10<冬の夜と、卒業写真>
──ひととおり七緒をからかい終わった頃。イルミネーションが輝く住宅街を抜け、街頭の少ない公園の前まで来ると、辺りは一気に暗くなった。
隣を歩く七緒の顔も夜の闇にまぎれて、先程より鮮明には見えない。
その薄暗さが心強く、今なら聞ける気がして、私は口を開いた。
「七緒さー」
「ん」
「もしかして好きな人とかできた?」
ざざっ。──妙な音と共に、七緒が視界から消えた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……う、うっせーな」
「まだ何も言ってないよ私」
派手にすっ転んだ彼は、自分の足元の小石を恨めし気に睨む。どうやらこれにつまづいたらしい。
「完全に『ださっ』って言う寸前の顔だっただろ。口が『だ』の形になってたんだよ」
「『大丈夫?』の『だ』かもしれないじゃん! 決めつけ良くない!」
「って言ってる今の顔が既に半笑いなんだよお前!」
いや、確かに『ださっ』って言う1秒前だったけど。指差して笑う準備もできていたけど。
七緒は立ち上がると、ムッとした顔で制服についた汚れを払った。
私は質問したことを後悔していた。
そんなにあからさまに動揺されるなんて予想外だ。
これじゃまるで──あの噂が本当の本当に、本当みたいじゃない。
答えを聞くのが怖かったけど、一度自分から質問をふっかけてしまった手前、もう後には退けない。この話題を変に引き延ばすのも、気まずい雰囲気になりそうで嫌だ。
私はなるべく軽く、おちゃらけた感を出すよう努めて、もう一度七緒に尋ねる。
「で、どうなのよ結局のところ。部活命だった七緒にもついに恋の季節がやってきた? 冬だけど頭ん中は常にお花畑状態?」
「はぁ?」
「もし既に両思いなんだったらパーッとお祝いするし、片思いだったらいっちょ協力してあげてもイイよ、なんて思っちゃったりして」
「好きな奴なんてできてねーよ」
七緒がぶっきらぼうに答える。
「あぁ、そう……」
そうハッキリ言われたら、もうそれ以上は深く詮索できない。
「おせっかいおばさんはそのへんにして、お前こそ前から好きな奴いるって言ってたけどどうなってんだよ」
私の話はいいんだってば。そう突っぱねたい気持ちに何とか蓋をして、曖昧に頷く。
「……あー、うん、まぁボチボチ……?」
「歯切れ悪いなー。その感じだとあんま進展できてなさそうだな。夏祭りのときは俺の意見なんか参考にしてたけど、結局その『好きな奴』とは浴衣デートのひとつもできなかったんだろ」
「うん……」
そういえばそういうことになっていたんだっけなぁ。ややこしい。
今年の始めに行った遊園地で、ただいま絶賛片思い中だとバレて以来、七緒とはもう何度か「私の好きな人」の話をしてしまっている。
バレンタインにチョコを作ったこと。
浴衣姿を可愛いって思ってもらいたいこと。
まだ告白する勇気が出ないこと。
すごくすごく好きなこと。
だけど一番肝心なところ──その好きな人が「誰」なのかってことについては、もちろん七緒は知らない。
「ぼやぼやしてるとあっという間に卒業だぞ、心都」
「ですよねー」
彼の言葉が重く重く、胸に響く。
そうなんだよね、七緒。私たちもう少しで卒業なんだよね。
卒業したら離れ離れになっちゃうんだよね。
私、それまでにあんたに「好き」って言えるのかな──。
勇気を振り絞って切り出した話題だけど、動揺しつつも結局否定されて、挙句の果てには攻守逆転で私の好きな人の話になってしまった。
おさまらない胸騒ぎ。
好きな人はいないって七緒は言ったけど。
本当なのだろうか。
もちろん七緒が「いない」という以上、下手に突っ込んだことは聞けない。
ストレートに、単純に、その言葉を100%信じて『なぁんだ。やっぱり噂はデマだったんだ。良かった良かった、ガッハッハー!』と思うことができたら、どんなに穏やかに過ごせるだろう。
だけど、どうしてもそんな気になれないのだった。
だってなんだか今日は七緒の表情が────
「「────……あのさ」」
おおう。見事にハモってしまった。
私と七緒は目を見合わせる。
「何?」
「いや、七緒がお先にどうぞ」
「いやいや、そちらこそ」
こんなときばかり日本人の譲り合い精神を発揮しなくてもいいのに。
私は言葉に詰まる。
別に、何か特別言いたいことがあったわけじゃない。ただ、もうあと数メートル先には我が家が見えていて、このままの空気でお別れになるのは嫌だったから。
「……カレーの匂いがするね!」
そのとき瞬間的に思ったことが、そのまま口をついて出た。
「しかもこの匂いはビーフでもポークでもなくチキンとみた。きっとこの辺のどっかの家が今晩チキンカレーなんだね! いや、もしかしてうちかも! 私の家って実は昔っから木曜日にカレーになることが多くてさ! なぜかっていうと木曜金曜って、お母さん的にも平日の後半戦で夕飯のメニュー考えるのが大変らしくて、だから木曜にカレーにすれば、金曜も一晩寝かせたカレーで美味しいし楽チンだし万々歳、みたいな? まぁ小さい頃から私カレー好きだったから全然嬉しかったけどね!」
