4<保健室と、ひとつの真実>
ぼろけた橋がある。
外国の冒険映画なんかに出てきそうな、板とロープだけで作られた頼りない橋。
傷みきったロープは切れる寸前といった感じで、板だって一歩踏み出せば今にも抜け落ちそう。少しの風にも大きく揺れる。もしも落ちたら、深い谷底に真っ逆さま。
私はそれを渡りたくて、だけど怖くてしょうがなくて、橋に足をかける直前で立ち止まっている。
その橋を渡った向こう岸には、七緒や美里やその他の友達、クラスメイトが楽しそうに談笑している。誰の笑顔もキラキラと輝いて、きっと今恐怖で引きつっているであろう私の顔とは対照的。
私も早く向こうに行きたい。
橋を渡らなきゃ。
なんとか自分を奮い立たせて、少しずつ歩き出す。時速1キロほどのスピードで、最新の注意を払いながら、進む。
だけど橋を半分ほど渡ったところで、嫌な風が吹いた。
ロープが揺れる。足元の板が軋む。
やばい、と思ったその瞬間にはもう遅く、橋はあっけなく完全崩壊────私は真っ暗な闇に落ちていった。
どすん! と派手に尻餅をついて、私は思わず叫んだ。
「痛ーい! もうやだ!」
手に付いた砂を払い、鉄棒を恨めし気に見上げる。
小学2年生の夏。私は、逆上がりがなかなか出来なくて、毎日のように近所の公園で練習していた。
「アホ。ちゃんと鉄棒持ってなかったら落ちるに決まってんだろ。しっかり力入れて持て。腕も伸ばすな。空に向かって走るような感じで蹴り上げるんだよ」
と偉そうに言うのは、8歳になったばかりの七緒。
対する7歳9ヶ月の私も、ムッとするやら落ち込むやらで、もう完全に不機嫌になりかけていた。
「いっぺんに言われたってわかんないよ……。もともと運動神経がないんだもん、私」
「運動神経のせいにしたって始まらねぇだろ。練習すれば出来るようになるんだよ」
日差しが強く、暑い。辺りでは蝉がうるさく鳴いている。額を汗が伝う。
「次はできるかもしれねぇじゃん。もう1回やるぞ」
同じように汗をかいた七緒が、鉄棒を指し示しながら言う。
その言葉を信じて、私はもう一度鉄棒を掴む。
結局私が逆上がりをマスターするのには3週間ほどかかってしまったけど、七緒は根気強く付き合ってくれた。
初めて成功した瞬間は、本当に嬉しかったなぁ。
七緒も自分のことみたいに喜んでくれたんだった。
* * * *
目を覚ますと、保健室のベッドの上だった。
まず感じたのは、息苦しさ。そこから何秒もかからずに、鼻にティッシュが詰められていることに気付く。
ぼうっとする頭が次第に覚醒してくる。
……あぁ、そうだ。私、体育の時間にボールが直撃して、鼻血を出して倒れたんだ。橋と鉄棒同様、できればこれも夢であってほしかったけど。
ベッドの上でもぞもぞと半身を起こし、止血用のティッシュを足元のゴミ箱に捨てた。
「……起きた?」
治療スペースとベッドルームの仕切りになっているカーテンの向こうから、七緒の声が聞こえた。
「……起きた」
「入っていい?」
「うん……。あっ、ちょ、ちょっと待って! 10秒待って!」
慌てて鼻の下をこする。血の跡がついていないことを確認して、髪の毛も軽くととのえる。一呼吸置いて、「どうぞ」と声をかけた。
カーテンを引いて、ジャージの七緒が姿を見せた。当然遠い思い出の小学2年生ではなく、今現在の、中学3年生の彼だ。
「大丈夫か。気分悪いとか頭痛いとか」
「ううん、全然平気。むしろ、なんかちょっと頭すっきりしてる」
「ならいーけど」
「保健の先生は?」
「職員会議あるからってついさっき出て行った」
どうりでさっきから、室内に七緒以外の気配がしないわけだ。
「……私、ボール当たってそのままひっくり返ったんだよね?」
ベッドの傍の丸椅子に、七緒が腰を下ろす。
「うん。ちなみにそのサッカーボール蹴ったのは田辺な。変な技繰り出そうとしてミスって、とんちんかんな方向にボールが行ったんだって」
「……あぁ」
あいつ、昼休みから張り切っていたもんなぁ。愛しの栗原にいいとこ見せるチャンスだぜ! とかなんとか言って。
「あのあと栗原に怒られて涙目になってたよ」
……気の毒な田辺。私は少し同情する。
「でもボール自体はそんなに痛くなかったっていうか、ただ衝撃があっただけなんだけどな」
「あー、お前、ボールが当たった部分が云々とかじゃなく、単に貧血だって。ここに運ばれたときもむしろ気持ちよさそうにぐうぐう寝てたから、寝不足からくる貧血だろうって先生が」
なんだそれ。てっきり私、軽い脳震盪とかそういう系かと自己診断していた。単に爆睡していたなんて、ちょっと、いやかなり恥ずかしい。
もし今後の人生でまた倒れてしまう機会があったら、次こそはちゃんとバックに花びら散らして可憐に華奢に、悲壮感たっぷりにいきたい。そして目覚めるときには青白い顔で儚げに、当然鼻血ティッシュはナシで!
