13<スープの罠と、BLUE TEARS>
冷やし方がダメだったのか、泣き方が激しすぎたのか。翌朝、目覚めると私の瞼は盛大に腫れ上がっていた。
半分寝ぼけたままで鏡の前に立つと、お岩さん状態の自分が恨めし気にこちらを見ている。
こんな顔で七緒に会いたくない! と瞬間的に考えて、すぐ我に返る。
──あぁ、そうだ。私ってば昨日失恋したんだった……。
目が腫れていようが十円ハゲが出来ていようが、もうこの恋に影響を及ぼすことはないんだ。自分に起きた出来事をすぐ七緒と結びつけて考えてしまう、長年染みついていたこの癖はなかなか抜けそうにない。
あらためて恋の結末を突き付けられた気がして、ずんと心が重くなる。
心底七緒に会いたくないけれど、学校には行かなくちゃ。
急いで準備を済ませ、いつもより15分ほど早く家を出る。
ご近所さんのため、私と七緒の通学路はほとんど一緒だ。だから今日は時間帯をずらし、彼に会う確率を少しでも下げる。
こうしてちょこちょこ地味な努力を続け、心に抵抗力がつくまで、七緒との接触を避ける。
昨日決めた、我ながら完璧な作戦。──のハズだったのに。
「ゲッ!」
「ゲッてお前……朝一番で失礼だな」
玄関を開け表に飛び出した瞬間。今まさに我が家の前を通過せんとす七緒にバッタリ遭遇してしまった。
まるで大嫌いな虫(名前は知らないけど体が長くて節がいっぱいあって動きがキモい)と対面したかのような私の反応に、かなりムッとした表情の七緒。
私はその顔に一瞥くれると、早歩きで彼の前を通り過ぎる。
ますます心外だという風な七緒が、同じく歩調を速めて横に並ぶ。
「お、おいおいおいコラ。なんだよ朝から無視かよ」
「いや、ほら、遅刻しちゃう……」
「まだ始業までだいぶあるだろ。どんだけ遠回りする気だよ」
「そ、そうだよねそうだよね、うん。な、七緒、今日はやけに早いね?」
よりによって、なんで今、会うのだろう。
朝に強くない七緒のくせに早く登校するなんて! クソッついてくんなよ! と下手すればいじめっ子のような罵声を浴びせたい気持ちを必死で静める。
「なんか朝早く目が覚めてさ……。つーか心都、その目……ものもらい?」
七緒の綺麗な目が、私の厚ぼったい瞼を凝視する。
私は思わず息をのむ。
昨日までは──恋が終わるまでは、七緒に見つめられると心がときめいた。
彼の瞳に、私の長い片思いの一縷の望みを見ていた。
だけど今は七緒と目を合わせるのが辛すぎる。
これ以上私を、見ないでほしい。
私は歩みを止めた。
「実は昨日、稀代の名作フランダースの犬を観てしまいましてー……幼少期に見た際には作中のスープが美味そうでそれにばかり心奪われていたのですが、昨日は終始大号泣ですよ。いやはや歳をとると涙もろくなってどうもいけませんねー、ハハッ」
「なんだよその意味不明キャラは……」
七緒がもはや愕然とした表情になる。
その一瞬の不意をついて、私は全力疾走した。
「そういうわけだから、お先っ! ばいびー!」
何がどう『そういうわけ』なのか。明らかに突っ込みどころ満載の支離滅裂な文脈だった。
だけど私の異常者っぷりに恐れをなしたのだろう、七緒はもうついてこなかった。
「……ほんとに変な奴」
走り去りながら、背中に、七緒の小さな呟きだけが届いた気がした。
「美里、私、早くも無理かも……」
机にぐったり突っ伏しながら、私は親友にギブ宣言した。
不自然に七緒を避け続けていた今日一日、朝から放課後までが恐ろしく長く感じた。
彼と目が合っては逸らし、狭い教室内ですれ違いそうになってはUターンする。いつもの癖で彼の姿を無意識に目で追いそうになっては慌てて止める。
そんな行動は私の想像以上にパワーがいることのようで、もうすっかり疲れ果てた。
こんな状態でこれから先は本当に大丈夫なのだろうかと不安がむくむく湧き上がる。まだ傷心歴1日だというのに。
「七緒と接触しなければだんだん気持ちも楽になるかと思ったけど……なんかますます悲しくなって……そもそも授業中とか後ろの席から姿が見えてるだけでも胸が痛いし」
消え入りそうにぼそぼそと呟く声を、美里はちゃんと聞いてくれた。
