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22<彼の瞳と、86200>

 私の突然の申し出に、七緒はちょっと目を細めて不思議そうにこちらを見た。

「なんで?」

 やはりそうきたか。

 この鈍感無邪気君には理解しがたい問題だったようだ。

 だけど何度も言うように、私は子リスちゃんの複雑な乙女心や、彼氏になる者の心構えとエチケットについて七緒に親切に教える気なんで毛頭ない。

「返して欲しいからだよ」

 若干つっけんどんな言い方になってしまった。

「は?」

「返して、今すぐ」

「なんで急に? これ心都がくれてから1年くらい経ってるだろ。俺、けっこう気に入ってんだよ。部活でずっとお守りにしてたし」

 口を尖らせて七緒が言う。

 ぐぐぐ、と心が大きく揺れそうになるのを私は必至でこらえた。

 そうか、気に入ってくれていたのか。私があげた、この不恰好な柔道着型マスコットを。

 きっと少し前だったら踊り出したくなるほど嬉しかったはずなのに、今はその言葉が、とても辛い。

「急に惜しくなっちゃった。よく見たらすごい可愛いから。自分でも持ちたくなったの」

「え? お前がこれ持つの? 柔道着型だぞ?」

「いいの! っていうかゴチャゴチャ言うな! 著作権は私にある!」

「なんだよそれ。俺、嫌だよ。もう1個同じの作ればいいじゃん」

 七緒がますます憮然とした顔になる。

 私は負けじとマスコットを指差し、吠えた。

「その歪んだフェルトのフォルムと、片寄った綿と、ざくざくした荒い縫い糸が絶妙なの! 同じものは絶対もう作れない! だから七緒に返してもらうしかない!」

「……はぁ、なんだそれ……」

 七緒は呆れたように呟いた。

 それでも渋々といった感じで鞄に付いたマスコットの紐の結び目に手をかけ、解き始めた。

 どうやら私の強引な言い分に押され、返してくれるらしい。


 目を伏せた七緒に向かって、私は心の中で語りかけた。

 大丈夫。こんなものがなくたって、あんたは十分やっていけるよ。

 もしどうしてもお守りが欲しいのなら、子リスちゃんに作ってもらえばいい。

 恋の魔法で、きっと私のより効き目があるやつが出来上がる。


 しばらく手元の結び目と格闘していた七緒が、やがて顔を上げ、ひとこと言った。

「とれねぇ」

「不器用か!」

 私は、七緒が肩に背負ったままの鞄に手を伸ばし、結び目を確かめた。

 細い紐がガッチリ固結びになっている。これは確かに解くのに苦労するはずだ。

 でもそこまでぐちゃぐちゃに絡まっていたりするわけではないし、根気良くやればどうにかなりそう。どうしても駄目ならハサミで切ってしまうという最後の手段もあるけど……でもそれはしたくないな、やっぱり。