七緒は私から視線を外し、ベッド傍のチェストに置かれた花瓶を見た。シンプルな白い花瓶に、オレンジ色のガーベラが一輪。
「……」
「これ造花だよね」
「え、そうなの? すげーリアルだな」
「よーく見ると布だし、ほら、花瓶にお水入ってない」
「へー」
少しの沈黙。
七緒は相変わらず偽物のガーベラをじっと見ながら、何やら考えているようだった。
重く嫌な感じの沈黙ではない。静かな保健室内はなんとなく優しい雰囲気だったし、校舎のどこか遠くからうっすら聞こえる足音や話し声、吹奏楽部の練習の音色も耳触りが良かった。
ただ、七緒がこのタイミングでやけに真面目な顔で黙りこくっていたので、私は「どうしたんだろうなぁ。造花に興味があるのかなぁ。ついに内面も乙女系に傾き始めたかなぁ」とのん気にそれを観察していた。
やがて七緒は、軽くため息をつくと、私に目線を戻した。
「……さっき、ちょっと栗原から聞いた」
「え?」
「心都が最近悩んでるみたいだって。多分、受験の──こないだの模試のことが原因でって、栗原が」
「……そっか」
すごいな、美里。なんでもお見通しなんだ。
彼女は全てをわかったうえで、私が妙な見栄から今は話したくないことも理解して、無理に聞き出そうとせずちゃんと待ってくれていたんだ。だけどこうして私が情けなくもぶっ倒れるという状態になって、七緒にだけ、こっそり言ったんだ。
私を思ってくれている親友の気持ちを感じ、心が温かくも痛くなる。
ごめんね美里──ありがとう。
「……勉強のことで悩んでたのか」
七緒は静かな声で訊ねた。
少し迷ったけど、頷く。もう完全にバレてしまっているようだし、誤魔化せそうにない。
「……まぁ、ちょびっとね」
「ぶっ倒れるくらいになるまで、なんで誰にも相談しないんだよ」
「だって、自分の問題だから……」
七緒が眉根を寄せる。
「……嘘ついてまで隠すことないだろーが。なんでそこだけ急に他人行儀なんだよ。俺だって栗原だって、心都がいつもと違うことくらい気付いて──だから心配してたんだろ」
少し怒ったようなその言い方に、私は口をぎゅっと結んだ。少しも視線を逸らさずに、七緒と向かい合う。こうしていないと涙が出てきてしまいそうだったのだ。
お互い睨み合うような形になった。
「い……言えるわけないじゃん。七緒なんかに」
「……は?」
七緒の目がますます細められる。
「なんだよそれ」
「────七緒はさ、なんでも1人でちゃんと決められるし目標のために頑張ってるし、夢へ羽ばたきかけてキラキラ輝いてるじゃん。すごいじゃん!」
真っ白なシーツの上で、拳を固く握りしめる。
今まで胸にくすぶっていた感情が爆発する。
「……でも! 私って本当にダメダメなんだもん! こんな時期になってもD判定でうじうじしてるし、焦ってばっかりで何もできてないんだよ! 本当に自分が嫌で嫌で、どうしようもないんだよ! 頑張ろうって七緒と約束したばっかりなのに、応援してくれてるのに……こんなの格好悪いじゃん! 劣等感maxじゃん! おいてかれちゃう気がするじゃん! 言いたくないじゃん! 察しろよバカ!」
どうにか涙をこらえながら、一気にまくしたてる。
あぁ。勢いに任せて言っちゃったぞ。最後の方は半ば八つ当たり気味になってしまったし。
……どうしよう。
早くも後悔の念を抱く。だけど今更あとには引けないので、七緒を睨むように見つめ続けていた。
幼馴染みの彼は最初こそ驚いたような顔だったけど、私の長い言い分が進むうち、みるみる怒りの表情に変化した。
そして大きく息を吸うと、叫んだ。
「アホか!」
私に負けないくらいの大声だった。
そういえばついさっきもこいつにアホって言われたな。いつだっけ? と記憶を辿り、それが夢の中の出来事(正確には7年前の出来事だけど)だったと気付く。
逆上がりについてアホ呼ばわりされたあのときと同じように、私の胸には開き直りに近い反逆心が芽生える。
