10<薔薇咲く瞳と、初体験>
神出鬼没な七緒さん。
一体いつからいらっしゃったのですか。
「今、朝練終わったとこ。体育館から教室戻るのってここ通ると近いから。そしたら心都のすっげー大声が聞こえてきてさー、俺、また何かあったのかと。ほら前にもこんな事あったじゃん」
へら、とジャージ姿の七緒が笑う。
うん。気に掛けてもらえるのは、とてもとても嬉しいんだけど。こんな髪の毛振り乱して喧嘩中の姿、死んでも見られたくなかったよ。あぁ泣けてきたわ。
そんな私とは正反対で、
「七緒先ぱぁぁい!」
と、喜びに満ち溢れた声をあげたのはもちろん禄朗。
「お、おー禄朗」
七緒がぎこちなく左手を挙げた(右利きなのに)。やっぱりまだ、昨日の涙が気になっているんだろう。
対する禄朗はあの時のショックはどこへやら、今すぐバンジージャンプできるくらいのハイテンションだ。
「先輩、昨日はいきなり走り去ったりしてすんませんでしたっ!」
「あ、いえいえ」
禄朗の勢いに押され、なんだか敬語気味な七緒。が、完全に暴走エンジンに火が点いた禄朗は更に熱く語り続ける。
「やっぱり、七緒先輩が男って知った時は落ち込みました。オレ、初恋だったんスよ…。でも! 昨日しばらく泣いた後考えました! そしてわかりましたっ!!」
何が? と聞く暇を与えず、禄朗は七緒の両手を取った。
その瞳はこれまでのどんな瞬間より光り輝いている。
「男とか女とか、もうそんな次元じゃないっス!」
「へ?」
「オレ、人間として惚れたんスよ! ヒトとして七緒先輩が大好きっス! つまり、この気持ちはいつまでも変わりませんっ!」
薔薇、全開。
恋のライバルの華麗なる復活宣言に、私は蚊帳の外でただただ固まるしかなかった。
「いや、でも俺……」
と、言いかけた七緒を禄朗が素早く遮る。
「わかってるっス。七緒先輩、今は誰ともお付き合いする気ないって。昨日のオレが馬鹿でした!オレ、もうそんな事望みません。こうして七緒先輩と喋っていられるだけで、そんでもって心の中でほんのり想っていられるだけで幸せっス!」
なんなんだ、その健気な恋する女のカガミみたいな心意気は。正直言って、今の私には羨ましい限りだ。
ずっと傍にいたいし、
それ以上可愛くならないでほしいし、
綺麗な先輩にちゅーされるところなんて見たくないし、
強引な後輩に迫られてまんざらでもなさそうなところも見たくないし、
クリスマスだって一緒に過ごしたいし、
いつか大好きって言いたい。
今思いつくだけで、なかなか自己中心的な私の欲求はこんなにもあるのだから。
「……な、何かよくわかんねぇけど、とりあえず禄朗が納得してくれたならそれで…」
なんだかぐったり疲れた様子の七緒が言う。
オイそれでいいんかい、と私は思わず突っ込みたくなったけれどやめた。それよりも激しく気になる事があったからだ。
「……ねぇ。いつまで手ェ握ってんの」
さっきから七緒の手をガッチリ掴んだままの禄朗が、私にぎろりと目を向ける。
「関係ねぇだろダサ女」
「く……っ、その態度の違いがムカつくんですけど!」
「うっせー! 自分が七緒先輩と同等だとか思ったら大間違いだぞコラ」
昨日は、殴り合いを始めそうな七緒と禄朗を見ながら『これだから男の喧嘩なんて!』と心の中で叫んだ私。でも、どうしてでしょうか。今は、胸の前で握りしめすぎて血管が浮いているこの拳を使いたくてしかたがないのです。いやもう本当に。
「聞いてくださいよ七緒先輩! オレ、七緒先輩に今の言葉を伝えたくて朝から2年の教室らへんウロついてたんスよ。そしたらこのボサボサ、オレを七緒先輩に会わせるのを拒否ったんスよ? ありねぇッスよッ!!」
ようやく手を離した禄朗が、七緒に向かって訴える。
「ボ、ボサボサ?」
一瞬わけがわからなさそうな表情を浮かべた七緒。
が、私の頭をチラッと見遣り。
「あー……」
――って、おい。
「ちょっと何納得してんの!」
「いや、だって今日のはさすがに……」
「笑いをこらえるな!」
