30<背負い投げと、きらめき>
木枠の引き戸を両手で思いきり引き開けて、私は叫んだ。
「スト────ップっっ!!」
大音量が道場内に響き渡り、窓やら柱やらがビリビリと震えた(……ような気がした)。
中央で勢い良く組み合っていた2人の影がぴたりと動きを止める。
そのうちの大柄な方がこちらを見て楽しそうに言った。
「お、来たな」
山上だ。
そしてもう片方、小柄な方が、同じく私を見て、呆然とした声をあげる。
「……え? 心都……? なんで……」
こちらは、もちろん七緒だ。
「俺が呼んだ。ほら、やっぱり勝負には審判がいるだろ?」
山上がにこやかな表情で七緒に告げる。
「はぁ!? だからってなんでわざわざこいつを──うわっ」
反論の途中だった七緒は体勢を崩しかけ、慌ててその場に踏みとどまった。山上が彼の襟元を掴んで引っ張ったのだ。
「どうした、隙だらけだぞ」
「お前、今のは不意打ちだろ! 明らかに一旦休戦な雰囲気になったじゃねーか!」
「なってねーよ。おら、このままだと負けっぞ東」
山上は優位に立ったまま、七緒の襟を掴んで引きずり倒そうとする。
七緒もそれを振り解こうと攻防が続く。
あぁ、見ている方が冷や冷やする。
しかしこいつら、審判だのなんだの勝手なことを言う割にはさっきの私の「ストップ」を完全無視するつもりか?
「やめろって言ってるでしょっ! こんなの危険だよ危険! 今すぐ中止して!」
私の叫びは、戦いの真っ最中の2人にはまたしても届かない。
次第に、カッカとした思いが胸にこみ上げてくる。
「……どうしてもやめないっていうなら、こっちにだって最終兵器があるんだからね」
私は自分の足元に置いてあったバケツに手をかけた。中には水がなみなみと入っている。
こんなこともあろうかと、ここに入る前に表の水道で手早く汲んできたのだ。
5年前、まさにこの場所でこのメンバーで、同じことをして喧嘩をやめさせた時の記憶が蘇る。15歳にもなってこんなことしたくなかったけど、しかたがない。──だってこのバカ2人が言うことを聞かないんだもの!
私がバケツの取っ手に手をかけたのを見て、さすがに山上も七緒もギョッとした表情になった。
相手に襟首を捕まえられた辛い体勢のままの七緒が、私に向かって叫んだ。
「やめろ心都!」
「だって!」
「いいから、黙って見てろ!」
何よ、そんな不利な体勢のくせに偉そうに。
私はバケツを引っ込めるつもりはなかった。言い返したくて更に口を開きかけたとき、七緒の言葉が更にぶつかってきた。
「お前は俺が勝つところ、黙って見てろ!」
「……」
何よ。
何よ、それ。
本当に超偉そう。
今だって結構ピンチなくせに。
私、やめてほしい気持ちでいっぱいなのに。
そんな真剣な顔で言われたら、黙ってバケツを置くしかないじゃない。
どうしても危なくなったらすぐに強引にでも止めに入ってやる、と心に決め、私は2人を見守ることにした。
それにしても私に審判役をだなんて、山上ってば一体どういうつもりなんだろう。
そりゃあ小さい頃は一緒にこの道場に通っていたこともあったけど、それもほんの短期間だ(スポーツ全般そうだけど、特に格闘技に関しては全くセンスがなかったんだよね、私)。
ルールや技だってあやふやなのに、審判なんて務まるわけがない。
本当に何を考えているんだ、あのマッチョ野郎……。
私の心の声が聞こえたのか、山上は七緒と組み合いながらも、一瞬、ちらりとこちらを見た。
私と目が合うと、白い歯を見せ笑う。
──と、試合がいっそう激しさを増した。
七緒と山上がお互いの胸元をがっちり掴んで、自分の優位な位置に持ち込もうとしている。
単純な力では圧倒的に山上の方が優っている。けれど七緒は俊敏な動きを利用して、なんとかそれに対抗している。
私は思わず胸の前で拳をきつく握りしめた。
見ているのが怖い。その反面、いつまでも見ていたい。矛盾した思いがぶつかり合う。
あぁ、だけどやっぱり、瞬きをしている時間さえ惜しい。
七緒の姿を、全部、全部、この目に焼き付けておきたかった。
彼のことを、普段からかうように「かわいこちゃん」だなんて、今は1ミリだって思えない。
目の前の幼馴染みは、間違いなく、最高にかっこいい。
……そんなこと、ずっと前からわかっていたけど。もう目が離せないほどに、戦う彼はかっこよく、そして美しかった。
七緒の周りの空気がきらきらと輝いて見える。
窓の外で降り続ける雪が反射しているせい?
