りたてのほうが美味しいじゃない。今日食べられるだけ食べて残りは明日ね」
お母さんは私を椅子に押さえつけると、いそいそとティーカップの準備を始めた。
もう、逃げられない。
「早いもので心都ももう3年生なのねー。どう? 最高学年は」
「どうって、特には」
「あら、感動が薄いのね。明美なんか学生時代、すごい浮かれようだったわよー。名実ともに学校のトップに立てるわけだから。あ、高3の時の話ね」
「トップ?」
元ヤンの考えることはよくわからない。私はあまり深く追求しないよう、心に決めた。
「そういえば明日、七ちゃんの試合見に行くんでしょ?」
「うん。西有坂中との練習試合」
お母さんが嬉しそうに言う。
「仲良しねぇ」
「別に普通だよ。美里も行くし」
「美里ちゃんもだけど、七ちゃんともまた同じクラスで本当に良かったわよねー。一緒の時間が減らなくて、ひと安心じゃない」
「あ、安心なんてしてないよ」
「うふふ」
この母親は、私のなかなか報われない恋に気付いているのだろうか。今まで何度も頭をかすめてきた疑問だ。出来ることなら、それは絶対に避けたい。
「だって、あいつと一緒にいると、色んな女の子に『付き合ってるの?』とか詰問されるし、怖い先輩には睨まれるし、不良の男子生徒には罵倒されるし。かなり被害被ってるんだよ」
「そんなこと言わないの」
相変わらず楽しそうに微笑みながら、お母さんは軽く私をたしなめる。
うーん。やはり私の隠蔽工作、見透かされている気がしないでもないような、するでもないような……。
「今までみたいに一緒にいられるのも、いつまで続くかわからないでしょ。来年はあなたたち高校生なんだから」
言われてあらためて気付く。今年は受験の年なのだ。そういえば、もうすぐ第1回目の進路希望調査があると担任の先生が言っていた。
「……高校かぁ」
七緒は進路どうするんだろう。
いや、人のことを気にする前に、自分はどうしよう。中の中と中の下辺りをふらふらしているような今の私の成績では、今後の受験勉強をかなり頑張らないと行ける高校も限られてくる。
将来に一抹の不安を感じながら、その夜、結局ケーキを半分近く食べた。
我が校から歩いて15分程のところにある西有坂中学校は、まだ創立20年ちょっとの新しい学校だ。
校舎はもちろん校庭や体育館も比較的綺麗で、広々としている。
普段割と古めかしい校舎で学校生活を送っている身としては、非常に羨ましい。
「同じ地区の公立校なのに、新しいのと古いのではこうも違うのねぇ」
大きな体育館を見上げ、しみじみと美里が言った。
「美里、ついてきてくれてありがとね」
「いいのよ。西有坂中って、この辺の地区でもイケメンが多い学校ってもっぱらの噂だから、一度来てみたかったの。目の保養よ、保養」
「……そうですか」
どうりで、本来柔道に興味のないはずの彼女が、私の誘いにノリノリで応じてくれたわけだ。
この物騒な世の中、学校のセキュリティーもかなり厳しくなっている。試合の見学という名目でもなければ、他校の生徒が堂々と入ることなんてまず出来ない。
「で、どうよ。美里のお眼鏡に適うイケメンは、いる?」
体育館に入ると同時に美里に尋ねる。
館内の隅では西有坂中の柔道部の面々が、恐らくウォーミングアップなのか、軽い組み合いをしていた。
美里が小さな声で答える。
「私、うっかりしてた」
「何が?」
「柔道部に、私の理想の『バラが似合う王子様』タイプはいないわ」
あまりにも神妙な顔で言うものだから可笑しくて思わず吹き出すと、彼女に脇腹を小突かれた。痛い。
試合開始時刻の13時までまだ30分ほどあるというのに、辺りは既にたくさんのギャラリーでざわついていた。そういえばここの柔道部って、市内でもそこそこ強いんだっけ。
「うわ、あの人見て。すごーい」
と、美里が体育館の一角を指さす。
それは今まさに、西有坂中柔道部の中の1人が「どりゃあ!」と野太い声をあげ、組んだ相手を投げ飛ばした瞬間だった。
「なんかもうガタイからして他とは違う感じね。1人だけ柔道一筋20年ッスみたいな」
褒めているのか何なのかよくわからないセリフを美里が言う。
遠目だけど、柔道部軍団の中でも人一倍マッチョなその人物に、私はかなり見覚えがある。
「あれ山上だよ」
「えっ! 山上って……この間心都が言ってた、元いじめっこで、元七緒くんの道場メイトで、つい最近再会した、あの山上くん?」
「うん。その山上」
「へぇー。あの人と喧嘩なんて、小学生のときの七緒くん、命知らずねぇ」
思えば山上は昔から強かった。5年前の取っ組み合いでも、七緒との圧倒的な力量の差を見せつけていたのだ。
手加減を知らない子供同士で、あのとき大きな怪我がなかったのは今考えると奇跡だ。だって七緒、あの頃は私と戦ってもたまに負けるくらい弱かったんだもの。
あぁ、もしもあのまま私も道場に通い続けていたら、今頃山上の女版みたいなマッチョガールになって、七緒を投げ飛ばしたりできていたのだろうか……。
私がそんなことを考えている間に、ウォーミングアップは終了したようだった。
山上が汗を拭いながらこちらへやって来る。
「杉崎ぃ! 来てたのか!」
それなりに距離がある場所から見学していたのに、なんて目がいいのだろう。
山上は私の目の前に立つと、再会したときと同じように笑顔で肩をバンバン叩いてきた。
「見てたか、俺の背負い投げ!」
「う、うん。すごかったね。山上、試合出るの?」
「まさか。俺、まだ入部して数週間だぜ。今日は応援役だよ。今のは選手のウォーミングアップの相手してただけ」
「その割には豪快にきめてたね」
「おう。軽い練習のはずがついアツくなって投げ飛ばしたら、なんか顧問に怒られちったよ。ははは」
あっけらかんと言う山上だけど、笑い事ではない気がする。
「まー、ゆっくり見てってくれよ。杉崎も友達も!」
まるで自分主催のイベントであるような口振りだ。
笑顔の山上は、私と美里と順々に握手を交わすと、再び部員たちの元へ帰っていった。
「なんかすごい人ね」
呆然と美里が言う。
「うん。アメリカ帰りだから」
「それだけの理由で片付けられるもんじゃない気がするけど」
まぁ確かに、山上のあの性格は本人の地によるところも大きいだろう。
「豪快だし強引だし熊とか倒せそうな外見だし……七緒くんとは対極って感じねぇ」
同じ柔道部員でもここまで違うだなんて、不思議だ。
体重の階級が違いすぎるから有り得ないだろうけど、もしも2人が今もう一度組み合ったりしたら……恐らく七緒は死んじゃうだろうな、うん。
私が不吉な想像に身震いしている間に、選手集合のアナウンスが流れた。
試合が始まろうとしている。