20<定義と、ふたり>
マッチョというのは、標準よりも筋肉の発達が著しい人のことだ。
鍛え上げられた筋肉とはつまりハードなトレーニングの賜物で、その肉体の持ち主が自分自身に厳しい人間であることをあらわしている。
怠惰を許さず、一時の甘美な誘惑にも負けず、己の肉体を苛め抜く。
そうして自分に厳しくしてきているからこそ筋肉と共に内面まで鍛えられ、人としての品性、精神力、料簡、人間性が高まる。
故に、マッチョは並大抵のことでは動じず、いつもどっしりと構えているものである。
山上はマッチョだ。
マッチョである彼は、今まで何があっても決して動じずいつも大きく豪快に笑っていた。
つまりその山上がここまで驚き、動揺するなんていうのは超貴重、マジでパねぇ非常事態なのだ。
「東に彼女っ!? ……ってことは杉崎は失恋!? うわっ、ちょっ、嘘だろっ!?」
「や、山上、うるさい……」
大音量の事実確認で私の傷口を抉るな。
山上は目を大きく見開いて、どうしたら良いのかわからないというふうに口をぱくぱくさせていた。
図体のでかい男のびっくり顔というのは迫力がある。
「いや、だって、……信じらんねぇよ! なんだよ急にそんなのありかよ!」
「私に言われても……」
「杉崎はそれでいいのかよっ?」
山上は愕然とした様子で言った。問いかけというより、ほとんど詰問に近かった。
それでいいのか、と聞かれて即答できない自分が心底憎い。
どろどろとした感情は捨てて、良い幼馴染になるって決めたのに。
ここは、「もちろん! 七緒に可愛い彼女ができて私も嬉しいんだぁ」とスーパーナチュラルスマイルを浮かべて頷くべきところなのに。
「……だって、どうしようもないじゃん」
私は諦めが悪い。奇しくもつい昨日それを実感したばかりだ。
だが、七緒の幸せを願っている気持ちだってもちろん本物であり、この先ずっと変わらない自信がある。
矛盾。ジレンマ。二律背反。
私自身もどうしたら良いのかなんてわからない。
だからそう真っ向に尋ねられると、もう「どうしようもなくね?」という投げやりな返答しかない。
そしてその返答は、山上にとってたいそう望ましくないものだったらしい。
「な、な、なんじゃそりゃあぁぁ!」
刑事の殉職シーンよろしく叫ぶと、彼は苦々しい表情で自分の額に手を当てた。
「そんなのってねぇよ。俺は……信じねぇからな」
「は?」
「信じねぇからな!」
そう吠えると、夕陽に向かい足早に駆けて行ってしまった。
「なんじゃそりゃ……」
こっちの台詞だわ。
山上が私の恋を応援していてくれたことはもちろん痛いくらい知っている。
でも、だからってあんな、この世の終わりに悪魔とオバケと聖飢魔IIを同時に見たような顔をしなくても。
信じられない、信じたくない──そんなの私だって同じだ。だから苦労しているんじゃないか。
頭の中で筋道立てて考えたことと、心の奥の部分が全く決裂している。どうにもならない感情が、しつこく、いやしく、ずっとくすぶっている。初めての経験だ。
どうしようもなく嫌だった。
こんな気持ち、早くケリをつけなくてはいけない──。
「新しい恋ってどうすれば始められるのかな……」
私の呟きに、美里がきょとんと目を丸くする。
朝の教室の爽やかな空気も一蹴するような重い重い溜め息を、私は吐き出した。
「どうしたのよ心都」
「いや、それが恋の傷をペロッと治す一番の特効薬だって聞いて……」
美里が私をじっと見つめた。茶色味の強い澄んだ大きな瞳に、長いまつ毛。とても綺麗だ。3年近く友人をやっている私でさえ、こんなふうに間近で見つめられるとなんだか照れてしまう。
ふいに美里が、呆れたようにふき出した。
「確かにね。でもそんな意気込んで、今からよーいドンで始められるものでもないでしょ」
「う……」
思わず唸ってしまう。美里の言うことはもっともだ。
「あらゆる媒体で腐るほど使い古されたこの名言を心都に贈るわ。──『恋はするものではなく、落ちるもの』!」
ぴしゃりと私に言い放った美里の小脇には、既に教科書とピンクのペンケースが抱えられていた。
「さ、一時間目は理科室よね。行きましょ」
「うん……」
私は自分の浅はかさを恥じた。過去を忘れるために無理矢理誰かを好きになっても、うまくいかないに決まっている。そもそも相手にとっても迷惑極まりない話だ。
