28<メルヘンと、アドレナリン>
杉崎心都が雪の中を全力で走っている、その約2時間前。
東七緒は早歩きで、中学の校門を出た。
時刻はまだ昼前。今日は授業もなく終業式とホームルームのみだった為、早く放課後となった。
今年最後の学校だ。教室内にはどこか名残惜しそうに居残るクラスメイトたちも多かった。
七緒にも同じくそうしたい気持ちが多少はあった。後輩たちに代替わりした柔道部の様子を久しぶりに見に行きたいとも思った。
しかし、足早に学校を出た。それよりも行かなくてはいけないところがあったからだ。
「おーい。東ぁ」
後ろから呼ぶ野太い声に、七緒は振り向いた。
そこには、部活仲間の同級生、川原太一が立っていた。丸刈りの頭、がっしりとした体格の彼は、いかにも柔道部という感じの少年だ。
「東、お前も今帰りか」
「おー。太一も?」
「あぁ。毎日この位の時間に学校が終わってくれりゃいいんだけどな。……あれ、お前今日、部活に顔出したのか?」
と、太一が、不思議そうに見たのは、七緒の肩にかけられた柔道着。部活を引退した3年生が学校に道着を持ってきていれば、そう思われるのも当然のことだ。
七緒は軽く首を振ってそれを否定した。
「いや、違うんだけど……まぁ色々あって」
「ふうん」
しつこく詮索してこないのが、さっぱりとしたスポーツマンらしい彼の良いところだ。
「ところで、東……」
そんな太一が、珍しくどこか遠慮がちに口を開く。
「何?」
「その、結構前にお前に頼んだ、西中の山上さんのサインだけど……」
太一には以前、山上が掲載されている『月刊 中学柔道』に本人のサインをもらうことを頼まれていたのだ。どうやらその件の控えめな催促らしい。
「あぁ、あれか。遅くなってわりーな。今日ちょうど山上と会うから、その時にもらってくるよ」
「ほんとかっ?」
「太一に渡すのは年明けになるけど、いい?」
「もちろん! もらってくれるだけで有難い! マジでサンキューな!」
よほど嬉しいのだろう。体格に似合わないつぶらな瞳がキラキラと輝く。
そういえば以前、心都が彼のことを小声で「クマ吉くん」とか呼んでいたような気がする。確かに熊のキャラクターっぽい奴だよな、と七緒は納得した。
「太一、お前、本当に山上のファンなんだなー……」
「あぁ! 山上さんは俺たち中学柔道部員の星だろ!」
「……そんなにファンなら、これから一緒に来る?」
七緒の申し出に、太一は「えぇっ」と一瞬夢見るような声をあげた。
「山上さんに会えるなんて、直々に話せるなんて、やべぇな……。聞きたいこと色々あるんだよ、練習のこととか、今年の夏の県大会の1回戦のあの試合のこととか、こないだのインタビューのあの答えのこととか」
うわごとのように呟いた後、「いや、今日は駄目だ」とこれまた夢見心地な様子で首を振った。
「残念ながら今日は俺も予定があるんだよ。ごめんな東」
言葉とは裏腹に、太一の表情はかなり緩んでいた。にやけているともいえるレベルだ。
いくらそういうことには鈍い七緒でも、すぐに気付く。
「あぁ、彼女とデートか」
「へへへ、バレた? このあと一度帰って着替えた後、待ち合わせなんだ。映画見て、飯食って、隣町のイルミネーションを見に行くんだよ」
山上のことを語るときの何倍も、太一の顔はうっとりしていた。
「もう1ヶ月以上経つけど、いまだに夢みたいだよ。まさか俺にあんな可愛い彼女が出来るなんて」
「そりゃ幸せなこったな」
「あぁ。幸せさっ!」
太一はノロケのスイッチが入ったようだった。
「俺と話すとき、アイツ、すっげー見上げるようにしてくるんだよ。なんならちょっと背伸びしてるくらいなんだよ。それがもう可愛くて可愛くて」
「身長差すごいもんな、お前と彼女……」
「30センチ差だぜ。でもさー今思えばアイツ、最初は東のファンだったんだもんな。誰が見てもわかるくらい」
「そうだっけ」
