1<ガッツポーズと、動悸の朝>
ふっと目を開ける。
窓のカーテンの隙間から差し込んだ優しい日の光と、冬の鳥のさえずり。見飽きた自室の天井。
枕元の携帯電話に目をやると、アラームが鳴るきっかり5分前だ。
怖い夢を見たわけでも、自分の寝言に驚いたわけでもなく、自然と早い時間に目覚めた。
こんな朝ってかなり貴重な気がする。
起き抜けの体で素早く机に向かう。
引き出しの中の更に小箱の中、物々しくしまわれている1枚の紙を取り出す。
それはなんてことのない、普通のスーパーマーケットのレシート。
日付は12月24日。商品は大福2つ。
それを眺めつつ右手を自分の頬へ持っていき、つねった。
「あいてっ!」
痛い。間違いなく痛い。この痛みが嘘なら、今までの私の人生なんて全部嘘だわ。
拳を高く突き上げ、部屋の真ん中で叫ぶ。
「ひゃっほう!」
あの奇跡のクリスマスイブから、もう2週間が経った。
七緒と恋人同士になれたことには未だ実感がなく、まるで長い夢の中にいるようだ。
朝起きるたびに、全てが夢オチだったのではという不安が沸き上がる。
だからこの朝一番の「レシート確認」「ほっぺつねり」「ガッツポーズ」の流れは、クリスマスからの日課になった。おかげで右の頬の柔らかさが以前より増した気がする。
そして恒例の儀式が終わったあとは、これまた毎度恒例で、じんわりとした幸せと照れが胸に広がる。
大丈夫。今日も夢じゃない。
……私、七緒の彼女なんだ。恋人なんだ。男女交際中なんだ。ステディなんだ!
私は窓を大きく開け放つ。
「あぁ、今日もなんて良い朝! 小鳥さんおはよう!」
そこには都合良く鳥なんていなかったけれど、そんなことは大きな問題じゃない。
私の心の目は確かに鳥を見たのだから。そう、幸せの青い鳥を!
うふふアハハと今にも踊りだしそうな体と心をひとり震わせていると、携帯電話の目覚ましアラームが鳴った。
今日は3学期初日。
久しぶりに袖を通す制服のブレザーは、なんだか硬く感じる。
珍しく朝シャンなんてしちゃったから、髪の毛もしっとりつやつや、ばっちり。
鏡の前で薄いピンクのリップを塗って、右手でちょいちょいと前髪を整える。
Pコートの上から緑のチェックのマフラーをぐるぐる巻にして、私は外へ飛び出した。
長期休み明けにいつも感じるあの怠さは、今回に限っては全くない。
それどころか胸がドキドキと弾んで、身体中に謎のエネルギーを放出し続けている。今すぐにでも走り出せそう。
「心都!」
校門の前で私を待ち構えていたのは美里だ。
「美里、おはよう!」
イブの夜、七緒と恋人同士になれたことを約束通りすぐに電話で報告して以来だ。
挨拶もそこそこに、美里は私の首根っこに抱きついた。ふんわりとローズ系の良い香りがする。
「もう! もうもう! 心都ってば! おめでとう!」
彼女にしては珍しく興奮気味で支離滅裂な言葉遣いになっていた。
親友からの祝福の気持ちをいっそう強く感じて、私は胸が熱くなった。
気が遠くなるほど長いあいだ進まなかった私の恋をいつも一番近くで応援してくれていたのは、他ならぬ美里なのだ。
もしもあのイブのミラクルの瞬間、オリンピックのメダリストよろしく「この喜びを最初に誰に伝えたいですか?」なんてインタビュアーにマイクを向けられていたなら、私は間違いなく「親友に……」と答えていただろう(ちょっぴりハニカミながら、カメラ目線で)。
「ありがとう美里ー!」
「いっぱい話聞かせてよね! もう、私早く心都に会いたくってうずうずしてたんだから! どんな素敵な馴れ初めが聞けるのかって!」