沈痛な表情を浮かべ私の頭を優しく撫でる。
「そう……じゃあどうしましょう。登校拒否? 転校?」
「えっ」
「心都か七緒くんのどっちかが学校に来なくなる。姿を見ずに済むにはその方法しかないわよね」
「そ、それは無理だな……」
「じゃあ頑張るしかないわね」
「……そうだよね」
美里がにっこり微笑む。
「あのね、人間の心は絶対に環境に順応するようにできてるのよ。それが時にはまた違う寂しさを生んじゃうこともあると思うけど……でも、そうやって自分の心を守る力っていうのを人間は元々持ってるの。だから今の辛さが死ぬまで続くっていうのは、絶対ないことよ」
「美里……」
「時間が解決してくれる……っていうのは、ちょっと無責任で投げやりな言い方に聞こえちゃうかもしれないけど、でもそれは間違いないのよ。心都は自分自身のために、無意識に自分で整理をつけていくはずなの。だからそれまでは思う存分落ち込んで泣きながら頑張れば良いと私は思うわ」
美里の言葉に、胸が徐々に軽くなる。
今はまだ想像もつかないけど、きっといつか七緒への恋心を昇華できる日が来る。「この恋」が「あの恋」に変わって、過去形として振り返ることができるのだろう。
だからそれまでは、奴をなるべく避けて(許せ七緒)、でもたまに目で追っちゃったりして、しっかり傷付こう。きっと今は、そのための痛みなのだ。
「うん……美里、本当にありがとう」
「まぁ、まだ1日目だものね。私も今できる限りのことはやってみるわ」
「え、何?」
「心都の恋が実る可能性がまだ残ってるか探すのよ」
先程まで慈愛に満ちていた彼女の目が、不敵に光る。
「えぇ!? そ、それは……自分で言うのもなんだけど可能性0だと思うんだけど……っていうか本来私が最初にやるべきことだし、大事な時期にそんなことで美里の手を煩わせるのも、」
美里が勢いよく右手をかざして、私の言葉を制した。
「違うの。いいのよ、私が納得いかないだけなんだから。昨日も言ったでしょ? 最近の七緒くんは絶対心都に幼馴染み以上の気持ちがあったって。私、自分のこの読みが間違ってるとはどーしてもまだ思えないのよねェ。七緒くんと子リスちゃんをこじれさせるようなことはしないから大丈夫、安心して」
「いや、でも受験勉強は……?」
「何も24時間ぶっ続けで勉強してるわけじゃないんだから。元から私、集中して勉強する時間としっかり休憩する時間をメリハリつけてやったほうが能率上がるタイプだし。それに……困難な問題があった方がなんか燃えるのよ」
美里の瞳の中に炎が宿っているのを、私は今、確かに見た。
「──とにかく! 私はまだ全然納得いってないんだからね、心都! すぐにでも七緒くんの胸倉引っ掴んで問い詰めたいくらいよ!」
彼女がこんなに闘志をあらわにするのはめったにないことだ。
大迫力の美少女に、私は情けなくも若干震えていた。
* * * *
どんなに失恋で胸を痛めていても、当然ながら受験からは逃れられない。
美里と別れ、私はひとり職員室に立ち寄った。今日の数学の授業でいまいち理解できなかった部分を先生に質問するためだ。
やっぱり得意な文系科目に比べると、どうしても理数系の方でつまづく箇所が多い。夏休みに夏期講習に通った成果でそれまでよりは格段に偏差値も伸びたけど、まだ有坂高校の合格ラインに達するには足りない。
受験まであと3か月──ますます気合いを入れねば。
こんなに心が痛い状態がしばらく続くなら、それをバネにして勉強に打ち込むくらいでなくちゃダメだ。
人もまばらな職員室で数学科の先生に問題を解説してもらい、納得したところでお礼を言って廊下に出る。
みっちり30分間の個人指導だった。頭をフル回転させすぎてなんだかじんじんと熱を持っているような感覚だ。
1階の職員室から3階まで上がりすぐに図書室で勉強する予定だったけど、ちょっと変更。5分だけ頭を冷やしたくなって、私は一気に階段を最上階まで駆け上がった。
冷たい鉄製の扉を開けると、屋上は無人状態だった。
落下防止のため2メートルほどある金網フェンスの側まで行き、大きく伸びをする。
