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4<隠蔽と、傷だらけのローティーン>

 目を瞑り、精神を統一させる。

 深く、深く、深呼吸。

 心に思い浮かべるのは、清らかな水をたたえた美しい湖だ。

 きらきらと反射する日の光、滑らかな水面、触れるとわかる澄んだ冷たさ。

 ここは自宅のキッチンであるはずなのに、まるで清々しい森林にいるような錯覚を覚えた。

 気分が落ち着く。

 しばしの沈黙の後、カッと目を見開き、私は右手の包丁を激しく動かし始めた。

 包丁がまな板に当たる、小気味良いリズミカルな音が辺りに響く。左手は添えるだけ。力を入れすぎず、抜きすぎず、重要なのはどれだけ無駄な動作を省いてより多くの完璧な「粒」を生み出せるかということだ。

 刻むのはもちろん、ころころ可愛い玉ねぎちゃんである。

 きっかり3分間の格闘の後、私は手を止めた。

 まな板の上には細かく切り刻まれた玉ねぎがこんもりと積み上がっている。

 私はそれに顔を近付け、まじまじと凝視する。自ら判定を下すためだ。

 一見綺麗なみじん切りだが、よく観察するとまだキメが粗く、大きさが微妙に不揃いになっている。

 嗚呼!

 私は膝をついた。

「く……っ、駄目だ……こんなんじゃ、王者になんか成れやしねぇッッ!」

 ダン、と拳を床に打ち付ける。

「あらあら心都、何してるの?」

 キッチンに入ってきたお母さんが、ドアの前で目を丸くして訊ねる。

「……特訓という名の、スポ根ごっこ」

「まぁ、変質者みたいな格好しちゃってー。一体何の特訓?」

 そう。玉ねぎを刻むときに涙が出るのを避けるため、私は今、競泳用のごついゴーグル、更に花粉症用の大きなマスクを装着していた。ビジュアル的には最悪だが、これは確かに目が全く痛くならない。本番もこれで臨もう、と私は決心した(が、もういい歳だというのに今日も今日とてピンクのレースと薔薇モチーフの刺繍がふんだんにあしらわれたカーディガンに、白いフリルのロングスカートを着ている人から、格好のことについてとやかく言われたくない、本当に)。

 いよいよ大会は明日に迫っていた。私は夕飯の準備をしつつ、みじん切り練習のラストスパート中だ。

「絶対に負けられない戦いがそこにはあるんだよ、お母さん」

「あらそう。お取り込み中のところ悪いけど、七ちゃんが来てるわよー」

 ひょい、とお母さんの背後から七緒が顔を出した。

「よ、心都」

 私は声にならない声で絶叫した。そして咄嗟に、目の前のまな板にうずたかく積まれた玉ねぎのみじん切りを、コンロにかかっている鍋にぶち込んだ。

 鍋の中身(つまり今夜のメインディッシュ)がおでんであることを知っているお母さんは「まあ」と素っ頓狂な声をあげた。

 証拠隠滅。お母さんには申し訳ないけど、「エントリーしない」と言った手前、こんな大量のみじん切りを七緒に目撃されるわけにはいかないのだ。

 続けて、急いで自らの顔面のゴーグルとマスクもむしり取る。

 七緒はその一連の行動を冷え冷えとした目で見ていた。

「……何してんの?」

「……えっと……」

 さすがにこの変質者ルックの言い訳は私も思いつかない。

「……な、七緒こそ人んちで何してるの? まさか家出? 明美さんと喧嘩してコテンパンに負けた?」

「ちげーよ」

 七緒が憮然として言う。

「ちょうど家の前でバッタリ会ったのよねぇ。七ちゃん、忘れ物を届けに来てくれたんだって。感謝しなさいよー? 心都」

 と、お母さんが私から七緒をかばうように言った。

「そーだそーだー」

 援護射撃を得た七緒が強気な態度でこちらにヤジを飛ばす。

「くっ……」

 思えば、こいつは幼い頃もそうだった。私と喧嘩をした時にうちのお母さんが自分の味方につくと、それまでの倍くらい態度が大きくなるのだ。そんな時、明美さんは必ず私の味方になってくれて、一緒に七緒を完膚なきまでに口撃したものだ。

 しかし今、明美さんはこの場にいない。2対1。状況から見てもなんだか私が悪いのは明らかだし、これはおとなしく負けを認めるしかないだろう。

「……どーもすいませんでした。私、何か忘れ物したっけ?」

 七緒が差し出したのは、私が学校の昼食時間に愛用しているお弁当箱だった。

「机の横に引っかけっぱなしだった。気付いて追っかけようとしたんだけど、俺も今日部活あったし、帰りに届ければいいかと思って」

「あ! 忘れてた……」

 金曜日に教室に忘れられたお弁当ほど悲惨なものはない。冬場とはいえ、間に土日を挟むことにより、週明けに再会を果たす頃には恐ろしい姿になっている可能性があるのだ(汚い話、失礼)。