「どうせアホだよ! D判定だよ! ひどい!」
「そういう意味じゃねぇよバカ!」
七緒は怒りのパワーをみなぎらせ、鬼教官並のビンタを今にも飛ばしてきそうな勢いだ。
「俺が1人で何でも決めて頑張ってるって……自分自身はダメダメだって……お前、本当にそう思ってんのかよ! バッカじゃねェの!?」
私から目を逸らさずに、変わらずの激しい口調で七緒は続ける。
「俺が夏に自分の進路と目標を一番にお前に話したのは……『心都だから』話したんだよ! 他の誰でもなく心都に聞いてほしくて! お前に話すことで、まだ不安で迷いがあった自分の背中を押したんだよ! お前が応援するって言ってくれたから頑張れてるんだよ! 支えになってんだよ!」
七緒の表情が、怒りと戸惑いと悲しみの混ざった複雑なものになる。
伝えることに必死で、自分自身の心に言葉がついていっていないような、そんな顔。
「部活やってた頃だって、練習とか試合の度にお前の応援に力もらって、だからこそ毎回よっしゃ勝つぞって気持ちで臨めて……それがどんだけパワーになってるのかわかんねぇのかよ! それでもお前、自分のことダメダメで何もできない格好悪い人間だって、自分以外の周りばっかり輝いてるって、そう言うのかよ!」
七緒がぎゅっと拳を握りしめる。
私は混乱の極みにいた。
七緒は、何を言っているの?
「……お前がいなかったら俺、ほんと気持ちブレるし強くないし不安だらけだし、俺なんて────」
「な……七緒?」
色々一気に言われて、頭がついていかないんだけど。
私はおずおずと呼びかけた。
とりあえず七緒の独白を止めさせてあげたかった。彼自身、超特急の勢いに引っ込みがつかなくなっているような気がしたし、なんとなくこれ以上叫び続けるのは少し辛そうに見えたのだ。
別に七緒が涙目になっていたとか声が震えていたとかではないけど、私はなぜか思っていた。
このままだと、七緒が子供みたいに泣き出しちゃうんじゃないかって。
ハッと我に返った彼は、バツが悪そうに口をつぐんだ。
「……」
「……」
七緒はうらめしそうに私を睨んでいたかと思うとおもむろにカーテンを引いた。
「……っ、とにかく! 同じこと何度も言わすなアホ!」
そしてそのまま、ぴしゃりとドアを閉めて、行ってしまった。
私は呆然とその場に取り残された。
予想外すぎた七緒の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
「えぇと……つまり」
私は今一応、感謝されたんだよね?
じゃあ、なんで彼はあんなにブチ切れているんだ?
七緒のあんな言葉、初めて聞いた。
幼馴染みの彼はいつも気持ちが強くて、冷静で、1人でも歩いていけて、なんだって自分で乗り越えられる──そんな人間だと思っていた。
だけど、七緒。
「……七緒にも、不安になることがあるの?」
私はずっとずっと、大きな勘違いをしていた。
彼にだって不安や迷いや劣等感があって、でも負けないように頑張っているんだ。
そして七緒が言ってくれたように、私がそのために少しでも役立っているのなら、こんなに嬉しいことはない。
ねぇ七緒。
完全にダメダメ人間ってわけでもないのかな、私──。
「……」
のそのそとベッドから起き上がり、カーテンの向こうの治療スペースへと移動する。
とりあえず、私も授業に戻らなきゃ。美里も心配しているだろうし。
そう思ってなにげなく壁掛け時計を見上げ、驚いた。5時間目の体育はおろか、6時間目だって終わって、もうとっくに下校時間だ。
私ってばそんなに寝ていたのか。
──そして、七緒、目が覚めるまでいてくれたのか。そういえばジャージ姿だった。私がぶっ倒れてからずっと傍にいてくれたのかもしれない。
彼に謝りたい気持ちでいっぱいになったけど、そうしたら今度こそ本気で怒られてしまうんじゃないか。──そんな気がした。