これだけ一度に喋りきり、私はゼェハァと呼吸を整える。本当に、思いついたことをそのまんま話してしまった。
しばらく面食らったように私のマシンガントークを聞いていた七緒。だけど、やがてプッとふき出した。
「そーだな」
七緒は可笑しそうに笑っていた。
てっきり、また食い物のことばかり、とか言って馬鹿にされるかと思った。
予想外の可愛い反応で、今度は逆に私の方が面食らってしまう。
「……あ。で、七緒は? 何言おうとしたの?」
「俺も同じ」
「え?」
「カレーのいい匂いがするなーって」
本当かよ。それにしては、さっきずいぶん深刻な雰囲気を漂わせているように見えたけど。
だけどこんなことまで疑っていてもキリがないので、ここは私も素直に「そうなんだ」と頷くことにした。
冬の夜の暗闇のせいなのかな。
なんだか今日は七緒の表情が、いつもよりずっと大人びて見える。
「リボン曲がってない?」
「今日に限ってちょー顔むくんでる。さいあくー」
「昨日美容院行ってきちゃった」
「マスカラつけてたら先生にバレるかなぁ」
「大丈夫でしょ、私も今日は色つきリップ持ってきたし」
──翌日。
女子トイレの鏡の前は、いつにもまして大混雑。身支度を整える女の子たちで賑わっている。
何を隠そう今日はちょっとした一大イベント、卒業アルバムに載せる個人写真の撮影日なのだ。
一生残るものだから少しでも可愛く映りたい──そんな女子たち思いがひしめき合い、辺りは異常な熱気を放っていた。
私だってもちろんそれくらいの乙女心は持ち合わせているけれど、あの大混戦状態の鏡の前へ、人混みをぬってまで入り込むガッツはない。早々に戦意喪失し、トイレ前の廊下の窓ガラスで適当に前髪を直したりしていた。
「心都、こんな微妙な場所で何やってんのよ」
と、戦場から帰還した美里。窓ガラスと睨めっこ状態の私を見遣り、呆れたように言う。
「いやー、だってあの中に入ってく気がしないよ……」
「だったらせめて手鏡でも使えばいいのに。何もこんな窓ガラスの隅っこでチマチマやらなくても」
いつだって完璧に可愛い美里だけど、身支度を整え終わった今は、いつにも増して輝いている。写真撮影の準備は万端なようだ。
一方の私はというと、冬の乾燥で近頃唇が荒れ気味。とりあえず美里の真似をして買った蜂蜜配合のリップを最近塗ってはいるけど、改善されているのかはいまいちわからない。もっと言うと、私はいつものごとく手鏡を学校に持ってきていない。だけどそんなこと正直に打ち明けたらきっと美里は私の意識の低さに怒り狂い、せっかくの可愛い顔が写真撮影前に恐ろしいことになってしまうだろう。だから私は「窓ガラスでじゅうぶん!」と笑って誤魔化した。大切な親友が眉の吊り上った状態で卒業アルバムに残るのは、私だって嫌だ。
そして、とりあえずせめて、今日の卒業写真では私のこのかさついた唇が鮮明に写らないといいなぁと心から思う。
撮影場所である体育館にぞろぞろと移動する。
広々とした館内には、写真屋さんの本格的な背の高いカメラと、顔を明るく写すための白い板みたいなもの、その他諸々の機材、そして被写体が座る丸椅子。それらが3セットずつ用意されていた。見慣れた体育館とは違う場所みたいに見える。
「結構混んでるわねー。まだ1組女子が撮ってるみたいだし」
辺りを見回し、美里が言う。
1組男子、女子、2組男子、女子……という撮影順番になっている。このぶんだと我々2組女子の番まではまだ少し時間がかかりそうだ。
館内には順番待ちの生徒はもちろん、写真を撮り終わった生徒まで教室に戻らずに好き勝手にお喋りしながら撮影を見学している。本当だったら撮影を終えた人から順次教室に戻って自習、なんだけど……いちいちチェックする先生もいないから、まぁ当然のようにそのルールが守られることはない。
つまり、館内には学年のほとんどの生徒が集まっていて、雑然としている。
まだ自分の順番までは遠そうだし、壁にもたれかかって、ぼんやり他クラスの撮影を眺めることにした。
やっぱりどの女子生徒も、いつもよりおすまし顔で丸椅子に腰かけている。
直前まで手鏡で身なりを整えて、「よし万全!」とカメラの前へ進むその姿は、さながら戦場に向かう一流戦士みたい。中には、少しでも小顔に写ろうと顎を引くあまり、完全にメンチ切り状態になってカメラマンさんに注意されている子もいた。
そんな必死ともいえる努力も、当然といえば当然だ。
だって一生残るものだもの。ちょっとでも可愛く写りたいよね。
そのとき、私のすぐ右隣にある窓の外から、何やら話し声が聞こえた。
体育館の出入り口前には、館内と校舎とグラウンドを繋ぐ渡り廊下がある。その廊下に面している窓だ。
横目でチラリと見ると、窓の外から必死で体育館内を覗く3人の女の子の姿が確認できた。
そのうちの1人は、見覚えのある女の子──柔道部の見学に行ったり、七緒を夏祭りに誘っていたあの「超東先輩ファン」の1年生、子リスちゃんだ。
約4ヶ月ぶりに見る、くるくるふわふわのショートヘアも黒目がちな瞳も、相変わらずだ。小動物みたいでとても可愛い。
だけど今ここに彼女がいることには驚きを隠せない。
だってこの時間、普通だったら4時間目の授業中では?
