3<祝福と、決壊>
想定外の衝撃を頭に受け、私はよろめいた。
通学鞄はあっさり取り落としたけど、尻餅をつかずになんとか踏ん張ったのは我ながら立派だと思う。
「ちっ、しぶてぇな」
私に頭突きを食らわせた人物が吐き捨てるように言う。
そしてその後ろからもうひとつパタパタと近づいてくる足音とともに、「きゃっ」と可愛らしい女子生徒の悲鳴が聞こえた。
「ろ、禄ちゃん! 何してるの!」
「見りゃわかんだろ。頭突きだ」
「もう! 駄目だよ……!」
そう言うとその女子生徒──華ちゃんは私に駆け寄って心配そうに眉を寄せた。
「杉崎先輩、大丈夫ですか?」
「う、うん、なんとか……」
本当はまだくらくらするけど。
「すみません、禄ちゃんがこんなひどいこと……」
「おい華、なんでてめぇが謝んだよ」
と、偉そうに言うのは、この痛みの原因を作った張本人──つまり禄朗。華ちゃんが謝るのがお門違いだとわかっているなら、一刻も早くあんたの口から謝罪の言葉を聞きたい。
「この頭突きは別にバカみてぇに衝動的なもんじゃないからな。華、お前にも前々から言ってあっただろーが」
「だって、まさか本当にやるなんて……。私、あれは禄ちゃんなりのジョークだと思ってたのに」
「俺が冗談言うような奴に見えんのか」
「でも……小さい頃は禄ちゃん、結構ひょうきんなことも言う子だったじゃない。ほら、幼稚園の年少さんの頃なんか、園のお弁当の時間に歌ういただきますの歌を『いただきませんの歌』なんて言って全部逆の意味で歌ったりして……私すっごく笑っちゃって、涙が出るくらいだったんだから」
「いつの話してんだよてめぇは」
イライラとした様子の禄朗が言う。
うーん。全く話が読めない。とりあえずわかったのは、昔の禄朗は今より多少可愛げがあったのねってことだけだ。あと華ちゃんは確実に昔も今も可愛い。
置いてけぼり状態の私に、華ちゃんは控えめに口を開いた。
「ごめんなさい、先輩。何ヶ月か前に禄ちゃんと話してたことがあったんです。もし東先輩に彼女ができたらどうする?って。それで禄ちゃんは、その時はお祝いの意味を込めて頭突きの一発でもお見舞いしてやるなんて物騒なこと言ってたんです」
「えっ」
「なので……ええと、つまり先輩、」
と、華ちゃんはここで一旦言葉を区切り、天使のように微笑んだ。
「あらためて……おめでとうございます。本当に本当に、よかったですね」
七緒と恋人になれたことを、華ちゃんには冬休み中にメールで報告済みだった。
禄朗には華ちゃんから伝えたのか、はたまた七緒が直接話したのか。私にはわからないけれど、とにかく彼ももう知っているようだった。
華ちゃんの笑顔の効果は絶大だ。私は頭痛のダメージも忘れ、心がじんわり温かくなる。ちょっと目も潤んできた。
「ありがとう、華ちゃん……」
きゅっと手を握ると、にっこり笑って頷いてくれた。
思い返せば、華ちゃんにもこれまでだいぶ心配をかけたもんなぁ。
突き刺さる視線を感じ顔を向ければ、禄郎が心底気に入らなさそうな顔でこちらを見ていた。
「禄朗も……さっきの頭突きは一応お祝いってことなんだよね?ありがとう」
「は? 調子に乗んじゃねぇよ」
ぎろりと鋭い睨みをきかせ、禄朗が言う。
「祝いの意味を込めるってのはな、そのカノジョって奴が本当に七緒先輩に相応しい女だった場合だ。お前みてぇなクソぼさぼさダサ女がどんな手を使ったんだか知らねぇけど、俺は全く認めねぇからな。つまりさっきのは宣戦布告の頭突きだ」
華ちゃんが私にしか聞こえない小声で囁いた。
「嘘です。照れ隠しですよ」
そう言ってふふっと笑う華ちゃんは、小柄で華奢な体ながらとてつもない包容力と母性に満ちていて、本当に幼稚園か小学校の先生にでもなった方が良いなと思う。
「いいかてめぇ、今後はくれぐれも七緒先輩の価値を下げたり恥をかかせるようなことはすんじゃねぇぞ。まぁお前なんかそこにいるだけで恥の塊みてぇなもんだからそれも難しいか」
「……」
「つーか今も放課後にこんなとこで1人間抜け面晒して何してんだ?ふつう付き合いだしたら一緒に帰ったりするもんじゃねぇのかよ。やっぱ恋人同士になったとかお前の妄想か? ついに現実と非現実の区別もつかなくなったんじゃね? 自分ひとりで頭おかしくなるのは勝手だけど七緒先輩には迷惑かけんなよ」
それだけ一気に言うと、禄朗はさっさと行ってしまった。
去っていくその背中はどことなく満足げ。
「華ちゃん……あれは本当に照れ隠しなのかな?」
「た、多分、そうだと……思うんですけど」
そう答える華ちゃんは、さっきより幾分自信なさげだった。
本当にごめんなさいと何度も謝った華ちゃんは、その後禄朗の背中を追いかけていった。
私はそれをなんとなく温かい気持ちで見送る。
禄朗と華ちゃんがかもし出すあの空気感が好きだなぁ、と思う。
相変わらず私に対しては当たりが強すぎる禄朗だけど、やっぱり華ちゃんにだけはなんだか微妙に表情が柔らかいというか、敵わない感があるというか。
会う度に大きくなっていくその変化を見るのが、実はひそかな楽しみだったり、する。
通学鞄の埃(頭突きされたとき落としたので)を払っていると、先ほどの禄朗の言葉が胸の中で響いた。
……ふつう、カップルって一緒に下校とかするもんなの?
その疑問を皮切りに、まるで堤防が決壊したように頭の中でクエスチョンマークの洪水が溢れた。
カップルってどんな会話をするの?
手とかつなぐの?
友人たちの前と2人きりの時とでは意図的に雰囲気を変えたりするの?
オリジナルのあだ名で呼ぶの?
特に用事がなくてもメールするの?(あ、駄目だ、七緒は携帯電話を持っていない)
考えたところで無駄だった。
私には、ふつうがわからない。
だって両思いも彼氏も初めての経験なんだもの。
その時、ふと目線を下げて廊下の窓から見えたのは、今まさに校門を出ようとする七緒の姿だった。
視力1.5に感謝。
──そして気付いたら私は全速力で走り出していた。
3階からの階段を2段飛ばしで豪快に駆け下りながら、私は自問した。
なんで私、走っているんだろう?
七緒を追いかけてどうするつもりなんだろう?
驚異のスピードで追いつき七緒の背中をばしりと叩くところまできても、その答えは出なかった。