──ううん、違う。
やっぱり私は重症なのだ。
胸が苦しい。戦っていない私の方が倒れてしまいそう。
七緒のことが大好きだ、と思った。
一日ごとに、一秒ごとに「好き」が増えていく。
これ以上好きになりようがないんじゃないの? と思っても、すぐまた新たな「好き」が追加されて、私の中の最大容量はどんどん更新されていくのだ。
バカみたいでしょ? 七緒。
でも全部本当なんだよ。
いつだったか、七緒の目の前で禄朗から「お前、七緒先輩のこと好きだろ」と大暴露されてしまったことがあった。
あのとき「冗談やめてよ!」という私のずるい嘘を、七緒はあっさり信じてくれた。
だけどこの気持ちは決して冗談なんかじゃない。悲しくなるくらい切実な思いだ。
今だったら少しは胸を張って言えるかもしれない。
こんな気持ちをなかったことにしようだなんて、どうして思えたんだろう?
七緒が、好きで、好きで、大好きでたまらない。
──その瞬間。
七緒が素早い動きで山上の懐に入った。
道場内の空気が一気に動いたような気がした。
何がどうなったのか、事態を目で追うだけで精一杯だ。だけどとにかく、七緒は山上が自分を引き倒そうとするその力を逆に利用したようだった。
本当に一瞬だった。
七緒が自分の背中を支点に、山上を持ち上げて────投げた。
綺麗な背負い投げだ。
私は夢の中にいるような心地で、それを見つめた。
だん、と床が大きく鳴る。
技術のある山上は当然受身も上手い。力を分散させて最小限のダメージで、その大きな体が床に仰向けに打ち付けられる。
七緒はというと、山上を投げたままの格好で、まだ肩で息をしていた。呆然とした表情で、今なにが起こったのか自分自身わかっていないような、そんな様子だ。
もちろんそれは私だって同じ。目の前で起こったことがすぐには理解できずに、ぼんやりとその場に立ち尽くした。
これはつまり、七緒が勝っちゃったということ?
あの、強くて、更に何倍もの体格差がある山上に?
「……杉崎、判定は?」
床に寝たままの山上が、天井を見ながら言う。
私はそれでハッと我に返り、
「い、一本……!」
ぎくしゃくと右手を上げたのだった。
「あーぁ、負けちったー!」
山上が体を起こし、大きく天を仰いだ。
悔しさ半分、清々しさ半分という感じで。
「……勝っちった……」
と、今だこの状況が信じられなさそうな七緒。わなわなとしそうな心を必死で抑えているかのように、自分の手を見つめている。
しかしやがてハッと我に返った様子で、山上と向かい合い、試合終了の礼をした。
私はある程度の距離を保ったままそれを眺めていた。
もちろん、七緒が勝って少しも嬉しくないと言ったら嘘になる。興奮もしている。
けれど今は七緒に「おめでとう!」も、山上に「惜しかったね」も、言うべきではない気がした。
とにかく、大きな怪我もなく試合が終わって良かった──。
「なぁ、東」
山上が七緒に話しかける。
「お前、ほんとに強くなったよな。正直……負けてやるつもりなんて全くなかったよ、俺」
「……サンキュ」
七緒はちょっと鼻の頭をかいて誇らしげに笑った。七緒が山上を同じ柔道少年としてずっと尊敬していたことは私も知っている。だからその彼から一本を取り、更に賞賛の言葉までもらえたことが、七緒にとってどんな大きな意味を持つのかも、よくわかる。
なんか良いなぁ、と思った。スポーツをやっている男の子同士の、あついけど爽やかな関係っていうか。そういうのに少し憧れる。
「山上、ありがとうな。俺のわがままに付き合ってくれて」
「いや、俺も楽しかったし。……東、お前はちゃーんと『わかった』んだから、多分これからもっともっと強くなるよ。でもな、次やるときはぜってぇ負けねぇからな」
「あぁ。俺だって」
2人は顔を見合わせながら、とても満足そうに笑った。
一方、私の頭の中ではクエスチョンマークが点滅していた。『わかった』って一体何のことだろう。今回の重量無視対決に何か関係あるのかな。
だけど今割り込んでそれを聞くのはとても野暮な気がしたので、私は黙っていた。
なんかもう完全に2人の世界って感じだし。……どんくさ文化部系女子は邪魔せず大人しくしていますわよ。
「あ、そうだ。心都」
唐突に、七緒が首だけこちらに向けて私を見た。
くせのない髪がさらりと揺れて、でもって額でキラリと汗が輝いて。
部活引退から4ヶ月、久しぶりに見る七緒の柔道着姿にほんの少しドギマギしてしまった。
