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21<ごった煮と、可及的速やかな対処>

 私は、たくさん勉強をすることに決めた。

 ……いや、受験生の12月に何を今更、という感じの目標だけど、これは今あらためて決心しなければならないことだった。

 失恋してからというものの、私は隙あらば七緒のことを考えて辛くなってしまう。悲しくて、胸が痛い。

 特に七緒と子リスちゃんが2人揃って談笑している姿を目撃してしまってからは、ますますそんな思いが増えた。

 そこからの逃げ道が欲しかった。

 だから、言い方は悪いけど勉強に逃げることにしたのだ。

 少しでも七緒の顔が浮かんできそうになる度、私は慌てて参考書を開く。それも、今まで私が使っていたものよりレベルを上げた、かなり難しいやつ。問題文を目で追っているだけでも多大な集中力が必要で、頭がじんじん痺れてきそうになる。

 そうすることで私は七緒に関する色々な感情を、一時的だけど忘れられた。

 それでも、お風呂に入っている時や寝る前のベッドの中、ふとした瞬間に彼と子リスちゃんのツーショットが頭をよぎってしまうことがある。七緒の優しい顔。子リスちゃんの幸せな瞳。2人を包む、輝かしい空気──。

 そんなときは即座に、数学の公式や英語のイディオム、歴史の語呂合わせなんかをぶつぶつ唱える。まるで、悪いものを追い払うお経のように。


 その甲斐あってか、冬休みに入る数日前に返却された期末テストの結果は今までで一番良かった。

 私が有坂高校を志望校にしていることを心配している担任教師からも、「なかなか頑張ってるな」とお褒めの言葉をいただいた。

 もちろんまだまだ安全圏ではないけど、以前よりも合格ラインには確実に近付いてきている。

 私の失恋勉強法、これって大当たりかもしれない。辛いことは忘れられるし、成績は上がるし。一石二鳥だ。

 この経験を元に将来自己啓発の本でも出せるかしら。『失恋、それは偏差値60台への近道。~ピンチをチャンスに変えた15歳の私~  著・杉崎心都』とかって。やばい、なんかかっこいい。

 私はガッツポーズを決めたい気分だった。






「心都ー。ちょっといいー?」

 学校から帰宅して、夕飯までのわずかな時間も逃さず机に向かっていると、お母さんの声が聞こえた。台所から私を呼んでいる。

「何?」

 顔を出すと、夕飯準備中のお母さんがタッパーに何かを詰めているところだった。

「煮物を作りすぎちゃったから、明美のところにおすそ分けするの。心都、悪いけど届けてきてくれる?」

「えー……? 私、今勉強中なんだけど」

 私が口を尖らせたのを見ると、お母さんは呆れたように目を眇めた。

「サッと行って帰ってくれば10分もかからないでしょ。それに心都、あなたここのところ根を詰めすぎよ? いくら受験生だからってそんなんじゃ今にハゲちゃうわ」

「う……」

 私は、有坂高校の可愛い制服(ブレザーにきんきらエンブレムで、ネクタイで、青チェックの細かいプリーツスカート)を着たつるっぱげ頭の自分を思い浮かべた。

 そんなの絶対、嫌。

 私の動揺を見逃さないお母さんが、畳み掛けるように言う。

「ちょっと外の風に当たって、散歩がてら歩いてきてみなさいよ。そうしたら気分転換にもなるから」

 私はお母さんから煮物の入ったタッパーを受け取ると、小さく溜め息を吐いた。

 どうやら行くしかなさそうだ。つるピカハゲ丸くんな自分は嫌だし、仕方ない。

 別に勉強を中断してお母さんの手伝いをすること自体は全く問題ない。ただ、東家には今一番会いたくない奴がいるのだ。明美さんに煮物だけ渡して、上手いこと七緒と顔を合わせずに帰れればいいんだけど。


「心都、もしかしてそのままの格好で行くの?」

 お母さんが疑いの眼差しでこちらを見る。

 私はジャージだった。学校から帰った瞬間着替えた、超ラフな部屋着だ。

「まさか。一応ちゃんと着替えていくよ」

「あぁ、良かった。お母さんてっきりそのまま行っちゃうのかと思ったわー」

 我が母がホッと胸を撫でおろす。

 確かに1年くらい前の私だったら、何の迷いもなくそのままジャージで外に出ていただろう。特に冬なんかは「上から羽織っちゃえばわからないし!」とコート万能説を提唱していたし。

 だけど今は、以前と比べると、人と会うときはある程度身だしなみを整える癖がついた。鉄板だったジャージ登校も、もう完全になくなった。

 年頃の女の子としては全てが「当たり前」すぎることなんだけど、以前のひどかった私からは格段に進化したといえるだろう。

 それもこれも、去年の冬、可愛くなって七緒に告白したいと決心した時からだ。

 瞬間、ふわーんと七緒の顔が頭に浮かびそうになった。──まずい!

