8<アンニュイと、恋は盲目>
目の前に広がるのは、どこまでも果てしない青空。
眼下には豊かな木々と、色とりどりの花。一番目立つのは桜で、少し離れたところにはチューリップ、タンポポ、かすみ草、あじさい、ひまわり、コスモス……。
あれ。なんか季節が滅茶苦茶だ。今って確か11月下旬、れっきとした冬じゃなかったっけ。
「まぁいっか、そんなことはどーでも」
私と七緒は今、気球に乗っている。
自由で気ままな空の旅。このままどこへだって行けそうだ。
「楽しいね、七緒!」
隣の七緒に微笑みかけると、彼もとても優しい顔で笑い返してくれた。
「楽しくねーよ」
「え?」
「悪いな心都。俺、しつこい女は嫌いなんだ」
笑顔と台詞が一致していない七緒を目の前に、私は後方へ2、3歩よろめいた。
狭い気球内、すぐに背中にぶつかるはずの壁が、なぜかそのとき、消えた。
……これが何を意味するかというと。つまり、よろけた私を制御するものは何もなく、そのまま地上へ真っ逆さまだ。
落ちる瞬間、目に焼き付いたのは、爽やかな笑みを浮かべる幼馴染みだった。
ぎゃあと叫ぶのと同時に、上半身を跳ね起こす。
「心都、大丈夫?」
美里が心配そうな顔で覗き込んでいた。
辺りを見回す。
そこはもちろん気球の中でもお花畑でもなく、見慣れた教室の風景だった。教室内には数人しかいない。更にそのちらほらいる生徒たちも皆、帰り支度をしている。
「もうホームルーム終わっちゃったわよ。最初気持ちよさそうに寝てたから起こさなかったんだけど、急にうなされ始めるんだもの、ビックリしちゃった」
頭がハッキリしてきた。帰りのホームルームの担任の話が長くて長くて(しかもその内容が、霜焼けを早く治す方法とかいうどうでもいい雑学だったものだから)、つい座ったまま舟をこいでしまった。
たった10分程度うたた寝しただけなのに、なんと鮮明で濃ゆい悪夢だろう。
「だ、大丈夫、ありがとう。ちょっと夢見が悪くて」
最近、高いところから落下する夢が多い気がする。
落下、つまり落ちる夢、か……。
「……ははっ……」
全く面白くないのに、自然と力ない笑みがこぼれた。
「……本当に大丈夫?」
美里が心配そうに覗き込む。
受験まであと約3ヶ月。できればもう不吉な夢は見たくないものだ。
帰り支度を終え、美里とふたり教室を後にする。
ストーブで暖まった場所から一歩出ると、ひやりとした寒さが全身を包んだ。
「どんな悪い夢見てたの?」
美里が寒そうに両手を合わせながら、尋ねる。
彼女の制服のスカートは当然のようにミニ丈で、そこから白くて綺麗な足が伸びている。
この寒いのに、すごいなぁ。私は感心した。
というか、大半の女子は美里と同様、冬でもミニで頑張っているけど。
私なんか冬服は夏服に比べてほんの少しだけスカートを長くしている。だって足が寒いんだもん。冬の寒さと澄んだ空気は好きだけど、膝が冷えてキンキン痛くなるあの感覚はちょっと苦手だ。
「うーんとね、七緒と一緒に気球に乗って、お花畑を見下ろしてた」
「あらメルヘンね」
「そのあと『しつこい女は嫌いだ』って言われたけどね」
ぷ、と美里がふき出す。
「あ、笑ったね。ひっどーい」
「ふふ、ごめん。だって、5年間も七緒くん一筋な心都の恋が『しつこい』のひとことで終わっちゃったら、もう根本から否定され過ぎてて笑うしかないわよね」
「……う」
「大丈夫よ。悪い夢は、人に話せば逆夢になるのよ」
階段を降りながら、美里が励ますように私の肩をポンとたたく。
「そうだといいんだけどさー……なぁんか最近、七緒が変なんだよね」
「変って?」
夏の終わり頃からの幼馴染みの様子を振り返り、つい眉間に皺がよる。
