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14<彼の名前と、罪と罰>

 貯水タンクの陰に隠れて息をころしていると、やがてドアからひと組の男女が入ってきた。

 七緒と、先ほど聞こえた声の主──見たことのない顔の女子生徒だ。子リスちゃんじゃなかった。

 上履きのイエローカラーから判断すると、彼女は間違いなく1年生。だけど肩までのさらさらセミロングと切れ長の瞳がとても大人っぽい。膝上スカートから伸びたカモシカのような足はスラリと長く、ほどよく筋肉がついていて美しい。おそらく陸上か何かの運動部に入っているのではないだろうか。

 健康的で大人びた美人。守ってあげたい系の子リスちゃんとはまた違ったタイプのかわい子ちゃんだ。

 彼女のことはひとまずカモシカちゃんとしよう。


「急にこんな所に連れ出してごめんなさい」

 カモシカちゃんは屋上の中央で七緒に向き合うと、申し訳なさそうに言った。

「いや、別に大丈夫」

「でも東先輩、図書室で勉強してたのに。……邪魔しちゃったよね?」

 と、下から覗き込むようにして手を合わせるカモシカちゃん。

 頭に衝撃が走った。

 ──むむっ。この子、できる……!

 上目遣いは鉄板として、注目すべきは敬語にちょいちょいタメ口を織り交ぜるこのテクニック。

 年下の美人にコレされたら、男はきっとたまらんのじゃない?


 そんなこと全く感知していなさそうなのんきヅラの七緒が、飄々と答える。

「ちょうどそろそろ帰ろうかと思ってたから平気だよ。で、俺に何の用?」

 アホかこいつは。この寒空の下わざわざ屋上に呼び出されて、『何の用?』だなんて鈍感にも程がある。

 彼女ができて少しは乙女心も理解するようになるかと思ったら、どうやらそんなことはないらしい。

 カモシカちゃんも一瞬憮然とした表情を見せたけど、コンマ数秒で引っ込めた。

 そしてその切れ長の美しい瞳に相応しい、ハキハキとした口調で告げた。


「あたし、東先輩のことが好きです。付き合ってください」


 えっ、と七緒が驚いた顔になる。どうやら心底びっくりしているらしい。

 本当に、つくづく、鈍感な奴。

 もじもじとした様子は一切見せず、七緒を見つめ続けるカモシカちゃん。私は彼女と共に七緒の返事を待った。

 もちろんお断りするであろうことはわかっている。だって彼には、可愛い子リスちゃんがいる。ここでOKしてしまったらとんだチャラ男だ。そうなったら私が飛び出てぶん殴ってやる。


 七緒は少し視線を落とし、神妙な顔で、発するべき言葉を探しているようだった。

 そしてカモシカちゃんの目をみて、低い声で、しかししっかりと答えた。

「……ごめん。お付き合いは、できません」

 時間を置いたわりにはシンプルすぎる返答。それは以前美里から聞いた噂通りだった。

 七緒はもう、柔道を告白お断りの理由にしない。

 それは、『大切な人』ができたから──。


「…………やっぱり」

 カモシカちゃんが、七緒に届かないくらいの小さな声で呟いた言葉を、私は聞き逃さなかった。

 彼女もどうやら例の噂を知っていたらしい。それでも玉砕覚悟で告白したのだから立派なものだ。同じように七緒に恋し、失恋してしまった者として拍手喝采を送りたい気持ちになる。

 いや、私と同じカテゴリーに入れるのは失礼かな。だってキチンと告白して自分の気持ちを伝えた彼女の方が、私より何段も上へ行っている。

 大丈夫よカモシカちゃん。あなたって良い女だもん。これからの長い人生、きっとチャンスはゴロゴロある。

 日本の人口は若い世代では男性の方が女性より多いらしいし、もっと具体的な数字に目を向ければ私たちと同世代の15~19歳の日本人男性の人口は約307万6千人で、つまり七緒なんて307万6千分の1なのだ。

 さらに言えばこの失恋の心の重さと痛みだって別に胸の中のガラスのハートがひび割れているなんておセンチで曖昧なもんじゃなく、心臓にアドレナリンなどの大量のストレスホルモンが流れ込みこれによって血液を送る動脈が狭まることや強いショックにより大脳の視床下部を通じて自律神経系の正常なバランスが乱れてホルモンが身体全体の働きをコントロールしている内分泌系まで異常な反応を起こすことなどが原因だから。ちゃんと医学的に説明できるから。

 あぁ、今すぐカモシカちゃんに駆け寄って言ってあげたい。これ全部、昨日の晩に泣きながらヤ●ー知恵袋で「失恋 立ち直る 言葉」で検索をかけた収穫だ。


「東先輩。あたし、とりあえず二番目の女でもいいんですけど」

 えぇーっ!? 何を言い出すんだこの子は!

