25<アダルティーと、6人>
「たぁのしかったー!」
一通り敷地内を回り終わり、再度グラウンドまで戻ってきた私たち。
そこから見える校舎の中心部分に取り付けられた大きな時計は、10時20分を示している。
大満足で伸びをする私の隣で、山上はそれ以上の大大満足気な表情をして頷いた。
「だろ。たとえ志望校じゃなくても、あと4ヶ月後の高校生活をちょっと垣間見れたような気にならねーか」
「うん! 本当に、今日連れてきてもらって良かった」
高校見学なら、今年の夏から秋にかけて、志望校を含め既に何校か行っている。だけどこんなにもじっくりと時間をかけて校舎の中から校庭まで見られるようなものではなかったし、何より、私と同じ受験生という立場でなおかつ実際に何度もこの高校に足を運んでいる山上の解説付き……というのは大きかった。
「高校生になるの、楽しみになっちゃったなぁ。今日見学してたら、色々想像が膨らんでさ。可愛い制服着て校舎を歩いてるところとか、部活は何に入ろうかなとか、新しい友達たくさん作りたいなとか、通学定期をピッとカッコよくかざして登下校とかー……」
今までの私は、正直、高校に進学することに対して期待や希望以上に不安や寂しさが大きかった。義務教育を終えての未知の世界だし、今までより自由度が上がる分、自分で負わなくてはいけない責任も増えるだろう(退学や留年っていう制度があることにとてもハラハラする)。
それに、美里や田辺や親しい同級生──そして七緒とも別れ別れになってしまうし。
だけど今日、山上に西高を案内してもらって、気持ちが少し上向きになれた気がする。
まだ不安や寂しさが完全に消えたとはいえないけど、少なくとも、心を占める割合はだいぶ減ってくれた。
「っていうか、その前に受験だけどね! 妄想は受かってからにしろよって話だけどね! ぶっちゃけ私ってまだギリッギリのラインだし!」
アハ! と笑う私を、山上が目を細めて見つめる。
「高校って、きっとマジで楽しいよ。3年間で色々なことがある。世界がぐんと広がると思うんだ」
珍しく少し真面目な表情で、山上は言った。
「高校の3年間だけじゃない。杉崎の世界は、これからどんどん広がってくんだよ。たくさんの奴と出会って、楽しいことをたくさん知るんだ。今は死にそうなくらい辛いことも、だんだん思い出に変わる。ほろ苦い青春の1ページだったなーなんつって、笑える時が来る。これは、絶対!」
「……山上……」
いくら推理力の冴えない私でも、さすがにわかった。
山上は今日、私を励ますためにここへ連れてきてくれたのだ。
七緒への長すぎる片思いが終わったことを受け入れられず、いつまでも死にそうな面持ちでグズグズ悩み続ける私を。
直接的な言葉ではなくて、大きな観点での励まし。それはとても彼らしい優しさのように思えた。
おかげさまで、私の心は昨日までと比べて格段に軽くなってしまったのだ。
もう人生の終わりかというくらいに沈みきっていた心が、「これからいいことあるよね、きっと」というレベルになってきた。
「今日は本当にありがとう」
私は山上に向かって深々と頭を下げた。つむじを通り越して、うなじが丸見えなんじゃないかってくらい。
ハハハッと楽しそうに笑うと、山上はバシバシ私の肩を叩いた。
「そう恭しくされると照れるじゃねーか! よし杉崎、いつでも俺に惚れてイイからな!」
私はまだ深い礼の体勢のままだったので、そのまま頭から地面につんのめりそうになった。
柔道部の練習に向かった山上の背中を見送りながら、私は「さて」と考えた。このまま1人でもう少し見学していってもいいんじゃないか──と山上は別れ際に勧めてくれたけど、どうしようかな。
ひととおり見たい場所は見ることができた。それに高校生活へのわくわく感が今までの数倍アップした私は、それと同時に受験への気合いもまた数倍強まっていた。早く家に帰って勉強しなくては、と思った。
もう一度だけ、グラウンドをぐるりと一周してから、帰ろう。
そう決めた私は、グラウンドの縁の緩やかなカーブに沿って、ゆっくり歩き始めた。
先ほど山上が言っていた通り、グラウンドではサッカー部が他校との練習試合を始めていた。