「えー? そんなロマンティックなもんじゃなかったけどさーでへへ」
「とか言って、顔ニヤけてるわよ!」
私たちはしばし校門の前で手を取り合い、きゃっきゃと言葉を交わし合った。
しばらくして登校してきた田辺が「えっ何々? 俺も混ぜて!」とどさくさに紛れて美里の手を握ろうとして、はたかれていた(その後1人で校舎へ向かう彼の背中は寂しかった)。
「本当は冬休み中にでも祝賀会開きたかったんだけどね」
教室へ向かいながら、美里がほうっとため息をつく。
「あはは……ごめんね、私が風邪ひいちゃってたから」
頭をかきかき、親友に謝る。
実は私、暴走告白の翌日、つまりクリスマスの朝から39度近い熱を出して寝込んでしまったのだ。
やっぱりあの寒い雪の中、走ったり転んだりはしゃいだりしたのがいけなかったようだ。久しぶりの高熱に苦しいやら両想いが嬉しいやらで、お母さん曰く、ピークの夜は笑いながら唸っていたらしい。そしてもちろん風邪っぴき中も、朝の頬つねりは欠かさなかった。
「大変だったのね。でも熱が下がってからは、七緒君と初の恋人デートもできたんでしょ? 初詣とかー」
「いやぁ実は、冬休み中一度もそういうのなかったんだよね」
「え? どうして」
「私が熱出たときに、七緒、お見舞いにきてくれたんだけど……どうやらそれでバッチリ風邪うつしちゃったらしくて。ようやく私が治ったお正月頃からは七緒が熱でバタンキューだったわけ」
「あら」
美里がじっと私を見つめた。
「やだ。うつすようなことしちゃったの? もう?」
咄嗟に、その言葉の意味が理解できなかった。
「え?」
そんなうすらとんかちな私の様子を見て、美里の可愛いピンクの唇が、控えめに「ちゅー」の形を作った。
──瞬間、ボッと激しい着火の音が、自分の中から聞こえた気がした。
顔が燃えるように熱い。
「ち、ち、違う! 違う違う! な、何言うの美里っ!」
「だってバッチリうつしたとか言うからー」
「な、七緒はいつもそうだったの! 小さい頃から私が風邪ひくとお見舞いに来るたび風邪もらって帰ってったの! そもそも私七緒が来てくれたときも熱でゼェゼェしてあんまり記憶ないくらいだし! 七緒もそんな私のボロボロ加減を見てお母さんにゼリー渡してすぐ帰ってったし!」
「ごめん。私が悪かったわ心都。そんなに恥ずかしがるなんて思わなかったから……」
今にも掴みかからんばかりの勢いでまくしたてる私を、美里がなだめた。
私だって、自分がこんなに動揺しちゃうなんて思いもしなかった。
片思いをしていた頃の私だったら、きっと美里に同じネタをふられても、すかさず天使の七緒とのちゅーを妄想して『ぐへへ』と変態のごとくニヤついていたと思う。
それが──どうしてだろう?
今、妄想のさわりすら始まっていないのに、顔が熱くて、息が苦しくて、涙目になりそうなほどなのだ。
「じゃあ心都……実質、今日が付き合い始めてから初めての、まともな状態での『顔合わせ』になるのね」
廊下の窓ガラスの端が朝日に反射して、きらりと煌めいた。
「うん。だからなんか……そわそわしちゃって」
「あ、噂をすれば七緒君」
私の背後を指差して、美里が言う。
その途端、胸がまた激しく脈打った。
「ぐっ……」
何この動悸。
たかが七緒のいる方向を向くだけなのに。
こんなことって、これまでにあったっけ?
今朝家を出るときまでのみなぎるようなあのドキドキとはまた違う。
体中の血が頭部に集中しているような感覚。
首が固まって、身動きひとつとれない。
深呼吸をひとつ。
私はゆっくり振り返る。
ここからおのろけの11章がスタートです。
もうしばらくお付き合いください。