「でも心都、やっぱりそうなんだ」
「え?」
「まだ『ペロッと』いけそうにないのね」
振り向かずにさっさと歩き出す彼女の後ろ姿は、気のせいだろうか、なんとなくご機嫌に見えた。
教室のドアから出る直前、何の気なしに黒板に目をやると、その右下のスペースに「杉崎」と書いてあるのが見えた。全身の血の気が引くのを感じる。
「やばい! 私、今日日直だった!」
「あら」
美里が気の毒そうに目を細める。
ナニがヤバイって、一時間目は鬼教師橋本の理科だ。橋本の授業の前には、その日の日直が職員室まで出向き、彼の荷物と伝達事項を預かってそれを理科室まで迅速に届けることが暗黙の了解になっている。必要な物は配置し、クラス中に今日の大まかな授業内容(時には実験内容)を伝え、準備をする。
つまり、チャイムが鳴って橋本が理科室に現れる頃には、もうすぐにでも授業を始められる状態にしておかなければならないのだ。
教室の壁掛け時計を見上げる。授業開始まで、あと10分弱。
「おわ、マジでやばい! ちょっと走って行ってくる!」
頑張ってね、とますます気の毒そうに私を見送る美里の傍らをダッシュですり抜け、私は職員室を目指した。
階段を2段抜かしで駆け下り、おそらく自分史上最速で1階に辿り着く。
良かった。この調子ならなんとか授業の準備に間に合いそうだ。
授業前のこの段取りをうっかり日直が忘れた日には、橋本の機嫌が極悪になる。明らかに教科書のレベル以上の難問を出してクラス中をテロのように乱れ打ちで指名しまくり、もう地獄なのだ。
さぁ職員室まであと少し──というその時。
私は足を止めた。
体中が凍りついたように硬直して、ある一点から目が離せない。
数メートル先、廊下の窓を背に、仲睦まじく談笑する2人。
──七緒と子リスちゃん。
子リスちゃんはファッション雑誌のようなものを手に持って広げ、何やら小さく囁きながら七緒に見せている。隣の七緒も紙面を指差して二言三言答えた。その距離感はとても近く、自然だった。
七緒は片腕に理科の教科書類を抱えている。
教室移動のわずかな時間を利用して可愛い彼女に会いに来ちゃったゾってか。おアツイ、おアツイ。
……なんてチャチャは当然入れられるはずもなく、私は黙ってその場に立ち尽くした。
熱心に会話する2人は、少し離れた場所にいる私の存在には全く気付いていない。それが小さな救いだった。私のこの間抜けヅラを晒すには、ここはあまりにも場違いすぎる。
付き合っていることを知ってから、2人が一緒にいる現場を初めて見た。
お似合いカップルなんだろうとは予想していたけど、それ以上だ。そんな安っぽい感覚では表現できないような「何か」が、そこにはあった。
まるでその周りにだけ透明なベールがかけられたようで、空気が違って見える。とてもじゃないけど近付けない。
2人の前を通らなければここから職員室には行けない。さもなければ、また一旦階段を上って2階へ行き、廊下の反対側の階段から下りるしかない。もちろんそんな大回りをしていたら完全に授業の準備は間に合わない。
そう頭ではわかっているのに、相変わらず硬直状態の体は動かない。
ふいに、子リスちゃんが七緒を見上げ、ふわっと柔らかく笑う。
きらきら輝く瞳で、頬はほんのり紅潮していて。
自分の今の幸せをかみしめて、更にこの先の未来にある彼との幸せを微塵も疑わない、完全に恋する乙女の顔だ。
つい数日前山上に対して言った「どうしようもないじゃん」が、2倍にも3倍にも膨れ上がった「どうしようもなさ」を引き連れて、今、ブーメランのように私の心に襲いかかる。
私のうじうじした気持ちなんかもう全く関係なしに、七緒と子リスちゃんの可愛い恋は育まれていく。物語は進んでいく。
当然だ。そんなのわかりきったことじゃない。
──なのに。
どうすればこの気持ちを綺麗さっぱり消すことができるのか、その方法だけがいつまで経ってもわからないのだ。
屋上で七緒と握手を交わした私は、どこへ行ったの?
たとえ一瞬でも「大丈夫そう」だなんて、どうして思えたの?
こんなに、こんなに、胸が張り裂けそうに痛いのに。
結局私は大回りをして職員室に行くほかなかった。
当然授業の準備は中途半端に終わり、橋本のイライラ、終始MAX。
私はクラス中から恨みの視線をたっぷりと浴びたのだった。