そういえば以前、一緒にお祭りに行こうと誘われたことがあったような、ないような。
くるくるとした茶色いショートヘアと、黒目がちな瞳。小柄で、まるで小動物のような女の子。そういえば心都も彼女のことを一度「子リスちゃん」とか呼んでいた。「クマ吉くん」と「子リスちゃん」か……良いカップルだな、と七緒は感心した。
「人生何が起こるかわかんねぇよな。しかし東の後に俺って、我が彼女ながらどんだけ好みの振れ幅広いんだよって感じだわ」
決して自虐や皮肉ではなく、心底不思議そうな表情で太一が言う。
七緒は少し笑った。
「ファンと恋は全然違うだろ。柔道部に通ううちに太一先輩のワイルドさにどんどん惹かれていったんです、ってあの子が話してるのを前に聞いたし」
「照れるなこりゃ」
「お前らすごいお似合いだよ。メルヘンな森の2人って感じで」
「へへ、サンキュー」
鼻の頭をかくと、太一は腕時計に目をやった。
「うお、やっべ。待ち合わせに遅れる。……んじゃ東、サインよろしくな。もらってきてくれたら今度お礼にコンビニのリッチミルクロールケーキおごるからさ」
見かけによらず甘党な彼は、スイーツに目がない。
自分自身も大好きな、売り切れ必至のコンビニスイーツをおごるという行為が、彼の中で最高レベルのお礼であることは七緒にもよくわかった。
年内最後の挨拶を交わし、スキップ混じりに帰路を駆けていく太一の後ろ姿を、七緒は見送った。
しばらく立ち止まって会話をしていただけなのに、冬の寒さは恐るべき速さで体に染み込んでくる。
「さっむ……」
思わず身震いする。
今日は朝からやけに寒い。今はまだ晴れているが、もしかしてこの後雪でも降るのだろうか。
七緒は青々とした空を見上げた。
「しっかし、ビックリしたぜ東。いきなり校門の前で待ち受けてるんだもんなぁ」
本当に驚きがにじみ出た声でそう言うのは、山上だ。
七緒と山上は、西有坂中学校からの道を、並んで歩いていた。
「わりーな、急に押しかけて。どうしても今日山上と話がしたくってさ」
七緒は自分の学校を出た後、山上の通う西有坂中へ急ぎ、校門で彼を待っていたのだ。
待ち合わせではない、アポなしの行動だったので、寒空の下なかなかの長い時間をきょろきょろしながら過ごすことになった。
しかしその甲斐あって、終業式の後、柔道部に少し顔を出していたらしい山上に、無事会うことができた。
「いや、俺はこの後特に予定もなかったから大丈夫だけど。事前に言ってくれりゃお前をあんなに待たせることもなかったのに」
「俺、ケータイ持ってないし、山上んちの電話番号も知らないから、あそこで待ってるしか思いつかなくてさ」
「杉崎を通してくれりゃいつでも連絡できただろ」
「いや、それはちょっと……」
七緒が言葉を濁す。
心都には知られたくなかった。おせっかいな幼馴染みに今日のことを話せば、きっと大騒ぎで反対された挙句、自分もついていく等と言いかねない──人の気も知らずに、阿呆面で。
七緒は舌打ちでもしたいような思いをなんとかこらえた。
黙り込んだ七緒を、山上は静かな眼差しで見つめていた。
「……で、今日は一体何の用だ。というか俺たちどこに向かってんだ?」
「山上、頼みがあるんだ」
七緒は真剣な表情で、山上に向き直る。
「俺と本気で、試合してくれ」
* * * *
ぼたん雪は、みるみるうちに地面に積もり始めていた。
「ぐぁっ!」
足を取られ、私は派手に転倒した。
ズシャシャーという結構ヤバい音をたてながら体が雪道を滑る。
こんな雪の日に普通の通学用ローファーで走るなんて自殺行為だと思う。
だけど走らずにはいられない。
転んでからわずか0.5秒で勢いよく起き上がり、私は再び駆け出す。
不思議と痛みはない。
自分の中で妙なアドレナリンが出ているのを感じていた。
早く行かなくちゃ──。
それが七緒と山上をとめる為なのか、ようやく決心できた告白の為なのかは、自分自身、よくわからなかった。
とにかく、私は走った。