16<恋わずらいと、内緒のあれこれ>
屋上で七緒と交わした握手の暖かさは、しっかりと手のひらに残った。
思えば、去年の今頃にも七緒と思いがけずに握手をしたことがあったっけ。
あのときは確か、長い付き合いの中でも結構深刻な部類の喧嘩中で、それをようやく終えることが出来たのがクリスマスイブの日なんだった。
そして雪の中で『仲直りの握手』と称して、右手と右手で幼馴染みの絆を誓い合った。
だけどそんなふうに七緒の手を取りながらも、私は「来年のクリスマスには、幼馴染みじゃなくて恋人として彼の隣にいたい!」と密かに心の中で思ったのだ。
まさか1年後、もう一度七緒と握手をして、それと同時に失恋まで味わうなんて──あのときの私は全く想像もしていなかった。
「毎日毎日、寒いねー……」
学校の教室内に置かれているストーブというのは、いまいち効きが悪い。
特に今日は直前の4限目が理科室での授業だったから、昼休みの今、完全に温まりきっていない室内はなんとも居心地の悪い寒さだ。
冬の澄んだ空気は好きだけど、毎日毎日こうも冷えると嫌になってきてしまう。
12月っていつもこんなに寒かったっけ? 今年は特に気温が低い気がする。
今日は保温性抜群の水筒に紅茶を入れて持ってきた。
お弁当を食べつつそれを飲むと、ようやくホッと一息つける。
「あー、あったかくておいしい。美里も飲む?」
「私は大丈夫。ありがと」
向かい合って座る美里が、にっこり笑って答える。
育ちが良くお上品な彼女は、当然ながら口にものを入れたまま喋ったりしない。この日ももちろん、卵焼きをきちんと咀嚼、嚥下した後、私の問いに応じた。しかし落ち着いた表情ながらも、その一連の動作のスピードがいつもより少し速い気がする。
「ねぇ心都」
「ん?」
手元のスピードを緩めないまま、今度は美里が私に問う。
「ホントのホントに、終わっちゃったの?」
主語を抜かした質問も、私にはすぐに何のことだかわかった。
長い割に呆気なく散ってしまった、私の恋だ。
あの『屋上閉じ込められ事件』からは既に一週間ちょっとが経っていた。
七緒との握手の後なんだかスッキリした気分になった私は、その翌日には美里に「なんか私大丈夫そう!」と報告していた。
事の経緯を私から聞いた美里は、そのときは穏やかな顔で「そう」と言ってくれた。
しかし彼女がいまだ心の底から納得いっていないことは明らかだ。そもそも美里は、私がそれこそ失恋ほやほやのとき、「すぐにでも七緒くんの胸倉引っ掴んで問い詰めたいくらいよ!」と私以上に感情を昂ぶらせていたのだ。
私は言葉を選びながら慎重に話す。
「完全に100%終わって忘れられたかと聞かれたらわかんないけど……。でも、かなり大きな一歩は踏み出せたかなって感じ。おセンチじゃなく、前向きで明るくてポジティブな一歩ね!」
「ふぅん」
「……えっと、無理してないよ?」
「うん、わかってる。無理してるようには見えないわよ全然」
デザートのいちごにピンクのミニフォークをぶすりと刺し、美里が言う。
「そっか。前向きな一歩なのね、心都」
独り言のような呟きだった。
「うん! ちょー前向き! ちょー元気!」
私は握り拳を作り、快活さをアピールしてみせた。
そう、決して無理はしていない。私はあの日屋上で、確かに失恋を受け入れるための大きな一段階を乗り越えられた気がするのだ。
子リスちゃんのことを語る七緒の表情を見て、心から彼の幸せを応援したいと思った。
そして同じように私のことを応援してくれる七緒からの言葉を受けて、私だってこれから幸せにならなきゃなとも思えた。
これはなんの見栄でも空元気でもない、正直な気持ちだ。
「ごちそうさま」
美里は手を合わせると、綺麗に食べ終わったお弁当箱をしまい始める。
「なんか食べるの早いね美里。私まだ半分だよ」
「うん、ちょっと用事があるから」
「え、また?」
美里はここ最近、昼休みの度にどこかに出かけてしまう。昼食を早めに食べ終えて教室を出ると、5限目が始まるギリギリまで戻ってこないのだ。
どこに行くのか訪ねても、「ちょっとね」といつも可愛い笑顔でかわされてしまう。
ひとり取り残された私は、のりたまご飯をもそもそ口に運びながら考えた。
──もしかして美里、彼氏でも出来たのかな。
校内でも有名な美少女としてモテる彼女だ。
首を縦に振れば、1日で彼氏の1人や2人簡単に作れるだろう。
しかし友達思いの美里は、失恋したばかりの私に気を使って、彼氏の存在を打ち明けられない。だから昼休みにつかの間の逢瀬を楽しむ……。
うーむ。
ありえない話じゃない。
「よう、杉崎。栗原どこ行ったか知らないかっ?」
と、やかましいテンションで私の目の前に現れたのは、田辺だ。12月だというのにブレザーを着ていないどころかワイシャツの袖をまくっている。相変わらずの色黒顔の中に、2つの目がギラギラと光る。
暑苦しい奴だ。
「わかんない」
「っかー! なんだよー! そんくらい把握しとけよなー。お前ら友達だろ?」
イラッとする気持ちをなんとか堪える。こいつにいちいち反応していたら、いくらカルシウムを摂っても追いつかない。
「美里に何か用なの?」
「へへっ。よくぞ聞いてくれたな」
