2<ぐるぐると、ごりごり>
私は朝の清々しい空気を噛み締めながら、通学路を歩いていた。
2月は寒さがピークなので空気も特に澄んでいる。嬉しくて大きく深呼吸をすると、制服のリボンがかすかに揺れた(そう、恋する乙女として、もうジャージ登校は卒業したのだ)。
昨日の華ちゃんとのバレンタイン会議の後も、ラッピングはどうしようかとか手紙はしたためるべきかとか1人考えていたら夜更かししてしまい、正直言うとやや寝不足気味だ。だけどそんな眠気も冬の空気に触れれば一気に吹き飛ぶ。
この心地よさをゆっくり味わうのは好きだ。だから冬はよほどの寝坊をしない限り余裕を持って家を出て、通学ラッシュより少し早めに学校へ着くことが多い。
そして例によって、本日も私は始業時間の40分前に校門をくぐった。――と同時に、体育館のほうから何やらバタンバタンと音が聞こえてきた。
「……おぉ、今日もやってる」
体育館に近付き半分開いた窓をそっと覗くと、思った通り、中では柔道部が朝練の真っ最中だった。
床に人が叩きつけられる大きな音があちこちで響き、部員たちがウォーとかオッシャーとか勇ましい掛け声をあげる。
うーん。ザ・男の世界って感じだ。
柔道部の連日の熱がこもった朝練、それは次の土曜日に控えた大会のためだ。
私は、団体戦の選抜メンバーになったと報告してくれたときの七緒の嬉しそうな顔を思い出した。それから何回かメンバーの入れ替えを経て、数日前の最終的な発表で、七緒は先鋒に選ばれたらしい。私も自分のことのように、嬉しい。
七緒の姿を探す。数秒間体育館を見回した後、ようやく発見した彼は、ちょうど組み合った相手を見事に投げ飛ばしたところだった。
「よっしゃあ! 七緒すげー!」
しまったと気付いたときにはもう遅く、私は思わず大音量で叫んでしまっていた。
……だって、感動して、つい。
その声は部員たちの極太ボイスにも負けず、館内にばっちり響いた。
「……え、心都?」
と、目を丸くした七緒。
柔道着を着たごつい面々も、皆驚いてこちらを向いている。
視線が痛い、つらい、恥ずかしい。
「す、すんませんっしたー!」
体育会系の返事を残し、私は教室まで全力疾走した。
「あー、心都のおかげで恥ずかしかった」
朝練を終え教室へ戻ってきた七緒に、私は手を合わせた。
「まことにすみませんでした……」
七緒は疲れを解すように、自分の首筋をグーで軽く叩いていた。
「あの後、技きめても技きめられても道着直してもモップかけても部員から『七緒すげー!』ってからかわれるし」
「猛省しております……」
七緒の机に額をつける勢いで頭を下げる。
「登校ついでに覗いたら、あなた様があまりにも見事な背負い投げをお決めになったもので、つい感極まってしまいまして……」
「……へへへ。苦しうない、顔をあげい」
七緒が溢れる笑顔を抑えきれずに言った。あら、やっぱり単純な奴……なんてつい心の中で呟いてしまう。
相変わらず首筋や肩をトントンと叩きながら、彼は自分の椅子に深く座り直した。
「いよいよ土曜なんだよ」
「うん、知ってる」
「小さい大会とはいえ、先鋒として選んでもらったんだから死ぬ気で頑張んなきゃな」
「うん、うん。死ぬなよ。私、応援いくよ」
「サンキュー」
七緒の笑顔が眩しくて、私は不自然にならない程度に視線を逸らした。
そんなこと言われたら、そんな顔されたら、こっちだって死ぬ気で応援したくなる。七緒の今までの頑張りの成果がようやく発揮されるときだ。嫌でも力が入る。
――なにか差し入れでも持っていこうか。レモンの砂糖漬けはどうだろう。いや、前にも七緒と作ったし、定番すぎるかな。こういうときって、何が1番嬉しいんだろう……やっぱりカツ丼? いやいや、重い、重すぎるよ。
私がそんなことをぐるぐると考えていると、別に対抗したわけではないだろうが、七緒は右腕をぐるぐると回した。
さっきから首やら肩やら腰やらを叩いたり、妙に落ち着きがない。
「……ねぇ、体痛いの?」
七緒は少し首をひねった。
「んー、なんかここ最近、関節とかちょっと痛いんだよ」
「えっ、大丈夫なの? も、もしかして練習しすぎとか……」
「いや、さすがに大会直前のこの時期だし、練習量は一応考えてやってるつもりなんだけど……」
ここまで言うと、七緒は何かを思いついたかのようににやりと笑った。
「これが噂の成長痛ってやつか……?」
「え?」
「ウサゴリの御利益か? とうとう俺に怒涛の成長期が来たのかも!」
その美少女顔を輝かせ、あまりにも嬉しそうに言うものだから、私はついつい吹き出してしまった。
ウサゴリの御利益って(まさかとは思うけど、微妙に韻を踏んでいるのか?)。あの時あんなに馬鹿にして、全く祈らなかった奴の言う台詞じゃない。
「なんだよ」
「いや、風邪前の関節痛だったりして」
「試合前に縁起でもないこと言うなよ。見てろ、来月辺りには180越えのマッチョマンになってるかもしれないからな」
どんだけハイペースで成長する気だ。それにそんな七緒、どう頑張っても私には想像できない。
「はいはい。でも本当に大丈夫なの?」
「うん。柔道に影響出るほど痛いわけじゃないから」
「ならいいけど……。気をつけてよね」
「おー」
七緒がそう答えるのと同時に、本鈴が鳴り、先生が教室へ入ってきた。
なんとなく悔しいから、言ってあげない。
さっき体育館で練習中の七緒の姿を探したとき、すぐに見つけられなかったこと。
つい最近まではそんなこと、有り得なかった。ごりごりの部員たちの中にいる七緒は、華奢で、小さくて、例えるならまるで可憐な女子マネージャーのようで、柔道着を着ているにも関わらず明らかに浮いて目立っていたから。
今こうして教室であらためて向かい合った七緒だって、やっぱり美少女顔は美少女顔だし、そんなに体格が変わったようにも感じられない。いつも通りの見慣れた姿だ。
それがさっきは、この幼馴染みを発見するまでに数秒かかってしまった。七緒はあまりにも違和感なくあの男だらけの中に溶け込んでいた。
やっぱり少しずつ、昔とは変わってきているのだ。色々なことが。
私は自分の席へ戻る。
嬉しいような寂しいような、校庭を全力疾走したいようなこのまま暖かい教室で眠りたいような、そんな不思議な気持ちだった。