3<ミルフィーユと、異名>
バレンタインから2日遅れて本命チョコならぬ本命ミルフィーユを渡しに来た禄朗の笑顔は、これ以上ないくらい輝いていた。
「七緒先輩! 俺の魂込めたミルフィーユ、受け取って欲しいッス!」
禄朗はかねての予告通り、昼休みに教室に現れた。
きちんと七緒の風邪が回復したのを確認し、一からケーキを作り直し、いそいそ学校まで持ってくる。まさに恋する乙女の鑑ともいえる行動だ。私も見習いたいくらい。
しかし彼の計算ミスは、その気持ちの熱さ故に、とても1人では食べきれないようなホールケーキを贈ってしまったことだ。
「お、おぉ……ありがとう……」
一辺が30センチほどある大きな正方形のミルフィーユをずっしりと抱えた七緒は、ひきつった顔で言った。
しかし完全に瞳の中に薔薇が咲き乱れている状態の禄朗は、そんな七緒の様子には全く気付かない。
「いやー、そんなに感激されると照れるッスねぇ。さ、先輩、遠慮しないで一気にガブッといっちゃってください!」
「……」
粉砂糖をまぶしたパイ生地と、見るからに濃厚で甘そうな生クリームが交互に重なったミルフィーユ。中に適度に混ぜられた苺やブルーベリーがこれまた良いアクセントになっている。見るからに美味しそうだ。
しかしほんの数分前に昼食のお弁当を食べたばかりで、こんな量を「一気にガブッと」いけるわけがない。
禄朗がにこにこ見守る中、それでも義理堅く三分の一ほど食べ進めたところで、七緒はこちらを見た。
「心都、甘いもの好きだよな。一緒に食べ、」
「そんな爽やかな笑顔で言っても無駄だよ。責任持ってひとりで食べてよ」
日直のため日誌の記入に励んでいた私は、ペンを走らせる手を止めずに言う。
笑顔から絶望的な表情へと変わった七緒の隣で、彼以上に感情の起伏を見せたのは禄朗だった。
「てめぇ! せっかく七緒先輩が、俺特製ミルフィーユのあまりの美味さに感動してお前ごときにも恵んでやるっつー偉大な優しさを発揮してるのに! その調子こいた態度はなんだゴルァ!!」
禄朗はあまりにもポジティブシンキングすぎる。
私は呆れ、七緒はうなだれた。
「っつーかよ、ボサボサ女、ちょうどてめぇに話があんだよ。ちょっと表に出な」
突如、禄朗が自分の親指で廊下を指し示した。こんな典型的な「表に出やがれ」ポーズ、実際にやる人を初めて見た。
「は? 私と?」
禄朗が私と話をしたがるなんて、普段の彼から考えるとちょっと信じ難い事態だ。
もちろん、彼のその睨みつけるような表情とこれまでの経験を踏まえれば、何か良い話であるはずがないことは容易に察しがつくけれど。
この珍しい事態に、七緒は少し心配そうな顔で何か言おうとした(何しろ私と禄朗の喧嘩の仲裁役はいつも彼なのだ)。それを「あ、平気ッス! 他愛もない世間話ッス! 七緒先輩はゆっくりミルフィーユを味わっててください!」と笑顔でかわし、禄朗は私を廊下に連れ出した。
「話って何?」
「舌打ちすんじゃねーよボサボサ女。……おい、七緒先輩が女とデートするってマジかよ」
禄朗は珍しく声を潜め、真剣な面持ちで言った。
なんという情報の速さだろう。私は、ひょっとしたらこいつ想像以上のストーカー行為を行っているのでは? と考えて少しぞっとした。
「黙ってねーで答えろコラ」
「……デートの話は本当だけど。なんであんた知ってるの?」
「七緒先輩ファンの間は昨日からこの話題で持ちきりだぞ。目撃者がたくさんいたからな。しかも相手は校内でも有名な『セクスィー黒岩』だしな!」
私は愕然とした。黒岩先輩にそんな恐ろしいあだ名が付いていたなんて……。
確かに先輩はスタイル抜群の色っぽい美人だけど。セクスィーって。スィーって。
しかし、それはさて置き、その人物が校門のすぐ傍で七緒に対しあんな大胆な誘い方をしたのだから、噂がいたるところから広まってもおかしくはないだろう。禄朗はファンの女子たちのネットワークに入り込んでいるのか? という疑問もこの際見ないふりだ。
「しかもボサボサ女、てめぇその時その場にいたらしいじゃねぇか!」
「えー……そんな詳細まで噂になってるんだ」
恐るべし、七緒ファンたち。
否定しない私に、禄朗が火を吹いた。
「傍にいながら防がねぇなんて、本っ当に役立たずだなてめぇはよ! セクスィー毒牙から七緒先輩を守れよボサボサ頭!」
「無茶言うなツンツン頭! まっとうにデートに誘われて普通にOKした七緒をどうやって守れってのよ」
「その場で大暴れするとか、駄々こねるとかよー!」
「あんたがやれば?」
「俺は七緒先輩に嫌われたら人生終わるから、出来ねぇよ!」