当たり前だけど遮るものが一切ないそこでは11月の冷たい風が容赦なく吹き、みるみる頭がスッキリしていく。
基本的に夜以外は屋上に鍵をかけないらしい。それにもかかわらず、普段から休み時間や放課後にこの場所が賑わっていることはない。なぜならここは、生徒たちの間でバリバリの『告白スポット』となっているからだ。友人と馬鹿話に興じている時に、思い詰めた顔の男女と鉢合わせてしまったら、お互いに気まずいことこの上ない。ちょっと悪ぶった男子生徒がタバコの真似事でもしたいときも屋上ではなく体育館裏などに行くように、きちんと住み分けも出来ている。
だから我が校では『屋上=告白専用』という公式が暗黙の了解として根付いているのだ。
ラッキーなことに、今は完全に私の貸切状態のようだけど(……まぁ、この時期は寒いのでそれも頷けるな。告白する方だってされる方だって、こんな吹きっさらしの場所よりもストーブで暖まった教室の方が良いだろう)。
そういえばいつか、ここで七緒が先輩女子に告白されているのを偶然目撃しちゃったことがあったっけ。
あれは確か去年の12月。今よりもっと寒い時期のはずなのにこの場所で愛の告白を選ぶというめずらしいパターンだったな。
あの頃はまだ七緒の告白の断り方が通常運転──「部活に集中」だの「今は誰とも付き合う気がない」だの──だった。それに複雑な気持ちを抱えつつもホッとしていた当時の私に、「甘えるなッ!」と鬼軍曹ビンタをかましたい。もしそう出来たら、こんな恋の終わりにはならなかったのかな──。
ぽろり、一粒涙がこぼれた。
慌てて手の甲で拭う。
──戻れもしない過去を悔やんでも仕方ない。
今はまだ七緒を見るたび涙を堪えるのに必死だけど、そのうち軽く笑って「彼女できたんでショッ? もう、隠すなんて水くさいゾー!」って話題を振れる時が来るだろう。っていうか、来ないと困る。来るはずなのだ。
「だってそれが人間の順応力なんだもんね」
今日聞きかじったばかりの知識をぽつりと呟いて、空を見上げる。
放課後の屋上で佇む傷心の15歳……。へへっ、ちょっとおセンチじゃないの。悪くない悪くない。
他人事のようなことを考えてニヤニヤしていると、開けっ放しだったドアの向こうから、微かに足音が聞こえてきた。
まだこちらへ向かう途中らしく姿は見えないけど、耳を澄ますと2人分。階段を上って確実にこの屋上へと向かってきている。
──やばい!告白だ!
すぐにこの場から去ろうと身を翻しかけた私は、次の瞬間小さく聞こえた声に、動きを止めた。
「ごめんなさい東先輩、寒いけど屋上で良いですか?」
まだどこか幼さの残る女の子の声は、確かに東先輩と言った。
きっと傍らの七緒が頷いたのだろう、「ありがとうございます」と女の子。
子リスちゃんの声かと言われればそんな気もするし、別人だと言われればそうも思う。子リスちゃんの声を聞いたことはまだ数回しかない上に、距離が遠くそこまで明確に耳に届かないのだ。
私は、頭を冷やすためというぼやけた理由でのうのうと屋上に来てしまった数分前の自分を心から恨んだ。さっきの記憶にもあったように、七緒はクリスマス前になるといつにも増してたくさんの女子から愛を打ち明けられる。告白スポットであるここに現れる可能性だって十分考えられたじゃないか。
七緒。
悪いけど、今日は本当にあんたに会いたくなかったのよ、私──。
だけど今はそんな後悔より、この状況をどうするかが問題だった。
早くしないと2人がドアから入ってきて私を見つけてしまう。
しかし今私が出て行っても、どのみち途中ですれ違うことになるのは間違いない。
どうしよう────。
私はとっさに屋上の端の、少し高くなっている場所に設置されている貯水タンクの陰に身を潜めた。
あぁ、こんなのって何度目だろう。
もしも見つかればまた七緒に、覗き魔の痴女の変態の最低野郎だと罵られることは必至だ。
「……」
中腰でしばしの葛藤の末、そこにどっかり腰を落ち着ける。
もう良いよ。その通り、私は変態だよ! 文句あるか!
開き直ることにした。
失恋は女を強くするとはよく聞くけど、どうやら本当らしい。