両チームがあざやかな動きでボールを奪い合っている。
サッカーのルールはよく知らない私でも、思わず見入ってしまうくらいの熱戦だ。
やっぱり真剣に何かを頑張っている人っていいなぁ。
私も、七緒が柔道をやっているときの顔が大好きだった。……ううん、今でも大好きだ。
あぁ、さっき山上が言ってくれたように、早く良い思い出にできるといいな──。
この胸の痛みも、「あの時は私も若かったからさぁ」なんて笑い飛ばせるくらいに。
もちろんすぐには無理だと思うけど。でも今、七緒の顔を思い浮かべた時、私の中のブルーな感情は以前のこういう時よりちょっと減っていた。山上のおかげだ。
私は、足を止めた。
とても見覚えのある姿、聞き覚えのある声が、この目と耳に飛び込んできたからだった。
「きゃ──! センパ──イ! 頑張って──!」
私の4、5メートル先。グラウンド上の位置的には、サッカー部のベンチとはちょうど対極。水撒き用のホースの隣に、その女子生徒は立っていた。両手でメガホンを作り、1人きりとは思えないほどの声量で黄色い声援を選手に送っている。
ウェーブの綺麗な長い髪に、小麦色の美脚、ボンキュッボンなスタイル。
「エル! オー! ブイ! イー! ラブ!! ハットトリック決めて──!!」
「く、黒岩先輩……?」
暴力、呼び出し、罵倒、恫喝、八つ当たり──と、かなり怖い目に遭わせてくれた先輩との、卒業以来の対面だった。
黒岩先輩はこちらを見た瞬間、あっけにとられた顔で目を丸くした。しかしすぐにギロリと鋭い視線で私を睨む。
「は? なんであんたがここにいんのよ」
数秒前とは打って変わって、ドスの聞いた声。
とても怖いんだけど、なんか、ちょっと懐かしい。よくわからない感情が私の胸に満ちてきた。
「うっすらニヤニヤしてんじゃないわよ。目上の人間からの質問にはすぐ答えなさいっつーの」
「あ、すんません。私、今日は友達についてきて学校見学に来たんです」
うげ、と露骨に嫌な顔をする黒岩先輩。
「まさかあんたここが志望校なの? 勘弁してよ、高校でまでそのアホ面見たくないんだけど」
「違います違います。志望校は別なんですけど、まぁちょっと見学させていただこうかなと……」
「あっそー」
私と高校も一緒になる可能性がないとわかると、先輩は途端に興味がなさそうに自分の髪の先を指に巻きつけてクルクルやりだした。
その気怠そうな横顔は、中学生の頃よりも大人っぽく見える。
黒岩先輩は、西高の制服をばっちり着こなしていた。濃紺のブレザーに、ワインレッドでストライプのリボンタイ、グレーのミニスカート。すごく女子高生って感じだ。
「先輩、この高校だったんですね。知りませんでした」
確か中学在学中の2月中旬頃に「とっくに推薦で合格決めてるっつーの。こう見えてあたし成績はいいんだから」という高飛車気味な報告は聞いたけど、それがどこの高校なのかまでは教えてもらっていなかった。
黒岩先輩は相変わらず私には興味がなさそうに自分の髪の毛先を見ていた。どうやら枝毛探しに突入したようだった。
「だってあんたに言ってないし。言う必要もないしー」
「そうですか。休みの日に学校で何してるんですか?」
「見りゃわかんでしょうよ。彼氏の応援」
「か、彼氏っ? 先輩、彼氏できたんですかっ!」
思わず素っ頓狂な声が出た。
だって、私が黒岩先輩に目の敵にされていたのは、全て双方の「七緒ラブ」が原因だったからだ。私と先輩は、七緒を巡った恋のライバルだ──いや、これはもう色んな意味で過去形でいいのかな──ライバルだった。
先輩はようやく毛先から視線を外すと、こちらを見てフフンと鼻で笑った。
「当たり前でしょ。こーんないい女、高校入って周りの男が放っておくわけないっつーの」
「じゃ、じゃあ今試合に出てるサッカー部の中に彼氏がいるんですね!」
「そう。あと陸上部とテニス部と少林寺拳法部と写真部と軽音楽部に各1人ずつ」
「6人も!?」
卒倒しそうになった。
「しかも全部先輩だから。『年上キラーのセクシー黒岩』って呼ばれてんの、あたし」