 カモシカちゃんが笑顔で放った衝撃発言に、私はその場につんのめりそうになった。

 しかし七緒はその倍驚いたようで、目をぱちくりさせながら数秒言葉を失った。

「……に、にばんめ?」

 さすがに意味がわかっていないわけではないだろうけど、七緒はそれでも信じられなさそうに、というかもはや恐怖さえ感じているような顔で反芻した。

 カモシカちゃんはそんな七緒の反応を見ても全く動じず流されず、続ける。

「先輩の心の中に他に一番の女の子がいても、それでも全然オッケーです。だってホラ、付き合っていったらもしかしてあたしのことのほうが好きになるかもしれないでしょ? だからとりあえず彼女にしてほしいです。大丈夫、あたしそのへんは上手くやりますから。誰にもバレない自信あります。っていうか秘密の関係っていうのもちょっと逆に燃えるじゃないですかー。ね、だめ?」

 カモシカだなんてとんでもない。思いっきり肉食女子じゃないか。

 頭がくらくらとしてきた。二番目で良いよなんて私にはとても言えない。というか言いたくない。

 でも、一見望みの薄い恋を成就させるにはこのくらいのガッツが必要なの?


 七緒はカモシカ(肉食)ちゃんの持論を、呆気にとられたように聞いていた。

 しかし彼女の言葉が終わる頃には慨然たる表情になり、思い切り息を吸い、そして吐き出した。

「だ……駄目に決まってんだろ!」

「えー」

 カモシカちゃんが鼻白んだ表情になる。

 しかしそんなことは気にも留めず、七緒は更に眉を吊り上げた。

 あーぁ、こりゃ説教モード入っちゃったな。

「そんなバカなこと簡単に言うもんじゃない。自分の価値を下げるだけだよ。あのな、それで本当に幸せなのか一度胸に手を当ててよーっく考えてみろよ。もう少し自分を大切にしたほうが、」

「真面目かっ!」

 ──ゴッ。

 七緒の言葉を遮り、カモシカちゃんの怒号と鈍い音が響いた。

 それと同時に、七緒が数メートル吹っ飛ぶ。

 驚くべき速さでカモシカちゃんの綺麗なアッパーが決まったのを、私はしっかり見ていた。

「女子がここまで言ってんだから普通オッケーするっしょ! 信じらんない! ほんっと、真面目か! 硬派か!」

「……」

 顎を押さえて言葉もなく伏せる七緒。おーい、大丈夫か。もしかして顎が2つに割れちゃった?

「あー、つまんないっ! まじシラケるー」

 そう吐き捨てると、カモシカちゃんは大きな歩幅で床を踏み鳴らし、屋上から出て行った。バタン! と壊れるくらい強い勢いでドアが閉まる。

 嵐が去った──。

 私は気付かれないように小さく息を吐きだした。

 カモシカと見せかけて、やっぱり肉食と思わせて、結局とんでもなく激しい女の子だった。あんなふうに全ての感情をストレートにぶつけられたら、きっと人生もだいぶ面白いだろう。

 あの激しさ、なんとなく黒岩先輩を思い出させる。

 あぁいうタイプは怖いけど意外と嫌いじゃないなぁ。もちろん敵には回したくないけど。


 ややあって、のろのろと緩慢な動作の七緒が半身を起こした。

 苦みばしった薄笑いを浮かべて顎をさすっている。

「…………はは……いってぇ……」

 屋上の冷たいアスファルトの床にへたりこんだまま、ぽつりと呟く。どうやら顎は割れていないらしい。良かったね。

 でも例えケツ顎になっても、きっと子リスちゃんは変わらずあんたを愛してくれるよ。だって七緒も子リスちゃんに対してこんなに一途なんだもの。美人さんの誘惑に、クラリとも揺れないで説教できるくらい。