「直角三角形の斜辺をc他の辺をそれぞれabとした時a二乗+b二乗=c二乗。三辺の長さがそれぞれabcの三角形に半径rの円が内接している時三角形の面積sはr/2(a+b+c)……」

 ぶつぶつ唱えながら着替えを終えた私を、心配そうにお母さんが見送った。





 東家の玄関のチャイムを押す。

 どうか七緒が出ませんように……。

 そんな私の願いが通じたのか、ドアを開けてくれたのは明美さんだった。

 赤茶の長い髪を後ろで束ねているところを見ると、どうやらこちらもご飯の準備中だったらしい。

「お、どうした心都。家出か?」

「こんばんは明美さん。忙しい時間にごめんなさい。これ、うちのお母さんからおすそ分け。よかったらどうぞ」

 私がタッパーを渡すと、明美さんは透明の蓋の上から中身を見て、心底嬉しそうに言った。

「うわー、サンキュ。めっちゃ嬉しい。爽子の煮物はうまいからさ」

 喜んでもらえて良かった。

 確かに、お母さんの煮物はおいしい。これ以上ないくらい程良い大きさに切られた椎茸、里芋、レンコン、蕗、人参、鶏肉、こんにゃく、ゴボウなどなど色んな具が入っていて、それぞれの自然の風味や甘さが生きていて、でも味付けもちゃんと染みていて。

 ふりふりひらひらのお洋服が好きだけど、料理の方は煮物とか鰤照りとか、意外と和食が得意なのがうちのお母さんなのだ。

「ちょっと寄ってく? お茶くらい出すよ。あいにく七の奴はまだ学校から帰ってきてないけど」

「ううん、大丈夫。私も今から夜ご飯だからさ」

 七緒がまだ帰宅していないことにホッとしつつ、私は東家を後にしようとした──のだけれど。


「あれ……なんだ、心都じゃん」

 私の背後で上がった声。

 振り返るまでもなく、七緒だ。ちょうど学校から帰ってきたのだ。

 どうしてこうタイミングが悪いんだろう。

 気分は最悪だったけど、とにかく返事をしなくてはいけない。自分の運のなさを呪いながら、ゆっくり振り返り、口を開く。

「……おかえり」

「ただいま。うちでなにしてんの」

 その疑問を引き取ったのは明美さんだった。

「おすそ分けにきてくれたんだよ。喜べ七、今夜のおかずが一品増えるぞ。爽子の絶品ごった煮が」

 七緒は「あぁそうなんだ。ありがと」と言うと、明美さんの抱えるタッパーの中身に目をやり、「俺、これ好き」と更に言った。


 そっか。七緒もこの煮物が好きなんだ。なんだか嬉しいな。

 受験が終わって時間ができたら、お母さんに作り方を教えてもらおう。ちゃんと上手に作れるようになろう。そして叶うなら七緒に食べてもらいたい、おいしいって言ってもらいたい……。

 夢見心地でここまで考えて、ハッと気付く。

 それって完全に彼女の役目だ。ただの幼馴染みの私が、子リスちゃんを差し置いてすべきことではない。

 5年間の恋はあまりにも長かった。私、基本的に七緒のことを喜ばせたいっていう考え方が染み付いてしまっている。もう無意識の癖のようなものだ。危険! これって超危険!