それで、私にやれってか。
禄朗に対してふつふつと沸き上がる物騒な感情をなんとか抑え、私は笑顔を作った。
「でも、嫌われたくないからやらない、っていう概念があんたにもあるんだね。てっきり毎回自分の感情だけで暴走してるもんかと」
「喧嘩売ってんのか、てめぇ。……だってよ、七緒先輩がデートの誘いを受けたってことは、少なくともその相手に好意がなくはないってことだろ。それを暴れて邪魔したりしたら、最悪の場合、七緒先輩に嫌われるじゃねーか」
意外にも核心を突いているような禄朗の言葉に、私は頭をガツンと殴られた気分になった。
「こ、好意って、そんな……。私、七緒は、ただただ鈍感だから特に何も意識しないでデートの約束をしたもんだと思ってたんだけど……」
「いくらなんでもそこまで鈍感かよ。七緒先輩はちゃんと物事の分別がつくお人だぜ」
「そ、そうかなぁ……。七緒、黒岩先輩のことちょっと好きなのかな……」
「……嫌いな相手とはデートしねーだろ、多分……」
「……そうだよね……」
自分たちの発言に自分で落ち込み始めた私と禄朗は、つい先程の怒鳴り合いとは一転、まるでお通夜のような雰囲気を醸し出した。
「七緒がデートか……」
「嫌な響きだな……」
「デートって何するんだろ……」
「そりゃデートすんだろ……」
「そっか……。どうしよう、七緒と先輩がデートをきっかけに付き合い始めたら……」
「……」
「……」
そうなれば、幼馴染みの心都ちゃんと後輩男子禄朗くんは、全く出番がなくなるだろう。
「……縁起でもねーこと言ってんじゃねーぞボサボサ野郎!」
野郎って、もはや女ですらない。
「くそっ、なんでてめぇとどんよりしなきゃいけねーんだよ! 考えたくもねー!」
そう言うと禄朗はお通夜のムードを吹き飛ばし、足音荒く七緒の元へ戻っていった。
私も慌てて後を追う。
どうやら禄朗は、自分にとって喜ばしくないその想像をシャットダウンすることにしたらしい。
でも私は違う。禄朗みたいにはできない。
考えたくないのに考えすぎて、不安がどんどん膨らんでしまう。私は重すぎる溜め息をついた。
教室では相変わらず七緒がミルフィーユと戦っていた。
その後、目で助太刀を訴える七緒と「七緒先輩の優しさをムゲにするのか!」と見当違いに怒る禄朗に負け、私もしぶしぶミルフィーユをいただくことになった。それは、短気で乱暴な禄朗が作ったとは思えないくらい確かに美味しかった。でも、出来るならお腹が空いているときに食べたかったなーというのが切なる思いだ。パーティー用ですか? と訊ねたくなるようなボリュームは、食べても食べてもいっこうに減らない。しかも、さくさくのパイ生地は徐々に口の中の水分を奪い、なおかつ顎を疲れさせる。
結局、昼休みをぎりぎりまで使い、私と七緒はミルフィーユを完食した。
それを見届けた禄朗は満足そうに去っていった。本当に、面倒な奴。
残されたのはぐったりと机に伏す私と七緒と、未だかつて体験したことのないような胃のもったり感だ。
「私まで巻き込まないでよ……うっ」
「あれ俺ひとりでは無理だろ……心都ならペロッと食えそうだなと思ったから……うう」
「食えねーよ。フードファイターかよ」
思わず言葉遣いが乱れる。口元を覆い、こみ上げるものに耐えながらの会話なので、変にドスが利いてますます女子らしからぬ声色になった。
七緒に、黒岩先輩とのデートについて聞こうとしたけれど、なんだか踏み込めない。この人は本当に鈍感すぎてデートの意味もわからず誘いに乗っただけなのか? それとも禄朗が言うように、セクスィー黒岩に対してちょっとクラッとなっちゃっているのだろうか?
「ファイターっていえばさー……」
ひょい、と七緒が唐突に上半身を起こした。
「昨日言ってた玉ねぎ大会の日程って、もうわかった?」
大会名の変な略し方を訂正する気も回らず、私はぐっと唾を飲む。
ついに恐れていた質問が来た。
なるべく不自然に見えないように注意しながら、笑顔で答える。
「それなんだけどー、実はエントリーするのやめたんだよね。ほら、テストも近いし、なんか面倒になっちゃってさー」
昨夜何度も練習した台詞だ。
「なんだ、やめたんだ」
七緒が拍子抜けしたように言う。
「せっかく応援行こうと思ったのに」
「はは。ごめん、ごめん。次なんかあったら来てよ」
「うん」
そうあっさり信じてもらえると、かなり良心が痛む。
「ぐっ」
私は左胸を押さえた。
「え、何、どうしたの」
「いや、ちょっと、胸焼け……うっぷ」
こんな可愛くない誤魔化し方しかできない自分に心底嫌気がさし、私は、心で号泣した。