5<肩書きと、お守り>
足が震える。
足だけじゃなく、手も、肩も。
せめて声だけはと願いながら、私は口を開いた。
「やめて下さい先輩。そういうのは…お互いの同意があってするものです」
駄目だ、震えた。
黒岩先輩は私を睨んで、口の中で何か呟きながらようやく七緒から離れた。よく聞こえなかったけどいい意味の言葉であるはずがない。
「心都、何してんの?」
心底不思議、という感じの七緒の顔が私を見つめる。
悪いけど答えられません。
「あんた誰?」
私を睨んだままの先輩が刺々しく言った。そのあまりの迫力に思わず喉がごくりと鳴る。
「…2年の杉崎です」
「杉崎ぃ?聞いたことねぇな」
ねぇな、ですか。さっきまでの甲高い声はどこへやら、先輩はすっかり人が変わっている。
「邪魔してくれちゃって、何のつもり?まさかあんた東君の彼女か何か?」
「そんなんじゃないです!」
「じゃあ何だっつんだよ」
言葉に詰まる。
答えがわからないわけじゃないのに。
「…私、は。」
幼馴染み。
きっとそれ以上でも以下でもないんだろう。悲しいくらいはっきりしている。
ただ、素直にそう言うのが悔しかった。
「…」
普段はこの関係に嫌気が差す事ってあまりない。意識しない分ちょっとした話で馬鹿みたいに盛り上がったりもできるし。結構楽しかったりする。
でも、こんな時は。
こんな時は、半端な距離がどうしようもなく悲しいんだ。
その肩書きじゃ大切な人を守れないから。
ひねくれた私が先輩のキスを邪魔する理由にもならないから。
それが無性に、悔しかった。
「幼馴染みです」
私に代わって答えたその声――七緒だった。
「それ以外は何にもないです」
わかってはいたけど、やっぱり相手の口から直接聞くと結構重いもんがある。
私は意味もなく、足元の土の微妙な茶色のグラデーションに興味を奪われたフリをした。
そしてもちろんそんな回答に先輩が納得するはずもない。
「はぁ!?何それ、ただの幼馴染みがどうして急に…」
「先輩」
静かに、しかし有無を言わせない口調で、七緒は遮った。
「もう返事は返しました。先輩とは、付き合えません」
遠回しに『もう解放して下さい』。
それを聞いた黒岩先輩は見ているこっちが痛くなるくらい唇を噛み締め、
「…わかったよ!」
低く乾いた声で言うと踵を返して去っていった。
だけど私は、どうしても落ち着いた気分になれなかった。
だって、歩きだす瞬間の黒岩先輩の目。
私を睨み付けるその目は、事態がこのまま済むわけがない事を物語っていた。
目は口ほどにものを言う、だなんて。そんな言葉、今は信じたくない心境だわ。
先輩がいなくなった後の裏庭には微妙な雰囲気が漂う。
私は再び土を見つめ始め、七緒は不自然に視線を泳がせながら隣につっ立っていた。
沈黙はどんどん濃くなって、逆に空気はますます薄くなっていく。
…出来る事なら今すぐ、風の如く爽やかに走り去りたいです。
美里はまだ隠れてるのかな、と思い植え込みを見てみると案の定彼女は葉っぱの中に埋もれていた。
美里の口が声を出さずに動く。
「私、お邪魔っぽいので帰りまーす」
読唇術で読み取った言葉はそれだった。
待って美里、今2人きりにしないでぇー!
私も口パクで訴えてみたけど全くの無駄で、私の親友(多分)で学校一の小悪魔は何事もないように「後は頑張れ」の意味が込もったアイドルウィンクを投げた。
そして音をたてずに植え込みから滑り出し、軽やかにスキップしながら去って――いや、逃げていった。
…うぅ。これで完璧に2人きりになってしまった。気まずい、気まずすぎる。
「でさ。結局心都は何してたの?」
ついに来ました二度目のこの質問。
さっきは先輩に答えるフリして完全無視した私だけど、今度はそうもいかない。
「えーとですねぇ何故ここにいたかと申しますとー……。ワタクシ本日授業中に貧乏揺すりしていたじゃないですかー。あの瞬間頭の中で謎の声が響き渡りましてー」
「はぁ?」
「『裏庭ヘ・ジャージデ行ケヨ・放課後ニ』と訴えるその声に従うまま放課後ここに来てみたところ貴方が見知らぬ人にちゅーを迫られていたのでー、もしや痴女かと思いとっさに飛び出してしまいましたー。もしかするとあれは神様の声だったのかもしれませんね」
「何ステキめな笑顔で綺麗にまとめてんだよ。どーせならもっと上手く嘘つけ」
目を眇め呆れたように七緒。
嘘をつく時、時間を稼ごうと不自然に語尾を伸ばすのは私の昔からの癖だ。
今回はそれに妙な敬語と5・7・5が加わり怪しさMAXで、七緒が信じるはずもない。
「…そーですよ覗いてました!えぇ覗いてましたとも!!覗き見する痴女はこの私ですよ!!どーもごめんなさい!」
「うわ開き直り!?」
どうしてこうも可愛くないんだろう、私。
告白覗いて、邪魔して、最終的には開き直りか。我ながら最悪。
――でも、どうしてもじっとしていられなかった。
どうしても。
「…嫌だったの」
きょとんと私を見る七緒の真っ直ぐな目が、痛い。
「七緒が何か綺麗な先輩に呼び出されちゃったり…それでキ、キスされそうになっちゃったりさぁ…。そういうのが…どうしても嫌だったの」
ガキっぽい事、言ってる。無茶苦茶だ。
「ごめんね、性格悪くて」
「いや、せーかく悪いっつーかさぁ…」
ぼんやり呟き、七緒はニッと笑う。
別に上品な笑い方でもないのに、周りの空気がきらきらしたような錯覚を覚えた。
もうさっきまでの顔じゃない。14年間見慣れたいつもの七緒の顔があったから、私は少しホッとして、そしてほんの少し残念だった。
「本当お節介おばさんだよなー、心都」
「おっ…おばさん!?」
私がおばさんならあんたはおじさんだっての、という反撃をぐっと堪える。
「俺もう中2なんだからさぁ、いくら幼馴染みでも心都のお守りは必要ないって」
「お守りぃ?」
七緒は腕を組み1人でうんうん頷きながら、
「お前何だかんだ言ってイイ奴だし、俺が変な女に引っ掛からないか心配してくれたんだよな」
…ん?
「でもいくらなんでも、そんな誰とでもほいほい付き合ったりしないし。だから心配すんな!俺の事なんか気にしないで、心都は心都でいい相手でも見つけて青春しろよ」
…んん?
「このままじゃ一生お節介おばさんで終わるぞ。な?」
な?って爽やかに言われても。ていうか「いい相手」ってそんなサラッと!
――やっぱりこいつ、私が幼馴染みとして心配したと思ってる。本当は七緒を好きな一女子として、だったんだけど。
そんな事実はつゆ知らず、嫌味なほどの可愛い顔で笑う超鈍感男。この……
「このアホ!!」
「はぁ!?」
怒号一発、わけわかんねーと言わんばかりの七緒を睨み付け、私は自分の望み通り風の如く裏庭から走り去った。
ジャージを翻して肘と膝は直角の、可愛さの欠片もない走り方で。