10<敗北と、反省会>
私は、驚愕した。
もう日も暮れてきたし、いよいよ自分のチョコを渡して帰ろうかしら、と意を決して通学鞄を開けたその瞬間。信じがたい光景が目に飛び込んできた。
チョコの入った水色の紙袋は、教科書たちに押されて揉まれて、見るも無惨に潰れていた。
どうしてこんなことに……と考えて、答えは5秒で出た。今日七緒にチョコを渡すことを一旦諦めた私は、「どうせ家に帰って自分で食べるし」とそれを鞄の底に少しぞんざいに押し込んだ。そしてここまで来る途中、七緒に届ける大量のチョコがそりゃもう重くて重くて、何度も体勢や持ち方を変えて歩いた。時にその大袋がぶつかり、通学鞄を落としてしまうこともあった。当然、その中に入っているこの水色の小さな紙袋が綺麗な状態を保っていられるわけはなく。こうして、とてもじゃないけど人に渡せるようなものではない姿になってしまったのだ。
どうして気が付かなかったのだろう。少し考えれば防げたことじゃないか。
しかし今までの私は、七緒に自分のチョコを渡すことよりも、他の女の子たちの贈り物をお届けすることが完全なるメインイベントになっていた。つまり、自分の手作りトリュフがどんな状態でどこに収まっているかなんて、全く気にする余裕はなかったのだ。
「何固まってんの?」
と、頭上にクエスチョンマークを浮かべる七緒をちらりと見遣り、
「…………はぁぁぁぁぁ……」
深すぎるため息を吐き、私はがっくりと肩を落とした。
「人の顔見て失礼だな」
七緒が心外だと言いたげな表情で私を睨む。
もう駄目だ。終わった。最悪だ。こんなぐしゃぐしゃな包みじゃ、渡せない。
「……私、帰るね……」
よろよろと立ち上がりながら、私は七緒に言った。
「え? あぁ……。お前なんかこの数分間で急にやつれてない?」
「……気のせいじゃない? 七緒こそお大事にね」
「あー……ありがと」
突然のおいとま宣言に、七緒は少しぽかんとしたけど、やがて遠慮がちに口を開いた。
「あのさー……心都、帰る前に1つ聞いていい?」
「何?」
「前に言ってた好きな奴に、バレンタインのチョコは渡せた?」
がん。派手な音を立てて、私はその場に卒倒した。
「うわ、大丈夫かよ」
「大丈夫じゃないよ! その話はしないでって! こないだ! あんなに言ったのに!」
「だからその猪木みたいな顔やめろよ」
「元気ですか!」
「似てる……」
と、七緒が息を飲んだ。そんなことでハッとされても嬉しくない。
「いや、この話ほじくり返して悪かったけど……だってやっぱり幼馴染みとしては気になるじゃん。バレンタインなんて良いチャンスなんだしさ」
善良で純粋な、としか言い表せないような一点の曇りもない表情で七緒は言う。
なんて良い幼馴染みなのだろう。もう本当に、良い奴すぎて涙が出る。
「くっ……」
「えっ、なんで男泣きすんだよ!」
私は拳で荒々しく目元を擦ることを止め(男泣きと言われムカついたからだ)、再び七緒のベッドの側に座った。
「……渡してない」
「なんで?」
「作ったけど渡せなくなった。鞄の中でチョコの袋がぐっしゃぐしゃになった」
「え」
「そんなの渡せないから……」
言葉にしてすぐに後悔した。
何を言っているんだろう、私は。こんなの七緒に話すことじゃないのに。
絶望に打ち震える私を見据えて、七緒は言った。
「なんだよ、諦めんなよな。袋が潰れたんなら新しい袋を買えばいいし、中身まで潰れたんならまた作り直せばいいじゃん」
その表情は真剣そのものだ。
「七緒……」
私は鞄を開けて、水色の袋を取り出した。
「……だって、こんなんなっちゃったんだよ」
「あー、全然大丈夫。ちょっと皺寄ってるだけじゃん。こんなの許容範囲だよ。それに……形が悪いのなんて関係ねーよ。こういうのは気持ちが大事だろ、気持ちが」
なんだろう、この状況。チョコが渡せず落ち込んでいるところを、その渡したい張本人に叱咤激励されているなんて。
こんな妙なことがあるだろうか。いや、ない。
私は反語の例文みたいな台詞を心の中で呟く。
「まっすぐぶつかれば、潰れたチョコでも相手に伝わるって。こんなことで諦めるの、心都らしくねーよ」
な、と七緒が笑う。
「……じゃあ、これ、もらってよ」