「七、心都を家まで送ってってやんな。日暮れが早いからもう真っ暗だろ」

 明美さんの言葉が、私の絶望に追い討ちをかける。

 絶対に断りたい提案だった。七緒と2人きりで歩きたくない。

「い、いやいやいや! いいよ! 5分もかからないで着くし! 大丈夫だから!」

 私は千切れそうなくらい腕を振る。しかし、明美さんは笑顔でそれを撥ね付けた。

「だめだめ。最近この辺も物騒なんだから。七、心都を無事に家まで送り届け、ついでにコンビニで寒天ゼリーを買うという任務を遂行せよ」

 そう言って、まだ帰ってから一度も玄関をまたいでいない自分の息子めがけて財布を投げた。

 七緒はそれをキャッチすると、渋々通学鞄にしまいながら舌打ちした。

「やっぱりそれが目的か」

 なんだかこれ、すごくデジャブだ。



 冬の夜道を七緒と並んで歩きながら、私は気分が沈みきっていくのを感じた。

 まさか隣に彼がいるのに数学の公式を唱えるわけにもいかない。

 強行突破の策として、七緒の存在を完全に無視して参考書を開いて勉強の世界に逃げ込むという手も一瞬だけ考えたけど、それじゃ完全に頭のおかしい女だ。幼馴染みどころかクラスメイトとしてでも一線を引かれるだろう。最低限、人としての大切な部分はちゃんと守りたい。

 ──つまり退路は断たれた。

 今は七緒と向き合って、ちゃんと会話して、ちゃんと辛くなるしかない状況だ。

「ねえ、明美さんまだダイエットしてるの? 確かそもそもは、うちのお母さんと今年の夏に行った旅行のために始めたんじゃなかったっけ?」

 私は、なるべく何気なく聞こえるように注意しながら口を開いた。本当は、「よし喋るぞ! いつも通り喋るぞ! いけるよね!? せーの!」という前置きが心の中であってからのこの発言だったんだけど、七緒は当然そんなこと気付かない様子だった。

「いや、もうしてないみたいだけど。ダイエット以来コンビニの寒天ゼリーにハマったみたいで、しょっちゅう食ってるんだよ」

「そうなんだ。確かに最近のコンビニスイーツはおいしいからね。ハマるのもわかるよ」

「ふーん。そういや学校の近くのコンビニのロールケーキが死ぬほどうまいとか」

「あ、それ女子の間で結構ブームになってるよ、お昼休みにも食べてる子いるし」

「らしいな。朝早く行って買わないとすぐなくなるんだってな」

「七緒詳しいね」

「友達が言ってた」

 私は七緒と反対側を向いて、「ケッ」という顔をした。

 友達がーなんて、よく言うよ。なんてことない風を装った口ぶりだったけど、そんなん絶対子リスちゃんじゃん。クラスの男子や七緒の柔道部仲間に、スイーツに詳しい乙女系がいるとは思えない。

 あーぁ。

 こうして七緒を疑って、ひとり気持ちが毛羽立っている自分が、ひどく嫌な女の子に思えた。

 駄目だ。顔を元に戻して、雑談を続けなきゃ。できればもうスイーツの話からは離れたい。自然な感じでうまく話題を逸らそう。

 瞬時に会話の流れを予想して組み立てる。

 コンビニスイーツからのスイーツ親方で、角界の話にでもスライドできないかしら。日本人横綱の不在について七緒の意見が聞きたい、とか言ってみるのはどうだろう。

 いや、無理があるか……。私も七緒も相撲には全く詳しくない。


 悩みながらも七緒の方にちらりと目を向ける。

 すると、彼の肩にかかる通学鞄に、予想外のものを発見した。

 フェルトで柔道着を型どったお守り兼マスコット──私が去年のクリスマスイブにあげたものだった。

 プレゼントした当初は部活の道着に、引退してからは通学鞄にそれを律儀に付けてくれていた彼。

 この間までは──つまり失恋する前までは、それを見る度くすぐったいような嬉しい気持ちになったけど、今はもう状況が違う。

 いかにも手作り感が満載のそのマスコットが揺れるのを、私は信じがたい思いで見つめた。

 本当に、圧倒的に絶望的に犯罪的に、乙女心がわからない奴。

 こんなのを子リスちゃんが見て、傷つかないとでも思っているのだろうか。

「七緒」

「え、何……」

 私が急に鞄を掴んだことで、七緒は少なからず驚いたようだった。

 足を止め、目を丸くして私を見る。

 この鈍感馬鹿野郎、可及的速やかにこれを外して、捨てろ。そう言おうとしたけどやめた。それだときっと七緒は「なんで?」と聞くだろう。これまでにも飽きるくらい見たあの阿呆ヅラで。

 どうして私が子リスちゃんの複雑な乙女心と、彼氏になる者の心構えとエチケットについて懇々と説かなくてはいけないのか。

 どんな罰ゲームだよ。無理。絶対泣いちゃうよ、私。号泣だよ。


 私は少しの逡巡の後、静かに言った。

「このマスコット、返して」



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