 私は頑固な結び目を解きにかかった。


 手元を動かしながら、七緒にこのマスコットをあげた日のことを思い出す。

 去年のクリスマスイブ、雪の降る公園だった。

 その日の思い出の中の七緒は、部活帰りの少し乱れた髪に、青いジャージ姿。今より数センチ背が低くて、部活用のバッグが重そうで。

 仲直りの握手をした右手はさらりと冷たく、私よりも少しだけ大きかった。

 もう1年経つのにとても鮮明で、細部まで思い出せる。

 私がこの手作りの贈り物を渡すと、七緒はすごく嬉しそうに笑った。柔道に対する熱い思いを、キラキラしながら語ってくれた。

 そしてダッシュしてお返しに大福を買ってきてくれたんだ。

 その時に交わした、来年もイブに大福でも食べようか、という冗談まじりの約束。私は浮かれながらも、「その頃には七緒の彼女になりたい!」と激しく思ったんだっけ。

 それはもう叶わないけど、でも、私はその時、本当に嬉しかった。

 七緒の優しさも、強さも、輝きも、眼差しも、大福の美味しさも。

 きっとそこは、今も変わっていないものだよね。


 ほろ、と結び目がゆるんだ。

「とれた!」

 そう言いながら勢いよく顔を上げた。

 至近距離の七緒と目が合う。

 数秒、固まってしまった。

 澄んで見えるほど綺麗な彼の目が、すぐ近くにある。

「なぁにガン飛ばしてんだよ。顔、怖いし」

 っていつものノリで笑って言ってくれたら、私も笑えたのに。おどけて反論できたのに。

 七緒が何も言わずに、ふっと目をそらすから、私はひとつも言葉が出てこなかった。

「……」

「……」

 妙な沈黙の中、自分の心臓の音が七緒に聞こえてしまいそうで怖かった。


「……じゃ、無事とれたってことで、これはもらってくわ!」

 無駄に明るくしてみた声が、空回っているような気がする。

「七緒、あとでやっぱり返せって言っても駄目だからね。一度渡したものはもうその人に所有権があるんだからね!」

「おい。『お前が言うな』っていうツッコミ待ちか?」

 七緒が呆れた顔になる。

 ふふん。よくわかっているじゃん。

 私は鼻で笑うと、マスコットを上着のポケットに押し込んだ。

 心臓の音は、既に平常を取り戻していた。

 大丈夫。任務終了。一件落着だ。

 先程まで結び目に集中させていた筋肉をほぐすように、軽く伸びをする。

「あーぁ。お腹すいたね」

「だな」

「夕飯食べたら勉強、寝て起きたら学校行って勉強、帰ってきてまた勉強……。こーんな生活があと2ヶ月……」

「言うな言うな。言葉に出すとあらためてげんなりするだろ」

「あと約60日、1440時間、86200分ー……」

「その怪談口調やめろって」

 そう牽制したあと、七緒がふと奇妙そうに続けた。

「でも……2ヶ月って言うと長く聞こえるけど、時間とか分に直すとなんか若干短く感じるな」

「……うん。私も今おんなじこと思った」

 あと約86200分後には、受験が終わっている。つまり七緒がこの町を出て行くことが決定している可能性が高いのだ。その時、私はどんな気持ちで過ごしているのだろう。

 ──そして、子リスちゃんは、七緒が遠くに行くことをどう思っているのだろう。

 付き合って数ヶ月の1番楽しい時期だろうに、離れ離れの遠距離恋愛に突入してしまうなんて。それをあんなに華奢な肩の子リスちゃんが受け止めなくてはならないなんて。

 彼女の心情を察して、チクリと胸が痛んだ。



 そうこうしているうちに、私の家の前へ着く。5分足らずの道のりがいつもより長く感じた。

 私は玄関前で七緒に向き直る。

「んじゃ、ありがとーね。わざわざ一緒に来てくれて」

「別に。どーせコンビニまで使いっ走りされてやんなきゃいけないしな」

 そうだった。すっかり忘れていたけど、彼にはこの後コンビニで寒天ゼリーを買うという仕事が残っていたのだ。

 空きっ腹に耐えながら明美さん用の寒天ゼリーを選ぶ彼を想像したら、すごく笑えてきた。

「ガンバ! 七緒、ガンバ!」

「うわー、そのガッツポーズと笑顔ムカつく。あとなんか古い」

「おいコラ、私は純粋な気持ちで応援してるのに、それを……」

 と、言い返しかけたその時、私の上着のポケットから、某ボクシング映画のファンファーレが鳴った。

 喧嘩開始のゴングではない。マイフェイバリットな着メロだ。

 反射的に携帯電話を取り出し、ディスプレイを確認する。着信。

「え、山上……?」

 表示された名前を見て、驚きのあまり思わず口に出てしまっていた。

 だって、山上から電話が来たことなんて今までほぼなかったから(メールは一時期しょっちゅうあったけど)。

 何か緊急事態でも起きたのだろうか。

 しかしなんとなく迷いが生じて、私は通話ボタンを押せずにいた。

 目の前の七緒が、じっと私を見つめる。

 相変わらず鳴り続けている壮大なファンファーレ。

「出ないの?」

「で、出るよ」

「早くしないと切れるぞ」

 そう言いながら彼は、肩の通学鞄を背負い直した。

「んじゃ、俺もう行くわ。またな」

「……うん、ありがと」

 ファンファーレは鳴り止まない。

 山上とは、数日前に商店街で失恋を打ち明けて「なんじゃそりゃあぁぁ!」と絶叫されて以来だ。

 つまり彼との会話は中途半端なところで終わっていた。この着信は、あの話の続きなのだろうか。

 でも山上のことだから、私の予想に反して、全く違う話題をあっけらかんと始める可能性だって多いにあり得る。ううむ。

 今電話に出るか、部屋に入ってからかけ直すか悩む。

 私は玄関の扉のドアノブに手を伸ばしかけた。


 その時。

 ぐ、と唐突に左手を引っ張られる。

 驚いて振り向くと、数秒前に「またな」と言った幼馴染みだった。

 まっすぐ私を見ている。

「……七緒?」

 ファンファーレが止まった。留守番電話に切り替わったのだろう。

 七緒は反射的に何か言いかけて、そして、ハッと口を閉じた。

 我に帰った、という感じの顔だった。

 掴まれていた手があっさりと離れる。

「わりぃ。……なんでもない」

 おいおい、あんたはなんでもない時に人の腕を掴むのか? ここにきて甘えん坊にキャラ変更なのか?

 そんな私の訝しげな表情に気付いたのだろう、七緒はバツが悪そうに目線を彷徨わせた。

 そしてややあって、キッとこちらに向き直ると、信じられないくらい偉そうに言った。

「60日は86200分じゃなくて86400分」

「はっ?」

「やっぱお前、数学が弱いんだな。計算間違いしてる。こういうケアレスミスが受験では命取りになるんだよ」

「…………それを、言うためだけに、わざわざ人の腕ふんづかまえて引き止めたわけ?」

 イライラが爆発しそうだ。

 なんなのコイツ。さっきの真剣な瞳に一瞬でもクラッときてしまった私の気持ちを返せ。

 ふるふると震える私の拳を見やった七緒は、これ以上ここに留まるとまた大喧嘩に発展することを予想したらしかった。慌てて身を翻すと、

「うん、そんだけ。じゃーな」

 冬の夜闇の中に、小走りで消えていった。

「い、嫌味な奴……」

 もう見えなくなった後ろ姿をしつこく睨みつける。

 本当に、なんて無駄な「とくんとくん」を消費してしまったことだろう。悔しくてたまらない。

 今まで奴に対して感じた全く無意味なときめきの数々を、これを機にまとめて賠償してもらえないかしら。「1とくん」=100円くらいで。そしたらきっと結構な額になることだろう。

 ……あぁ、馬鹿なことを考えていないで早く山上にコールバックしなくちゃ。


 そう思い、私は家の中に入ろうとしたのだけど。

 ──さっき至近距離で見た七緒の目が、いやに鮮明に残って胸から離れなかった。

 結び目を解いた瞬間と、左手を掴まれた瞬間。

 その瞳は、吸い込まれるような錯覚を起こすほど綺麗だったけど、どこか悲しげな気がした。





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