 もちろん彼の元々の性格が真面目で正義感が強いこともあるけど、それ以上に2人の愛の強さを見せつけられた気分だ。

 覗き見という変態行為だけど、結果的にこの現場に遭遇できて良かったのかもしれない。

 子リスちゃんを思う七緒を見て、やっぱり複雑で切ないけど少しホッとしたから。

 こういう気持ちを重ねていけば、きっとそのうち完全に自分の恋をあきらめられる。

 これが失恋と向き合うっていうことなんだよね。

 でも、まだ。

 まだ時間がほしい。「お付き合いはできません」と答えた先程の七緒の真剣な表情が、脳裏に浮かぶ。あのとき、彼の心の中は間違いなく大切な女の子──つまり子リスちゃんへの気持ちでいっぱいだった。

 やっぱり私は未練がましい女だから、完全にこの気持ちに整理がつくのはもう少し先になりそうだ。

 ──私も七緒にあんな顔で思われてみたかった。

 心臓にアドレナリンなどの大量のストレスホルモンが流れ込みこれによって血液を送る動脈が狭まることや強いショックにより大脳の視床下部を通じて自律神経系の正常なバランスが乱れてホルモンが身体全体の働きをコントロールしている内分泌系まで異常な反応を起こすことなどが原因だとわかっていても、やっぱり胸はどうしようもなくズキズキと痛いのだ。

 きっとまだ七緒と話すと泣きそうになっちゃうと思うから、このまま鉢合わずに帰りたい。

 七緒が屋上から立ち去った後を見計らって、私もそっと退場したい。


 しかし、神様はどこまでも私に意地悪だ。


 視界の下方でちらちらと何かが動く。違和感を覚え目を向けると、そこにはおぞましい光景があった。

 私の大嫌いな、体が長くて節がいっぱいあって動きがキモい虫が、いた。

 うわっ、と思わず出かけた声を飲み込む。

 なんだっけ、この虫、名前がずっと思い出せなかったけど、今対面して向き合ったことで思い出すかも。表情の感じられない顔、パサついた体、緑がかった茶色。

 次の瞬間、奴が私の足に飛びついて来た。膝に着地し、不躾に私の肌を撫で回している。

 すぅっと全身の血の気が引く。

 この長い手足、節の多さ……あぁ、そうだ、思い出した、確かこいつは────

「ナナフシ!」

 絶叫と共に貯水タンクの陰から転がり出る。

 その拍子にナナフシは私の膝から離れ、不気味なほど細長い手足を器用に動かしながらどこかへ行ってしまった。


 しかしホッとするのはまだまだ早い。

 私が転がり出た先には七緒がいて、まるでモンスターでも見るような目でこちらを見つめている。

「……」

「……」

 数秒間の沈黙が、永遠にも感じられた。

「……あ、あは……」

「……」

「殴られてやんの」

 と、私は七緒を指差した。

 固く握られた彼の拳が、ふるふると震える。

「心都、お前……本格的にそういう趣味があるのか」

 七緒と誰かの会話を物陰からこっそりと盗み聞きするのはもう何度目だろう。そのたび彼にはブチ切れられてきたけど、今度こそ本当に我慢の限界といった感じだ。

「いや、ごめん、でも今回のはけっこう不可抗力っていうかさ、」

「マジで訴えんぞ! 次会うのは法廷でってか!」

 七緒の背後に怒りの炎が見える。

 私はジリジリと後退しつつ、「まぁ落ち着けよ」と声をかけた。

「ほら、ねぇ、ここじゃ寒いよね? とりあえず建物に入って、ストーブのきいた教室でゆっくり話し合おうよ」

「変態と話し合うことなんかねぇからな!」

「まぁまぁ、そうヒートアップなさらずに……」

 怒る幼馴染みをなだめながら私は屋上のドアに近付き、銀色のノブに手をかけた。

 廻しながら押し開け、重いドアがひらく……はず、だったのに。

 ドアはびくともしない。

「……あれ? 開かない」

「え? そんなわけないだろ」

 隣に来た七緒もドアノブをがちゃがちゃやる。

 しかし冷たい鉄の扉に、全く変化はない。

「……本当だ」

 思わず、七緒と顔を見合わせる。

 嘘でしょ? なんで? これ大丈夫なの? そんな感情より先に私の胸を占めたのは、ただただ深い絶望。


 今いちばん2人きりになりたくない人と、まさかの屋上で「密室」状態────これって変態行為への罰ですか?




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