「ありがとう、七緒。助かったよ」

「ま、いいってことよ。心都にはこないだ珍しくチョコももらったことだし……」

「あらあら、バレンタインの話?」

 耳ざといお母さんが、瞳を輝かせ会話に割り込んできた。私と七緒を交互に見やり、楽しそう。これは危険、すごく危険だ。

「七ちゃん、やっぱり心都からチョコもらったのね」

「そうなんですよー。まぁそもそも俺宛じゃないやつだったんだけど」

「えぇー? 本当にそうかしら? だって心都かなり前から華ちゃんと家で会議……」

 ガガガガガガ、と派手な音が部屋中に響き、お母さんの発言を遮った。私がキッチンにあるミキサーを起動させたせいだ。

 これ以上、この母親に余計なことを喋らせるわけにはいかない。

「あら心都、何してるのよー。中身が空の状態での使用は故障の元よ?」

「……お母さん、ちょっと、静かにして」

 お母さんがペロリと舌を出す。この人は3ヶ月後に40歳だ。私は頭が痛くなり、我が母をキッと睨んだ。

「心都ったら怖いわねぇ、女の子なのに。ねぇ、七ちゃん?」

「! ──あぁ、もう! ……七緒、今日はありがとうね! 外まで送るよ! ほら、行こ行こ! ほらほらほらほら!」

「お、おー」

 私は七緒の背中をぐいぐいと押して、半ば強引に退室を促した。

 一刻も早くこの場から七緒を連れ出したい。これ以上ここにいたら、お母さんが何を言い出すかわからない。

 そんな気持ちを知ってか知らずか(いや、恐らく知っている気はするけど)、お母さんはにこにこしながら私たちを見送っていた。











 庭に出ると、我が家の愛犬クロが七緒の足元へじゃれついてきた。

「お、クロ。クリスマスぶりだなー。……なんかちょっと太った?」

「うん。もともと食欲旺盛だったけど、最近肥えちゃって……」

「なんだよお前、メタボなお年頃かー?」

 七緒がひょいとクロを抱き上げる。クロは鼻を鳴らし、七緒の胸元に顔を埋めた。

 もともと彼に懐いてはいたけれど今日は特に嬉しそうだ。きっと、ここ最近よく冷える日が続いて人肌恋しいのだろう。

「ほんと、このままじゃメタボまっしぐらだからさー、最近は散歩の距離を増やしたりはしてるんだけどね」

 抱かれたままのクロの鼻の頭を、私がちょいと触ったその時、七緒が何かに気付いたように小さく呟いた。

「あれ、心都、その指……」

「ゆび?」

 言われて自分の手を見た私は、ハッとした。

 すっかり忘れていた事実──連日のみじん切り練習により傷を負いまくった私の指には、今、たくさんの絆創膏が貼られているのだった。

 しまった。せっかく玉ねぎのほうは隠蔽しても、指がこれじゃあうっかりもいいとこだ。

 冬だというのに私の背中を汗が伝った。

「怪我?」

「いや! あの……これは……。そう、ちょっとドアに挟んじゃって」

「え? そんなに何本もの指を一気に?」

「そ、そうだよ」

 いざという時、しっくりくる言い訳が全く思いつかない私。

 とにかく話題を変えたくて、咄嗟に、今一番心に引っかかっていることが口をついて出た。

「そ──それより! ほら、七緒は明日黒岩先輩とデートなんでしょ? どうよ、今の気分は」

 急に質問をぶつけられた七緒は、少し驚いた顔で私を見た。

「どうよって……別に。デートっていうかただ単に遊びに行くだけだろ」

「それをデートって言うんじゃないの?」

「そうかぁ?」

「そうだよ。っていうかね、七緒さんよ……我々中学生の世界では、2人きりの男女が学校外で楽しく過ごしてたら、それだけでちょっとしたデートになっちゃうわけよ。おわかり?」

「じゃ、これもデート?」

 クロを腕に抱えたまま、表情ひとつ変えずに七緒が言う。

 私は思わず間抜けな声をあげた。

「……へっ?」

「だから、心都理論でいくと、今この状況も『デート』になるわけ?」

 一瞬、思考が停止した。

 これがデート?

 私と七緒の、デート?

 痺れた頭で考えても、答えはすぐに出た。

「それは……違うでしょ」

「だろー? ほら、心都理論、駄目じゃん」

 七緒が得意気に言った。

 恋愛に関しては異常なまでに鈍感なこの幼馴染みに一本取られた気がして、なんだか悔しい。

「……ふん、七緒のは屁理屈だよ。だって黒岩先輩は明らかにあんなラブラブな感じを出してきてるじゃん」

「ラブラブって……」

「その人の誘いを受けるってことは、『嬉しいですぅーボクもラブラブしたいですぅー』って言ってるようなものだよ」

「おい何か台詞にすごい悪意が」

「っていうか七緒、黒岩先輩のこと好きなの? 好きとまではいかなくても、ちょっと気になっちゃってたり、はたまたあのセクスィービームに若干クラクラきちゃってたり、明日のデートの首尾によっちゃあ付き合うのもありかなーみたいに思っちゃってたり、鈍感なフリして心は実はチャラ男だったり、挨拶はチョリーッスだったりそうじゃなかったり、」

「何言ってんだよ?」

 唖然とした七緒の声で、私は我に返った。

 動揺と興奮のあまり、矢継ぎ早にとんでもない質問をしてしまっていた。

 既に背中の冷や汗の量は尋常ではない域に達している。

「……なんか……すんません……」

 これじゃあまるであれみたいだ──以前美里に提案された、「私と先輩どっちを取るの?」なんてヒステリックに聞いちゃうような、嫌なタイプの女子。

 激しい自己嫌悪に襲われる。

 そんな私を見やり、わけがわからなさそうな表情の七緒は、ゆっくりとクロを地面に降ろした。




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