8<ぎりぎりと、二択>
とにかく、私は気持ちを立て直さなければいけない。
過ぎたことをうじうじ考えてもどうにもならないし、何より受験まっただ中だ。こんな色恋沙汰に頭を悩ませている場合じゃない。それよりとにかく今は冷静な心で1つでも多くの英単語を覚えよう。
そう考えた私はそこから数日、極めてクールに過ごすよう努めた。
けれどそれは無駄だったとすぐに判明することになる。
あのマッチョだらけの勉強会からきっかり3日後、教室で私を呼び止めた七緒が、苦い顔で言ったのだ。
「心都……お前、すっげぇ怒ってるだろ」
「え?」
私は驚いて聞き返す。
「なんでそう思うの……?」
「睨みすぎなんだよ。朝とか授業中とか休み時間とか下校前とか」
ほとんど一日中じゃないか。
参った。どうやら私は無意識に七緒を鬼の形相で睨みつけていたらしい。クールが聞いて呆れるよ。なんだか心より顔の方がよっぽど正直みたいだ。
七緒はとてもバツが悪そうな顔で頭をかいた。
それで、私はまたひとつ自分のことが嫌いになる。
あぁ、七緒を困らせたくないのに。あんな顔させたくないのに。可愛い彼女になりたいのに。
自分の中の欲求と理想と自制心のバランスがちぐはぐで、もどかしい。
「…………ごめん、七緒……」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど小さくて細くて、情けない。
「あの……えぇと、私は確かに機嫌が悪かったです。でもそれは私の気持ちの中の問題で……自分で解決していこうと、思ってます、ので……身勝手を承知で言いますけど、それまでちょっと待ってもらえませんか? 多分あと2、3日で落ち着くと思いますんで。へへ」
妙な口調になる。こういう時に勢いに任せて余計なことを言ってますます七緒との喧嘩がヒートアップするという展開は嫌と言うほど経験している。私もいい加減学習するべきだ。
だから、いつも以上に慎重だった。
私のありえない口調に、七緒は一瞬反射的に何か言いたげな表情を浮かべたものの、それをすぐに引っ込めた。そして、静かにゆっくりと、私に負けないくらい慎重に口を開く。
「……あのさ、心都」
「ん」
「俺……お前が怒った原因、わかってる」
七緒は低い声でそう言った。
言葉に詰まる。これまでにない展開だった。だって七緒は私の恋する乙女心の繊細な機微(ここ笑うところね)なんて全く関知せず、私がやきもきするたび「何猪木の顔まねしてんだよ」とか言って、こちらの気持ちを逆なでしてきたんだ。それがここにきて、なんだろう、この察しの良さは。
いや、それでもまだ、私は疑っていた。だって、七緒だ。あの鈍感王の七緒だ。
私の期待を最大限に高めておいて、ときめきボルテージを上げさせておいて、最終的に「あれだろ? おとといの4限目の橋本の理科の授業が長引いて昼休みの時間が短くなったことにキレてんだろ? お前、食事の時間は本当に大切にするタイプだもんな」なんて言い出す可能性だって、じゅうぶんにあるのだ。
「なぁ」
「何?」
「今日一緒に帰らない?」
七緒からのお誘いに、私はますます面食らった。だって恋人同士になって一ヶ月弱、七緒の方からこうして下校に誘ってくれるのなんて初めてのことだったから。
と同時に、嬉しさがこみ上げる。今の会話、なんだかすごく「恋人っぽい」?
けれどここでそのお誘いにすぐさま飛びついて、「はいはいはい! 帰れます! 帰りたいでーす!」と快諾するのは、なんだかしゃくな気持ちだった。
私は生徒手帳を取り出して、ぱらぱらとめくった。
「うーん……あ、大丈夫。今日なら帰れるよ。ぎりぎり帰れる」
「なんだよぎりぎりって。お前の下校はそんな日替わりでスケジュールが埋まってるのか?」
「まぁね。でも七緒のお誘いならしょうがないかな」
七緒は呆れ顔になって、その後、ちょっと硬い表情で続けた。
「……話したいこと、あるからさ」
その言葉に違和感を覚えながらも、私はとりあえず「了解」と答えておいた。
……話したいことって、なんだろう。
「『てめーめんどくせぇんだよ別れてくれ』『俺が悪かったごめん愛してるよ』、どっちだと思う?」
「可能性が高いのは前者かなぁ」
美里がさらりと言うから、私はすっかり打ちのめされた。
「マジで……?」
「うん。さっきの七緒君との会話を近くで聞いてたけど、なんか心都、すごくめんどくさかったもの。手帳のくだりとか特に」
がーん、と頭に漫画のような効果音が響いた。
昼休みの最後の5分間。私と美里は女子トイレの鏡の前でだらだらと喋っていた。美里は髪を梳かしたりリップを塗ったり身だしなみを整えながら、私は所在無く鏡を眺めながら。いつにもまして冴えない顔だ。
「でも言っちゃったものはもうしょうがないわよねぇ。七緒君が愛想尽かしてないことを祈りましょう」
美里は涼しげな顔で続けた。へこみつつも、その容赦ない物言いが有難い。そっか、手帳のアレはまずかったのか……。
「はい、心都。これ貸してあげる」
美里が差し出したのは小さくて丸い、ピンクの缶だった。
「これ何?」
「髪がまとまりやすくなるクリーム。今日は夕方から雨が降る予報になってたわよ。心都の髪、雨降ると湿気ですぐ爆発しちゃうんだから。その前に対処しときなさい。せっかくの下校デートでしょ?」
「美里ぉぉ……」
「はいはい。すぐ泣かないの」
無理だった。
私は泣きながら髪にクリームを揉み込んだ。
それは、友人の優しさへの感謝と、自分のめんどくさい態度への後悔と、あと数時間後に訪れる七緒との下校への不安が混ざり合った涙だった。