そう言って七緒の手に、半ば無理矢理チョコを持たせる。
七緒はきょとんとそれを見た。
「え? 俺に?」
「うん」
あぁ、どうしよう。
いくら鈍感な七緒でも、これはさすがに気付くかな。
私がチョコをあげたい人は、好きな人は、七緒なんだってこと。
心臓が破裂しそうなほど脈打つ。
本当はこんなぐだぐだな感じで伝えたくなかったけど、七緒があまりにも諦めるなと励ますから、もう、私──
「あ、作り直すことにしたんだ」
あっけらかんと七緒が言う。
「……はい?」
一瞬、事態が飲み込めず、私は固まってしまった。
「そしたらこれは用なしだもんな。んじゃ、くれるんなら俺がありがたく食うよ」
「……」
何言ってんだこいつ、こっちが必死こいてチョコ渡した数秒後になんだよそのあっさりした反応はよー、と思わず悪態を吐きそうになる。
落ち着いて、整理してみよう。
七緒が私にくれた「潰れたなら作り直して渡せばいいだろ」と「ていうか形が悪くても気持ちがあれば伝わるだろ」の2つの意見。そのうちの前者を私が採用した──つまり、この潰れたチョコはもう必要ないので、残飯処理として自分がいただく──七緒はそう解釈したらしい。
「でも、用なしのお下がりチョコとはいえ心都からバレンタインにもらうのなんて生まれて初めてだよなー? 明日は雪が降るかもな、ハハハ」
「……ふっ」
もう笑うしかない。
この人の鈍感具合といったら、いちいちまともにドキドキしていたら身が持たないレベルだ。そんなことはとっくに学習済みだったはずじゃないか。しっかりしろ私。
「ふ、ふっふっふ、ふふ……」
「なんで笑いながら睨むんだよ」
「ふふ……別に」
顔で笑って、心で泣いて。私は今日またひとつ強くなる。
やっぱり幼馴染みからの脱却は、まだまだ遠いみたいだ。
「いま食っていい? ずっとお粥生活だったから腹減っててさ」
「……どーぞ」
そう。七緒には何度も何度も拍子抜けさせられている。
だから、こんなふうに嬉しそうな顔を向けられたくらいでもうドキドキなんかしないぞ。
ましてや、数ある彼宛てのチョコの中で1番に食べてもらえることにときめいたりなんか──しないぞ。してたまるか。
よくわからない闘志が私の中で燃えたぎる。
そんなことはつゆ知らず、七緒がトリュフをひとつ食べて、にっこりと笑った。
「うん、うまい。さっすが料理部だな」
──どっきゅん。胸の辺りから、忌まわしい(そして非常に慣れ親しんだ)音がする。
私は膝をつき、拳で床を叩いた。
「ちくしょー!」
私は、負けた。
東家から帰る道すがら、私はひとり今日の反省会を行っていた。
もうすっかり日は暮れて、濃紺の空にはうっすらと星が瞬いている。その下で難しい顔をしてぶつぶつと呟きながら歩く私は、きっとさぞかし不審者めいて見えただろう。
「とりあえず目的は果たせたのかな……」
たくさんの女子からのチョコを届けて、七緒とこの間の試合の話をして、自分のチョコも渡すことができた。
しかも七緒の素直な感謝の言葉まで聞けてしまったのだ。これはもう最高に嬉しい出来事だ。今思い出しても頬がゆるむ。
しかし七緒の誤解は続いている。私が誰か他の人に恋をしている、という大いなる誤解だ。
今日は励ましまで受けてしまって、そのおかげで七緒にチョコを渡す決心がついたとはいえ、なんともまぁ複雑な感じだ。
「……これからだよね、これから……」
自分に言い聞かせるように呟く。
この誤解は、これからゆっくり解いていこう。
まだまだチャンスはある。
──若いんだもの、私たち。
私はなんだかんださっぱりした気持ちで歩いていた。
思い出すのは、柔道のことを話す、今日の七緒の顔。悔しそうな顔も、嬉しそうな顔も、決意に満ちた顔も、全部私は大好きだ。
そしてやっぱり、そんなにも何かに打ち込めているのって、ちょっと羨ましいな、とも思う。
「……ん?」
ふと目に入ったのは、道の端にひっそりと立ててある、いわゆる「町内会のお知らせ」的な掲示板だ。
その右下に貼られている1枚の紙には、細々とした文字が地味な書体で記してある。
「こ、これはっ……!」
私は食い入るようにその紙を見つめた。
──私にも見つかるだろうか。
夢中になれる、何かが。