田辺がわざとらしく咳払いをする。
……あーぁ、なんだかまためんどくさそうな予感がする。
「杉崎よ、あと20日で何の日だ?」
と、田辺がやけに仰々しい口調で問う。
私は反射的に、教室前方の黒板に記された日付に目をやった。
今日は12月4日。あと20日後といえば──。
「クリスマスイブ?」
「その通ーりッ!」
「うわ、声でかっ。うるさっ」
私が顔をしかめるのもお構いなしに、田辺は胸を張って続けた。
「クリスマスイブっていえば、恋する男女にとって超重要なイベントだろー? 俺としては今から栗原の当日の予定を聞きだして、自然にスマートにクールにイブのお誘いをしたいわけよ。っつってもまぁアレだな。俺と栗原は去年だって一緒にイブの夜を過ごした仲なんだから、わざわざあらたまって誘わなくても良いかもしんねぇけどな。ここは一応ビシッと男のけじめっつうか」
そう言いながら田辺は締まりのない顔でニヤニヤ笑った。
つくづく、彼の行き過ぎたポジティブっぷりには呆れを通り越して感心すると見せかけて一周まわってやっぱり呆れる。
去年のイブに美里と2人きりで過ごしただなんて、よくこれだけ大威張りで言えるものだ。複数人でのクリスマスパーティ中にアクシデントが重なってたまたまほんの数時間2人でいたというだけなのに。しかも後日美里から聞いた話だと、その数時間は彼女にとってはなかなかの苦痛とストレスを感じるものだったようだし。
ましてや今年は受験生だ。クリスマスイブに好きでもない男から誘われてホイホイ応じるなんて、美里はそんな時間の価値がわからないアホ女ではない。
つっこみたい部分はたくさんある。しかし、私はそれらを田辺に向かって言えなかった。どうしても言えなかった。
なぜなら、つい数分前に打ち立てた自分の中での仮説が、未だに頭の中をぐるぐる回っていたからだ。
もしこのタイミングで美里に本当に彼氏が出来たのだとしたら、きっと田辺のニヤニヤ笑いは号泣に変わる。イブが絶望の日になる。
あぁ、今まで『ラブチャンス同盟』だった私たちだけど、『失恋同盟』に変わる日もそう遠くないかもしれない──。
もちろんそんなことはつゆ知らず、イブの夜のロマンチックな妄想をふくらませニヤニヤ笑いを浮かべる田辺。
つい哀れみが多大にこめられた表情で凝視してしまう。
「な、なんだよ。なんでそんなジットリした目で見んだよ」
「……いや別に」
とりあえず、確証が得られるまでは私からは何も言わないでおく。
「……ところで杉崎」
「ん?」
田辺がぐっと声のトーンを落とす。
「最近ちょっと東が変だと思わないか?」
「七緒が?」
思わず教室を見渡すと、七緒の姿はどこにもなかった。
そんな私の目線に気付いたのか、田辺が言う。
「東なら先生に英語の質問しに職員室行ってるよ」
「そうなんだ。……で、変ってどういうこと?」
「よくボーッとしてることもあるし、かと思えば眉間にシワ寄ってたり、急に絶望的な顔になったりするんだよな。杉崎、なんか知ってるか?」
「……あぁ」
なんだ、そんなこと──。と言いかけて言葉を飲む。
七緒が「そういうふう」に変なのなんて、割りと前からだ。具体的にいえば、引退試合を終えたあたり、夏休みの終盤頃から。
そしてその晩夏は、おそらく子リスちゃんとの恋が始まり出した時期になるのだろう。
つまりそれは恋わずらい。
病気でもノイローゼでもなく、なんとも甘ずっぱい可愛いものなのだ。
その説明をすることは簡単だ。しかし私は、むっつりと黙り込んだ。
どうやら七緒は、子リスちゃんの存在を田辺にまだ話していないようだった。まぁ確かに「彼女が出来た」なんて田辺に喋ったら、その情報が一気に校内中に広がりかねない。
そして、ファンが多い七緒の恋人の座を射止めた子リスちゃんが、女子たちからの嫉妬の標的にされることもありえなくはない。
子リスちゃんのことを大切にしたい七緒が、友人である田辺に多くを語らないのは賢明な判断だといえるだろう。
「……」
数秒間の逡巡の後、私は答えた。
「ごめん、なんも知らない。田辺の勘違いじゃない?」
えー、と唇を尖らせ不満そうな田辺。
しかしその後数分続いた私の「勘違いだよ」のゴリ押しに負け、しぶしぶ納得した様子で去っていった。
許せ田辺。
私だってあんたのことは良い友人だと思っているつもりだけど、それでも言えないことは多々あるのよ。
田辺に邪魔されたせいでお弁当の進み具合は遅く、昼休みももうそろそろ終わりだというのにようやくデザートまで辿り着いたところだ。
小さなタッパーに小分けにして持ってきた櫛型切のオレンジを噛み締める。
想像していたよりだいぶ酸っぱくて、私は思わずギュッと目をつぶった。
さっきまで甘い紅茶を飲んでいたせいだ。
ホットだろうとアイスだろうと、紅茶には昔からたくさんお砂糖を入れてしまう。だから一緒にフルーツなんか食べると、何割増しかで酸っぱく感じてしまうのだ。
それでももう一口食べると、今度は味覚がいくらか慣れて、オレンジも甘く感じられた。
全部きれいに食べ終えて、小さく深呼吸をする。
七緒ってば、子リスちゃんとはもう恋人同士なはずなのに、いまだに恋わずらいMAXだなんて。
幼馴染みの恋の病の重さに、ただただ私は驚くばかりだ。