「でも、それって……アリなんですか?もしバレたら血の雨が降ったりしませんかっ」
「あぁ、彼氏は全員知ってることだから、それ。『君くらい魅力的な人なら当然のことだね』って。最終的に自分を選んでくれればいいんだって。基本的にみんな自信過剰だからさー」
「……」
私、絶句。
どんな高校生活なんだろう、先輩。っていうか、どんな思考回路の彼氏たちなんだろう。
あまりにアダルティーな世界の話に思考が追いつかなくなり、私はしばし呆然とその場に立ち尽くした。
そうこうしているうちに、試合の前半が終わり、ハーフタイムに入った。
グラウンドを挟んで向こう岸にいるマネージャーの女子数人が、素早い動きでタオルやドリンクを選手たちに渡しているのが見える。その中で、試合で特に活躍していた背番号10番の長身選手に、小柄な女子マネージャーが親しげな笑顔を向けながらねぎらいの言葉をかけている。それを見た黒岩先輩が、とても私からはお伝えすることのできないレベルの口汚い暴言を呟いた。
きっとあの背番号10番の選手が、黒岩先輩の大勢いる彼氏のうちの1人(なんかこれって英語の定型文の和訳みたいね、とすっかり受験脳の私は思う)。
元恋敵の相変わらずの気性の荒さに、私は震え上がった。
「そういえばあんたさっき友達と見学に来たって言ってたけど、今ひとりぼっちじゃない。その友達はどこ行っちゃったわけ?」
「柔道部に行っちゃいました。だから私はもう帰ろうかなと思ってたところだったんです」
「柔道部? ってことはもしかして一緒に来てるのって東くん?」
「いえ、違います。他校の友達で……」
「でも柔道ってことは男よねぇ? うち女子柔道部はないし」
黒岩先輩が強い目で私を見やり、言う。
「っていうか、あんたは結局どうなわけ? 東くんと進展あったの?」
私は咄嗟に何も言えず、辺りに妙な沈黙が漂った。
「いやー……ははは」
曖昧に笑って頭をかく。
失恋云々の話は、今すぐにはちょっとし難い。七緒を巡ってバトルした時は、黒岩先輩に結構威勢良く啖呵を切ってしまったし。
戦友(と言ったらきっとブチ切れられるだろうけど)のような関係でもある黒岩先輩に、この不甲斐ない終焉を伝えるのは、ためらいがある。
空笑いする私を、黒岩先輩は目を眇めて見つめ、
「ふーん」
何かを察したかのように呟いた。
「……先輩、」
「っていうかあんたちょっと太った?」
私の言葉を遮り、黒岩先輩はズバリと言った。今度こそ、私はその場に崩れ落ちる。
あぁ、そうだ。こういう人だったよこの人は。近い地面が涙で滲む。
「ふ、太ったか痩せたかといえば多少目方は増えましたが……しかし、まだ中肉中背の範囲であるからして、決して危機感を持たなくてはいけないレベルでは……」
「あー、ハイハイそういうのいいから、言い訳見苦しいから。そうだ、これ優しいあたしからプレゼント」
そう言って彼女は、ブランド物の財布から何かを取り出した。
震える手で受け取ったそれは、一枚のペラ紙。左上にポップな字体で『Cafe エメラルド』と書かれている。
「あたしがバイトしてる店のチラシ。この近くのカフェなんだけど、今だけ期間限定で、このチラシを持ってくれば特大パフェが25%オフで食べられるわよ」
「え……」
「あんた料理部だったっけ。どうせ食べるのも大好きなんでしょ。暇な時にでも来なさいよ。色々サービスしてあげる」
話の流れ的に、いまいち意図が見えないけれど。これはもしかして、先輩の優しさなのだろうか?
胸の奥に温かいものが広がりかけた。
「経験上言うけど、これからの2ヶ月、太る人はマジで太るわよ。最後の追い込み時期のストレスで」
とても愉快そうに、黒岩先輩が言う。
胸の「ほんわか」が一瞬で引っ込んだ。
ハーフタイムが終わり、試合後半が始まった。
ピッチへ駆けて来た背番号10番に、黒岩先輩が叫んだ。
「きゃあァ──! カッコイイ──! シー! オー! オー! エル! クールッ! センパイ頑張って──!!」
数秒前よりも声が3オクターブくらい高くなっている。
恋する乙女ってすごい。
私は呆然とその姿を眺めながら、心のどこかで人ごとのように感心していた。