「ギャハハハ」
「ろくろーあんたは笑うな!」
……あぁ、もう。なんなんだろう今日は。寝坊しながらもチェックしてきた朝の占い、さそり座は4位とまぁまぁだったのに(そうよ私はさそり座の女)。
「じゃ、じゃあ……禄朗、とりあえず自分のクラス戻れよ、な?そろそろ本鈴鳴るし!」
滅茶苦茶になりつつある雰囲気をとりなすように、七緒が言った。
「そっスね、名残惜しいっスけど……わかりました。でもっ!!せめて教室まではお見送りさせてくださいっ!!」
「え!?」
全然ほんのりじゃないじゃん、と突っ込みたくなったのはきっと私だけではないはず。その証拠に七緒は、面食らった表情で首をぶんぶんと横に振っている。
「いや、本当そんなんいいから」
「いえそう言わずにっ!」
ちょっとひきつり気味の七緒と、きらきら瞳を輝かせた禄朗の視線がぶつかる。
「………」
負けたのは七緒だった。
「……じゃー教室じゃなくて、そこの階段まででいいから…お願いします」
げっそり感を漂わせた七緒が言う。この10分ほどで少しやつれたようだ。
「はいっ喜んでー! ……おいボサボサ、今舌打ちしたろ」
どうやら禄朗もかなりの地獄耳らしい。とりあえず、そっぽを向いてしらんぷり。
七緒の言う「そこの階段」までの30メートルたらずの道のりを、禄朗は元気いっぱい先頭に立って歩きだした。私はしぶしぶ最後尾につく。
これからずっと、こんな感じの日々が続くんだろうか。そう考えただけで眩暈がしてきた。
少し先を行く2人を眺める。
何やら興奮気味に喋りまくる禄朗と、たしなめるように相槌を打つ七緒。
……七緒、なんだか本当にまんざらじゃないような。
あの2人、もしも本当にくっついちゃったらどうしよう――いやいや男同士じゃん――でも、今どきそんなの当たり前なのかも――それにしても、確かに七緒は男にもモテるけどそういう趣味はないはず――でも、さっきも禄朗の勢いに押しきられていたし――でも――。
無駄な堂々巡りに、溜め息がもれた。
本当は、わかっている。
私も禄朗みたいに、もっともっと素直に気持ちをぶつければいい事なんだ。
だけど、どうしてだろう。
伝えたい事はたくさんあるのに。
とても簡単な事なのに。
七緒の前だと言葉にならない。
あの何も考えていなさそうなきょとん顔を見るたび、言いたかった言葉がへなへなとへたってしまう。
「……なんでだろ……」
と、思わずぽつりと呟いたその時だった。
「………」
――見られている。
普段こういう事にあまり敏感ではない私がはっきりそう思うほど、背後から視線を感じた。
ごくり、と無意識に喉が鳴る。
恐る恐る、後ろを向くと――。
「……ん?」
廊下の遥か遠く、曲がり角からちょこんと顔を出す、髪を2つに結んだ小柄な女の子。視力1.5の私の両目がとらえたものは、確かにそれだった。
女の子は微動だにせず、間違いなくこっちをじっと見つめている。
しかし。
ぱち、と驚いた私が瞬きをしたその僅かな間に。
「……あれ」
女の子は消えていた。まるで今までの姿が夢か幻だったかのように、跡形もなく。
……おいおいおい。
ぞくり、と背中に冷たいものが。
「心都、何してんの?」
いつのまにやらかなり先を歩いていた七緒と禄朗が、不審そうな顔で振り返る。
「おっせぇよボサボサー」
もちろんそんな禄朗の言葉に激怒している余裕はない。
私、なり振り構わず2人の元まで全力疾走。
「うぉっ。こ、心都――真顔で、しかも無言で走ってこられるとちょっと怖い」
「……七緒」
「ん?」
「幽霊っていると思う?」
「はぁ?」
「私、今…学校の怪談を初体験しちゃったかもしんない」
七緒が呆れたように目を眇めた。
「…寝ぼけてんの? 行かないんなら先戻ってるな」
「先輩さっさと行きまショー」
「ぬぁっ待って!」
ここで置いていかれたらたまらない。私は必死についていった。さっきの事は忘れよう、と自分に言い聞かせながら。
もちろん、そう簡単に忘れられるはずがなかったのだけれど。