それを悟られないように、私は平静を装って答える。
「何?」
「そこの俺の鞄、こっち投げて」
「これ?」
私は自分の足元にあった学生鞄を掴んで、七緒の元まで持っていった(投げろと言われたけど、それじゃあまりにも自分が野蛮に見える気がして。あと、キャッチしやすいよう上手く放る自信もなかった)。
七緒は私にお礼を言うと、何やらその場で鞄をごそごそやり始めた。そして取り出したのは、黒いペンと、いつかクマ吉くんから渡されていたあの付箋付きの『月間 中学柔道』だった。
「山上、前に話しただろ。俺の部活の奴でお前の大ファンがいてさ、これにサイン頼まれてるから書いてやってよ」
「マジかよ」
山上は、彼にしては珍しい苦笑いで雑誌を受け取った。
「このタイミングで? 俺、負けたのにサイン書くのかよ」
「……山上は、『俺たち中学柔道部員の星』だってよ。あ、『太一君へ』もいれて」
「まいったなこりゃ」
そう言いながらも山上は付箋のページ(山上のインタビュー記事と写真の掲載部分)にサインを書いた。芸能人みたいな筆記体のものではなく、漢字でフルネームを書いただけのものだったけど、それだけで雑誌の価値がぐんと上がったように見えた。
サインを書き終えた山上は、ゆっくりと雑誌を閉じた。そして、
「中学と言わずに高校でだって俺はやるぞ。強くなるからな! 今の何倍も!」
そう言って豪快に笑った。
先程の苦笑とは違い、これこそ山上だなぁと思えるような良い顔だった。
なんだか心が温かくなった──のも束の間。
「だからお前らも頑張れよ!」
山上は、私と七緒の頭にそれぞれ片手を置くと、こともあろうに、額同士を勢い良くぶつけたのだ。
ゴチン! と怖いくらいに鮮やかな音が鳴る。
「いったーい!」
「あいてっ!」
悶絶する私と七緒の頭を、更に山上はぐしゃぐしゃとかき回した。
「何すんだよ山上!」
「ちょっと! やめてよ山上! セットが乱れるでしょ! おい、こらっ!」
「雪だらけで髪振り乱して現れといて、今更なーに言ってんだ」
「キィィィィ!」
元はといえばあんたが原因で駆けつけたんじゃないの。
私は憤慨して、山上の手を振り払いながら地団駄を踏むという非常にリズミカルな動きを衝動的に成功させた。
──結局、額の痛みと髪の乱れと、「んじゃ、な。また来年」という言葉を残し、山上は満足そうに去っていった。
嵐の後、という感じだった。
道場の真ん中でつっ立ったままの私と七緒は、どちらともなく顔を見合わせた。
額は赤くなって、髪の毛はぐしゃぐしゃで──お互いひどい姿だった。
「……ひどい格好」
「そっちこそ」
七緒は少し目を眇め言った。
「言っとくけどお前の方がボロボロだぞ。ここ来る途中2回くらい転んだだろ」
げげ、バレてら。自分の赤い膝や雪で濡れた肩を隠したい気持ちになりながら、私は恨みがましく七緒を睨み上げた。
「……だって走ったもん。七緒が死んじゃうと思って」
「はぁ?」
「山上と七緒がバトったら、体格的にそうなるじゃん」
「ばか、死ぬかよ」
またもや偉そうに七緒が言う。
「見てただろ、心都。俺が勝つとこ」
「……うん」
当たり前じゃないか。一瞬たりとも見逃したくない気持ちで瞬きすら満足にできず、今ドライアイ気味だ。責任とれ。
私が頷くと、七緒は嬉しそうにニッと笑った。
引退試合の時、勝った瞬間に二階席の私に向けた笑顔と同じだ。
「なんでこんな勝負することになったわけ?」
「俺から山上に頼んだ」
「……だから、なんで?」
「俺、なんにもわかってなかったんだ。『わかってない』ってことが『わかった』んだ」
私は七緒をじっと見つめた。心の中で七緒の言葉をゆっくりと反芻して、噛み砕く。
そして今日一番の声量で言った。
「全ッ然、わからん! 抽象的すぎるよ! あんたは新進気鋭のアーティストか!」
「うわ、うるさっ。ここ、余計に声が反響すんだよ」
呆れたようにそう言いながらも、七緒の表情はどこかさっぱりしていた。何かが吹っ切れた、ともいえるような顔だった。
「本当は寝技にいきたかったんだよ。でも心都が審判役なら、ここは背負投げだなって思ってさ。お前にも一本がわかりやすいだろ」
「……うん。綺麗な一本背負いだったよ」
本当に、今まで見た七緒の試合の中でも一番ってくらいに。
おかげさまで私にもちゃんと判定を下すことができた。
七緒がまた満足そうに笑う。
その目は力強くきらめいていて、とても男の子っぽい表情で、私もまた、胸が少し苦しくなった。