無意識のうちにそちらへ目線が行き、耳がダンボ状態になる。
女の子たちがキャピキャピとテンポ良く話す声を、必死で拾ってしまう。
「うわぁ、人がいっぱいで誰が誰だかわかんないよ」
「テニス部の吉岡先輩の写真撮影、見たかったのにー」
「私だってサッカー部の日野先輩と北山先輩を見るために来たのに」
「授業抜け出してきた意味ないじゃん。戻るー?」
「もうちょっと。どうせ体育だしバレないって」
なるほど。私のこの位置からだと窓を覗く3人の顔しか見えないけど、彼女たちは体育の授業中のジャージ姿ってことか。
確かにグラウンドからここまでなら距離もあまりないし、少しくらい抜け出してお気に入りの先輩ウォッチングをしていても大丈夫そうだ。
3人の中でもやっぱり特に小柄な子リスちゃん。ぴょんぴょんジャンプと背伸びを繰り返しながら、中を見ようと必死だ。
「あーん、見えないー」
そんな子リスちゃんを、もう1人の女の子が冗談ぽく軽く小突く。
「あんたは良いよ。こんな陰からこそこそ覗かなくたって、その気になりゃ先輩とのツーショットだってピン写真だって撮り放題じゃない。付き合ってるんだから。可愛いと得だわー」
名前も知らないその女の子の言葉が、私の心を占領する。
子リスちゃんはプクリと頬を膨らませると、2人の友人に反論した。
「そんな、簡単に先輩の彼女になれたみたいな言い方しないでよー。あたしだって超頑張ったんだよ?ほとんど毎日柔道部の練習見に行って、ルールとか全然わかんないけど本とか読んで必死で勉強してさぁ。急にテレビで柔道の大会とかも見始めちゃったから、家族にもビックリされるし」
「でもそれが実ってめでたく付き合えたんだ?」
「えへへ、そうなのー。もうすぐ1ヶ月記念」
「はいはい、ノロケごちそうさまー」
今3人の話している言葉が、なんだか遠くから響いてくるような感覚だ。
もちろんじゅうぶん聞こえてはいるし、内容も理解できているはずだけど、頭の芯の部分が毒に侵されたように痺れて、上手く機能しない。
つまりこれって──アレだよね。ほら、アレ。
気が付くと、私はずいぶんガッツリと3人を凝視していたらしい。
ふいに彼女たちと目が合う。
見つかっちゃった……という顔で、3人がピタリと静かになる。
すると、子リスちゃんが人懐っこい笑顔を私に向け、人差し指を自分の唇に当てた。
「内緒にしてネ、先輩」
七緒は嘘つきだ。
好きな人なんかいねーよって、昨日言ったばっかりじゃん。
こんな可愛い彼女がいるなんて、しかも1ヶ月前からだなんて、隠さなくてもいいのに。
私バカだから、昨日の言葉を今までちゃーんと信じてあげてたのよ。
──ううん、違う。
本当は嘘ってわかってた。
昨日、七緒が愛の告白を受けている現場に遭遇したのに自分自身やけに冷静だったのも、そのわりにずっと胸のざわざわが止まらなかったのも。全部、わかってたから。
七緒に大事な人ができたんだなって、わかってたから。
だってあんな切なそうで大人びた表情を見せられたら、いくらバカな私だって気付かざるを得ないよ。
だけど水くさいよね。幼馴染みの私にくらい、本当のことを言ってくれてもいいじゃない。
私、からかったりしないのに。
ちゃんと祝福してあげられるのに。
子リスちゃんのピンクでうるうるな唇がそれ以上言葉を発する前に、私は窓の傍から離れた。
つまりこれってアレだ。──私、失恋したんだ。
こんなにもあっさりと、雑然とした場所で。