「私といるとき、なんかやけに冷たいなぁと思ったら、急にイライラしたり、とんでもなく無茶な意見を突き通そうとしたり……あとボーっとしてたり、しかめっ面してたりすることも多いんだよね。いつもってわけじゃなくて、普段通りのときももちろんあるんだけど」
最初は「燃え尽き症候群?」だとか「受験ノイローゼ?」だとか勘ぐったりしたけど、どうやらそれは違うようだ。ここ数日間注意深く観察してみたところ、その七緒の妙な態度は、他の友人といるときには発揮されていない。
つまり七緒は、私にだけ冷たくて、私にだけ怒りっぽくて、私にだけ理不尽で……。うぅ、こんなのさすがにちょっとヘコんでしまう。
「さっきの夢じゃないけどさぁ、私ついに嫌われ始めちゃったかなーなんて、ちょっと思ったり思わなかったり……」
「あらら大変ね」
言葉とは裏腹に、美里の口調はどこか明るかった。
「…………美里、楽しそう」
「やだ、拗ねないでよ。大丈夫、心都が心配してるようなものじゃないと思うから」
「……そうかな」
「色々あるのよ、この時期。ほっとくのが一番。というか今心都が『何その態度!』なんて問い詰めたら、多分七緒くん混乱して死んじゃうわよ」
うーん、死んでほしくないなぁ。
美里があまりにも自信たっぷりに言うものだから、私はわかったようなわからなかったような微妙な気持ちのまま頷くしかなかった。
そんな私の腑に落ちない表情に気付いたのだろうか。下駄箱に上履きをしまいながら、美里が苦笑いをした。
「そうそう、七緒くんっていえば……最近、七緒くんファンの女子たちの間で何が話題か知ってる?」
「えー、なに?」
「ほら、あと何週間かしたらクリスマスでしょ。この時期はいつも七緒くんに告白する女の子たちが増えるじゃない?」
確かに、と私は頷く。
普段から大層おモテになる七緒だけど、特にクリスマス前とバレンタインは毎年恋する乙女たちが殺到する。
「でも七緒くんは、どんなに可愛い子とか綺麗な子に愛の告白をされても、丁重にお断りするわけよ。ね、ここまでは例年通りでしょ?」
「うん」
「だけどここ最近、その断り方がちょっと変わってきたらしいのよ」
それはちょっと興味深い。
隣を歩きながらも私が身を乗り出すようにしたのを確認して、美里が満足気に笑う。
「これまでは、『今は部活が楽しくて集中したくて、それにしか興味がないからごめんなさい』っていう、そりゃあもう硬派なお断りの言葉だったでしょ。でもそれが最近は『お付き合いはできません、ごめんなさい』っていう、更にシンプルなものになったんだって」
「へぇ」
「だから、七緒くんファンの1年女子の間ではこんな考察が行われてるのよ──『東先輩の断りの決まり文句が変わったのは何故か? 単に柔道部を引退したからではないだろうか? ──否、違う! ここ最近の東先輩の、以前とは少し違うアンニュイで大人びたあの雰囲気を見よ! あれは好きな人が、もしくは既に恋人ができた可能性が高いのではないだろうか?』」
「あんにゅい?」
どこが? 私にはただ不機嫌なだけに見えるけどなぁ。
1年生の女の子たち、いくら恋は盲目とはいえちょっと七緒を神格化しすぎじゃないかしら。
思わず突っ込みを入れた後、我に返る。
──いやいや、問題はそこじゃない。
「七緒に好きな人、恋人……? マ、マ、マジで?」
「いや、噂よ噂。あくまでも推測ね」
美里の訂正も、右耳から左耳に抜けていった。
頭の中でガンガンと警告音が鳴る。
もしも七緒にそんな存在ができたのなら、ほぼ高確率で私の恋は終わる。
「……」
さっき見た夢、本当に予知夢になってしまうかもしれない──。